第230話 想いとける、そのときまでに

 エリンスの周囲を二つの白き炎の残滓が舞い続ける。

 それは、エリンスが持つ二つの力の相互反応によって溢れ出した想いの爆発だ。

 今までは体内で留めて通わしていた力だ。剣の刃に乗せて放出することが辛うじてできていた程度のことであった想いは、今や身体全体からオーラのようにして放つことができるほどに高まった。


 シドゥの冷渦の真骨頂、悪鬼羅雪あっきらせつが彼の想いを具現化したものであるならば、エリンスが身に纏うそれも同じものだと言える。

 シドゥの想いを深く閉じ込めた氷の鎧を『破壊』し、そんな彼の想いを『否定』すると強く覚悟した意志こその表れだった。


「ぐっ」とシドゥは奥歯を噛み締めて、悔しそうな表情を浮かべて振り返った。

 がらがらと崩れはじめた氷の鎧、鬼のようにシドゥを象っていた禍々しい結晶は砕けてとける。

 シドゥは呆然としたように、焦点の合わなさそうな目をエリンスへと向ける。

 エリンスは真っすぐと見つめ返してそれにこたえた。


「気づいているんだろう」


 エリンスが問いかければ、シドゥの瞳は迷うように揺れる。


「彼女は、おまえを待っ」

「もういいんだ! 今さら、戻ることなどできはしない」


 腕を振り払い、かき消される言葉。

 怒りの感情が溢れ出すのを我慢しきれないようにして、シドゥの目からは涙が一滴、流れ落ちた。


「そんなことは」

「憐れみはいらない。貴様を殺してでも、俺は先へ進む」


 払うよう剣を振って、シドゥはまたもやエリンスの言葉を遮った。

 瞳に宿る揺らぐ意志、氷の鎧は砕けた。だが、それでもシドゥの覚悟はまだ折れていない。

 乱暴に片手で振り上げられた剣、一歩二歩と近づいたシドゥに、エリンスも剣を振って受け止める。

 悪鬼羅雪あっきらせつがとけた今、弾かれることもなく受け止めることができた。


「うぜぇんだって、言ってんだよ!」


 枯れる声、叫びは絞り出されるようにしてエリンスの耳にまで届く。

 もう一滴、涙がシドゥの目から零れ落ちるが、それはすぐに彼が身に纏う冷渦の魔素マナで凍り付いた。


――まだ、とけきらない!


 乱暴に振り続けられるシドゥの剣撃を、エリンスは全て受け止め続ける。

 弾いては、振り下ろし。弾いては、振り下ろされて。そうして、シドゥは想いを吐き出すかのようにエリンスの刃を叩き続けた。

 一歩また一歩とエリンスは後退り、屋根の端に追い詰められる。いよいよエリンスにも後がなくなったところで、エリンスは両手に力を込めて最後の一撃を受け止める。

 両者刃に体重を乗せるように両手で握り、鍔迫り合う。合わせた視線の先でシドゥの瞳は未だに揺れている。


「この、頑固者が!」


 エリンスが目いっぱいの力で弾き返すと、シドゥは数歩よろめき、吹き飛ばされるようにして後ろへと下がった。

 エリンスが数歩前へ出たところで、シドゥも同じ歩幅だけ後ろへ下がる。

 両者そうして距離を保ったところで、肩で息を繰り返し、視線を交わした。


 口ではそう言いながらも、シドゥが既に認めていることにはエリンスも気がついている。

 すっかりシドゥの目にあった怒りや冷たさなんてものは覚めきっていて、揺らいだ覚悟はその全身同様ボロボロだ。力無く垂れ下がる右腕の先、手に握られている黒い剣の刃も欠けている。


「くっ」と悔しそうに歯を噛みしめたシドゥは、よろよろと一歩、二歩とエリンスに近づいた。


「貴様に、何がわかるって言うんだよ!」


 右腕は振り上げない。シドゥが振り上げたのは、剣を手にしていない左手だ。

 力いっぱいに握られた左拳が、エリンスの右頬を捉える。

 エリンスは口の中に広がる血の味を呑み込んで「ぐっ」とこらえ、真っすぐと向きなおるとシドゥを睨んで返事をする。


「わからないに決まってんだろ! おまえの辛さは、おまえにしか理解できないものだから。それをわかっただなんて、軽々しく言えるはずがない!」


 叫びながらエリンスも左腕を振り上げる。


「だけどそれでも、止めてやるのが、手を伸ばすのが、同じ勇者候補生として、同志として、俺が選んだ道だから!」


 一発お返しだ、とばかりにエリンスが握った拳もシドゥの右頬をえぐった。

 素直に殴られたシドゥはよろけるように数歩下がった。顔を上げようとはしない。その瞳は影に落ちてしまった。


「くっ、くく……くふふははは」


 表情を見せないままに肩を揺らして一人笑い出したシドゥは、そのままよろよろと一歩二歩と下がって行く。

 そうしてから立ち止まったのは、屋根の淵。それ以上先へは戻ることもできない場所だ。


「シドゥ!」


 エリンスが手を伸ばして一歩前に出て叫んだところで、シドゥは顔を上げた。

 そのまま落ちるのでは、とエリンスも考えてしまったのだが、シドゥは開きなおったかのように清々しい顔をしていた。


「……勇者候補生として、か。よく言う、落ちこぼれのくせに」


――『この、落ちこぼれが』


 エリンスにそう初めて烙印を押したのは、シドゥだ。

 あのときは酷く冷たい男だとも思った。だけど、その瞳はあのときからとても寂しい色をしていた。

 今も同じだ。シドゥはずっと独りで背負って、独りで歩み過ぎた。


「もっと、もっと……あの試験のときに、貴様の心を折っておくべきだった」


 刃の欠けた剣を持ち上げるシドゥは、眼前でそれを振るわせると力強く握り込む。

 刃の向こう側、シドゥの目はエリンスの目を真っすぐと見つめている。


「そうしておけば、こうして、貴様に邪魔をされることもなかった……! 落ちこぼれと見下して、それで終わりにした俺の落ち度だ」


 腰を低くしてそのまま剣を構えるシドゥの瞳は語っている――「俺を止めてくれ」と。


「終わりにしよう、エリンス・アークイル!」


 シドゥが踏み込んでくる一歩、エリンスも願星ネガイボシを構えて一歩を踏み出した。


――おまえが、それを望むのならば!


 エリンスも最後の瞬間まで気を抜くことはなかった。

 前傾姿勢のままに視線を交わし、近づいた二人の距離。

 衝突した刃、その向こう側で互いの視線が真っすぐと相手を射抜く。

 弾けた金属音、同じタイミングで切り返す二人の刃。

 力任せに振るわれるシドゥの追撃を、エリンスがいなして弾いたところで、シドゥに大きく隙が生まれた。

 エリンスは「くっ」と歯を食いしばりながら、願星ネガイボシを両手で握る。


――もう、想いは届いた。おまえの凍てつく想いだって、とけただろ!


 剣を振り上げて、その刹那――シドゥは覚悟を決めたように目を細めた。

 エリンスが振り下ろす一閃、シドゥはそれを受け止めようと剣を構えたが――その刃はいよいよ限界を迎えて砕けてしまう。


 シドゥもこうなることはわかっていたのだろう。

 だが、独りで進み過ぎた道で、止まる手段をもう持ち合わせてはいなかったのだ。

『今さら、戻ることなどできはしない』、それは紛れもなく――想い砕けてとける末に出たシドゥの本音だった。


――だったら、俺が止めてやる!


 エリンスの覚悟を包んで燃え上がる白き炎。

 エリンスが放った一閃は、シドゥを叩き斬ることはなかった。

 それは想いが刃を包んだからなのか――振り下ろされた一撃が叩きつけるようにして破壊したのは、シドゥの足元、屋根だ。

 そのままの勢いでシドゥは階下へと、叩きつけられるように落ちて行く。


 落下の最中、意識を失うシドゥの身体は玉座の間に積もった瓦礫と雪の中へと沈むようにして見えなくなった。

 死んではいないだろう――とそれを確認し、エリンスは屋根に開いた未だ崩れる穴から飛び退いて着地する。

 そして、剣を鞘に納めて空を見上げた。


 青空にかかりはじめた灰色雲は、ラーデスアらしい空を彩っている。


――死んで許されると思うなよ、シドゥ……。


 彼の境遇に同情の余地があったとしても、彼がしてしまったことは、帝国に多くの犠牲を生んだ悲劇を作った。帝国は壊滅、幻英ファントムとともに惨劇を先導した罪は重いだろう。

 それを独りで全てを終わらせて、死んで償いを果たすなんてことで許してやることはできない。ちゃんと向き合うべきだ。


 ただ、エリンスは迷っていた。

 このままシドゥを勇者協会に引き渡していいものなのか。


 人は歴史を繰り返した。それは、ラーデスア帝国が犯した禁忌だったのかもしれないが、世界にその流れを作ったのは勇者協会だ。

 また、隠蔽される。最悪の場合、秘密を知りすぎているシドゥは勇者協会に消されてしまうかもしれない。否、そうなる可能性のほうが高いだろう。


 曇っていく空を見上げて、そのようなことをエリンスが想ったところで、黒き炎の羽ばたきが視界の隅に見えた。

 エリンスは咄嗟に首を振ってそちらへと目を向ける。やはり、屋根の上へと飛んでやって来たのはアグルエだった。


「アグルエ、無事だったか!」


 疲れも忘れ安堵に包まれて笑いかけるエリンスに、だが、アグルエは顔を合わせようとはしなかった。横を向いたまま表情はうかがえず、アグルエはそのまま手を差し出した。


「エリンス、ちょっと来て」


 どういうことだろう、と疑問に思いながらもエリンスはその手を取る。

 戦いの消耗が二人の力を抑え込んだのだろう。今度はすんなりと手を取り合うことができはしたものの、アグルエはやはり目も合わせずに振り返って、その手を引いて空へと羽ばたいた。


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