第229話 薄氷の道を踏みしめて
白くなっていく視界の中、エリンスの頭の中に響いたのはいつかみたいな懐かしい声だった。
「全く、
頭に柔らかい感触があって、エリンスは薄っすらと目を開ける。真っすぐ前を向いているというのに、「くふっ」と優しく微笑む白き仙狐の顔を下から見上げる形になった。
大きなもふっとした尻尾がエリンスの腕をくすぐるように撫でる。その感触が妙にはっきりとしていて、ぼんやりとした意識の中で声だけが響いた。
――なんで……ツキノ、が?
エリンスの想いが言葉になることはなかったが、遠のいていく意識の中で返事はしっかりとしてくれた。
「エリンス、お主はまだやれるぞ。全然本気なんか出してないではないか。
懐かしい声だ。幼き日に何度も交わしたツキトの声が響き渡る。
やはりこれもあのときに見たような夢なのだろう。それか、死に際に見る走馬灯か。
エリンスがそんな風に考えたところで――。
「
ぴしっと額に柔らかい痛みが走った。
怒ったようなツキノの表情から見るに、指で弾かれたらしい。
「
ツキノは全然そんな調子を表情にも出さずに言う。
――なんだよ、それ。遊んでる、のか……。
「遊んでなどない。まあよいわ。
――なんの、話だよ。
ツキノは「やれやれ」と首を振って、エリンスのそんな疑問にはこたえてくれなかった。
「エリンス、お主はまだ恐れておるだけなんじゃ。自分のことをもっと信じるんじゃの」
優しい言葉が胸から全身に響き渡る。
エリンスの胸のうちに灯っているのは白き炎。そして、首から提げている覚悟の重さを感じた。
「レイナルも言っておったじゃろうが。
改めて冷静になって見ると、胸のうちに二つの炎の揺らぎを感じることができた。
二つの白き炎。エリンスが生まれながらに継いだツキノの力と、資格を得てあの日授かった勇者の力。
その温かさに気づいたら、こうして寝ているわけにもいかないんだと思わされるようだ。
――そっか、俺だけ……じゃあ、やっぱり、シドゥに背負わせるわけにはいかないな……。
想いなおすと意識がハッキリとしてくる。ツキノは励ましてくれたのだろう。
「そうじゃ、その想いじゃ。シャキッとせい!
もう一度額を指ではじかれた。ツキノの膝は驚くほどに温かくて柔らかい。
その痛みもそんな感触も夢であっただろうに、はっきりとエリンスには残っていた。
◇◇◇
ゆっくりと立ち上がったエリンスは、目を開けてその眩しさに驚く。
――ここは、王城の屋根の上か。
足場はやや傾斜、積もった雪も残っている。広がる青空には雲が再びかかりはじめていた。
雪化粧が施された山々、崩れた城壁が下のほうに見えるほどに高い場所。街のほうまで望むことができる。よくよく目を凝らせば、アーキスたちの姿を見つけることができるかもしれない。
ただ、今はゆっくりとそうしている暇もない。
「まダ……立ち上がるというのカ、貴様ハ」
驚いたように声を上げるシドゥに、エリンスは真っすぐと対峙した。
驚くのも無理はないか、とエリンスも思わされる。
胸から腹にかけて背中まで貫いたように感じた痛みは、身体が引き裂かれたのではないかと錯覚するほどのものだった。だが、エリンスの身体はなんともなく繋がっている。
どうしてか、とエリンス自身も疑問に思うのだが、胸元で強烈な白き光を放っているのは、首から提げたツキノとの契約の証だ。
――あれは、夢じゃない。ツキノが守ってくれたのか。
エリンスがそう思うほどに、エリンスも無意識のうちに放出した白き輝きが、シドゥの斬撃を防ぐ役目を果たしてくれたらしい。
「まァ、いイ……死ぬまで続けるだけダ」
一度驚いたようにはしたものの、シドゥはあくまでも冷静に低い声で呟いた。
シドゥもエリンスが手も足も出せないことには気づいているだろう。
だが、エリンスも諦めてはいなかった。手にしていた
――これだけは、手放さなかった!
意識は手放そうとも。
剣を手にしたままだったことにエリンス自身も驚きはしたのだが、それでもやはり、その手にしている覚悟はあのときの決意を思い出させてくれる。
あの夜空に誓った想い。その刃に宿した名は、
そう名づけたのは覚悟を忘れないためだ。エリンスは度々、戦いの最中でそうやって何度も振り返って想い続けてきたことだった。
「おまえに背負わせはしない! シドゥ!」
ツキノが言った言葉がエリンスを後押しする。
――ありがとう、ツキト。やっぱりおまえとの約束が、俺を突き動かす!
友を失っても諦めなかった道だ。その果てに今があるというのならば、やはりエリンスに諦めるという文字は存在しない。
首から提げた重さを胸に、エリンスは深く一度深呼吸をすると、剣を構えて腰を落とした。
瞬間、そうしたエリンスへとシドゥは屋根の上を滑るようにして突進する。
――あの氷の鎧が、全ての想いに蓋をしてしまう!
振り上げられる氷の刃に、エリンスは横へかわしながらうまくその突進攻撃をいなす。
しかしここはもう、先ほど戦っていた玉座の間ではない。屋根の上だ。足元にも気を配り距離感にも気をつけなければ、弾き飛ばされただけで、足を踏み外しただけで、その時点で勝負はついてしまうだろう。
シドゥの力任せの斬撃を受け止めるだけでリスクが生じる。
「
エリンスがそう考えている間にも、振り返ったシドゥが再び剣を振り上げた。冷気を纏う巨大な一撃だ。
だが、エリンスもこうして何度も攻撃を受けている間に段々と見切ることはできてきた。まともに斬り合うと後がないことも、もう思い知っている。
――生半可な想いであの鎧は砕けない。ならば、どうする?
思考は繰り返しながらも、シドゥの斬撃を見切り完全にかわす。
エリンスが攻撃を見切りはじめていることにも気づいたのだろう。シドゥは「チッ」と舌打ちを鳴らして、刃を切り返し、続けざまに攻撃を放った。
「
シドゥが振るった衝撃から発生する風。
吹き荒れる冷気がエリンスへと襲いかかり、エリンスはそれを左手に纏わした白き炎を振り払い、否定した。
身を伝う寒気に足が竦みそうにもなる。飛び退いて滑るように着地して、だが、怯まないように一歩を前に踏み出す。
その際もエリンスは思考を止めなかった。
――これは、一か八かの賭けか……否!
そんな中途半端な想いでは届かない。
決意を固めて一歩飛び出したエリンスは反撃に出る。構えた剣を振り抜く。
見切りやすい正面からの攻撃、それはシドゥが振り払う氷の刃に弾かれる。
その重さにも驚かされるが、これはまだ計算のうち。屋根から滑り落ちそうになったところで、エリンスはもう一度地面を蹴って飛び出した。
――勝負は、次の一撃!
キリッとした真っすぐな眼差しに、シドゥは氷の鎧の向こうから冷たい眼差しを向けてこたえた。
「まダ、諦めないカッ」
「諦めるわけがない!」
二人の刃が交差して、再びエリンスは弾かれる。だがその言葉通り、エリンスはもう一度飛び出した。
「暑苦しイ」
「何度だって言ってやる。俺は、おまえのことだって救うって!」
「救いなどなイ、腐った帝国、歪んだ世界にハ!」
そうだ――この世界は歪んでしまった。
二百年前に起こったこと、勇者と魔王が取り戻した
まだ――知りたいことは知れていないんだ。シドゥにも知り切れなかった真実が、この世界にはある。
『どうせ、おまえらの辿る先にあるモノは、俺が見る絶望と同じものなのだから!』
――シドゥが帝国に絶望を見たのと同じように、あいつは何を見たというのだ。
二人は再び刃を交差させ、弾き飛び退き、語る。
「そうかもしれない。歪んでしまった世界では、救いすらなかったのかもしれない」
――亡き親友が語った、世界にもたらすべき真の救済。俺は、まだこの世界の果てにあるモノを見たいんだ。
「……あァ?」
「でも、シドゥ。おまえだって、気づいているはずだ!」
「何ガ、言いたイ」
「おまえが他の全てを捨ててでも守りたかったモノは、おまえにしか守れない」
エリンスは二つの想いを胸のうちで交差させ、真っすぐとした眼差しでシドゥへ向かって再び飛び出した。
シドゥはこたえない。こたえられない。
「俺は約束したんだ。必ずおまえのことを止めるって。『大切なモノを守って救えるのが勇者』なんだろ!」
エリンスの想いに共鳴して、エリンスの胸のうちで白き炎が二重に燃え上がる。
それはシルメリナが信じた想い。幼き彼女が、まだ幼かったシドゥに言われて、ずっと胸のうちで信じた言葉。シドゥがシルメリナのことを守りたいと願ったように、シルメリナもまた、シドゥのことを守りたいと願っている。
――『わたくしはもう、諦めていたというのに』――『哀れだわ』――『これ以上、お兄様の手を汚させないで』。
エリンスの胸のうちで、彼女と交わした想いが繰り返し湧き上がる。
――俺にはこうして彼女の頼みを聞いてやることはできても、彼女を真の意味で救ってやることはできない。
「だかラ、うぜえんだヨ、貴様ハ!」
苛立つシドゥが刃を振り上げた。エリンスはそのタイミングで一度減速し、地面を蹴ってもう一歩を踏み出す。
――この想いを真っすぐぶつける。
その一太刀に、エリンスは全てを込めるように両手で
――壊してでも止めるという『破壊』の想い。シドゥの想いを強く『否定』する覚悟。
エリンスの周りで二重の白き光が舞い上がった。エリンスの全身をメラメラと包み込んだ燃え上がる炎は熱さを伴わない。だが、その胸のうちの熱意は冷たい氷に閉じ困ったシドゥにも届くような勢いで、エリンスはもう一歩を踏み出し、剣を振りかぶった。
想いのこもる蒼き刃は白き輝きに包まれて、純白の剣身が二重に燃え上がる。それに伴って、エリンスの全身からも白き光が一層溢れ出した。
「シルメリナのことを救ってやれるのは、おまえだけだろうがぁぁ!」
振り抜く純白の一閃、エリンスはそのまま駆け抜け、シドゥを斬りつける。
シドゥは氷の刃でそれを防ごうと振るうのだが――その手にしていた剣を覆っている氷が砕けた。
それどころか、鎧にもピシッと一閃走るヒビ。まるで胴体をも切断する勢いがあったエリンスの一撃を、シドゥは防ぐことができなかった。
剥がれていく冷たい氷の鎧の向こうで、シドゥはその事実が認められないといった調子で驚愕の表情を浮かべる。
その背後でエリンスはたしかな手ごたえを感じていた。
否定し、破壊する二つの白き炎がエリンスの全身を包むように揺れている。
エリンスはただ真っすぐと、砕けた氷の鎧の背中を見守っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます