第185話 近づく脅威
空と海、どこまで飛んで進もうと、青い色が広がっている。代わり映えがあるとしたら、そこに浮かぶ白い雲の形くらいだろう。
流れゆく雲を目で追えば、魔導船の数倍の速度で翔けていることもわかる。変わらない速度で翔け続ける
ただ、
アグルエが魔法によって空間を維持してくれているおかげだが、それにしたって集中力がいるのは言うまでもない。
四人の候補生がタンタラカを出立してから既に三時間。エリンスは真剣な様子で集中を続けるアグルエの背中を見つめて、その先を見据えていた。
そうしたところで、広がる景色に変化が見えた。前方遠くに小さく土色と緑色が入り混じった陸地が現れる。
「見えてきた! ミルレリア大陸だ!」
エリンスが叫ぶように声を出したところで、集中していたアグルエも頷く。その後ろでは、心配そうに見守っていたマリネッタとメイルムも笑顔を見せた。
見下ろすように近づいてきたミルレリア大陸。
西に広がる黄緑色一面の大平原が、エリンスたちもファーラス王国へ向かう際には徒歩で抜けることとなったファーラス大平原だ。その中心を分断するように流れる大河を目で追うと、遠くには灰色の城壁に囲まれた王城と水色に輝く結界が薄っすらと見えていた。
四方八方を高い城壁に囲われた城下街。中央に
大河を下った大平原の手前には港町が見える。方角と位置を考えると、それが当初の予定では魔導船で寄ることになっていたレンタラス港だろう。
そうすると前面に広がるのは、灰色に曇った空に白い雪化粧を施されている山々、ファーラスとラーデスアの国境に広がる山脈地帯だった。
その山脈を越えた先に広がるのがラーデスア雪原。そしてその先に聳え立つ山々の間に構えられるのが、山岳城塞都市ラーデスアとラーデスア城。北の大国ことラーデスア帝国が既に目の前にある。
雲が厚く薄っすらとした陽の光しか届いてはいないが、特段天気が荒れているわけでもないのが救いだろう。ただ、景色が霞んでいるせいで遠方に望めるはずのラーデスアの姿は見えなかった。
「もう少し?」と横顔を見せたアグルエに、エリンスが「あぁ」と頷いて返事をすると、瞬きを弾かせて笑顔を見せてくれる。
マリネッタもそんなアグルエの笑顔を見つめながら、エリンスの背中越しに声をかけた。
「アグルエ、大丈夫そう?」
「うん、平気!」
視線を前方へと戻したアグルエは、声を明るく頷いた。
「目標は、国境の町ベルムトでしたよね」
メイルムが確認するよう口にする。マリネッタの背中にしがみつきながらも、
エリンスは考えながらも返事をした。
「町の近くに降りると混乱が生まれるかもしれない。ちょっと離れた森の中にしよう」
ただでさえ魔族軍の話で混乱が生じていることは想像できる。厄介事になるような話にはしたくない。
「『そうしましょう』」
昨晩、ディムルやレイナルも交えて方針は決めてある。
最前線となっている国境の町ベルムトに向かえば、そこに滞在していると思われるリィナーサに話を通すことができる。彼女と話をつけて勇者協会に協力を申し出ることが最善だ、とレイナルは語っていた。
ベルムトでどう話がつけられるかはわからないが、ディムルとレイナルもベルムトを目指して後から追ってくると言ってくれている。状況を確認した後それを信じて待つこともできるだろうし、やはりそれが最善だ。
エリンスがそのようなことを考えている間にも、空を翔ける
いよいよラーデスアは目前だ。七日かけず辿りつけそうなことに安堵の息を吐こうか、とエリンスが息を吸った――そのときだった。
急に速度を落とす
「近づく気配がおる!」
「うん……」と続けて、不安そうにしたアグルエも頷いた。
下方に広がるのは雪化粧をする岩肌を剥き出しにした山脈たち。上には分厚い灰色雲。
遠くまで見渡してもエリンスには何も目視できなかったが、どうも二人の様子を見るに近づいているのは気配だけのようだ。
まだ遠い――そう楽観する気持ちもあった。しかし、辺りを包む重苦しい空気は、突如としてのしかかってきた。
「この魔力は」
「既に囲われておる!」
緊張感を含むアグルエとツキノの言葉に、マリネッタも杖を手にして口を開いた。
「強大な魔力が、近い!」
メイルムがそれに返事をするようにして、
「『きます!』」
それを合図にするかのように、突然と目の前の空間が裂けた。そいつは――その狭間より姿を現して、閉じていく裂け目を背後にし、大きな翼膜を広げ、黒光りする翼をはばたかせてにやりと笑う。
タキシードを着て黒いマントを垂らし、手や顔から見える皮膚の色は紫色。短い金髪に何とも目立つのは額から伸びている一本の白い角。吊り上がる目つきに、金色の瞳が鋭く光り、長く伸びた赤い爪で片目にかけたモノクルをいじる。嫌らしく笑い、裂けるような口元から覗く牙と長い蛇のような舌。そのどれもが、そいつが魔族であるとひと目して語っている。
「我は頭がいいだけでなく、運までいいときた。『魔竜』とはなぁ? 先見の目があるものよぉ」
右手に短い杖を手にして撫でながら、魔族は高らかに空を見上げた。
「あなたは……」
驚きながらも発したアグルエの声に、こたえたのはツキノだった。
「魔王候補生でもない。長い時間を生きている魔族じゃ!」
その声を聞いて、マリネッタとメイルムにも緊張が走る。
エリンスは咄嗟に考える。
――今、この状況で戦うのは不利だ。
「メイルム、全速力で逃げるぞ!」
魔族と敵対して、ときは一刻を争うことを誰もが理解する。
エリンスが叫ぶその前には
「無駄だよぉ」
魔族はにやりと口元を吊り上げて笑った。
その背にいた候補生たちは、身構える前に襲ってくる衝撃に身を震わせる。「うわっ」と思わず声を発したエリンスに、それぞれはバランスを崩すようにして
「きゃああ!」と大きな悲鳴を上げたメイルムがずり落ちそうになって、エリンスは慌てて手を伸ばしてその腕を掴んで引き上げた。「くぅ」と噛み締めたアグルエに、連鎖するようにして
「囲われておると言ったろう!」
ツキノも振り落とされないように踏ん張って、姿勢を低くし尻尾を立てる。
「壁が?」
戸惑うように首を振ったアグルエにつられて、エリンスも周囲を見渡した。
前後も、上下も、右も左も、そう囲われていては逃げ道がない。
「ずははははは! 飛んで火にいる夏の虫とはこのことよ!」
エリンスはその魔族の姿にどこか見覚えもあった。その笑い声を聞いて――それが確信へと変わった。
「その笑い方……」
「うん、そうだよ、エリンス。『
アグルエが察してこたえてくれた通り、笑い方を見て思い出す顔がある。
「ずはははは! 我こそは
嫌らしく笑う口元で、その名を語る魔族は両腕を広げて高らかに宣言する。
「魔族の、知り合い?」
嫌なものを感じ取ったのだろう。しかめた顔で言ったマリネッタに、アグルエはエムレマイルから目を逸らさないまま「ううん」と首を振った。その質問にはエリンスがこたえる。
「こっちで倒した魔王候補生の……関係者ってところだろ」
「ずははは、息子は貧弱。候補生としても出来損ないだったらしい。こんなまだ小娘の
エリンスは、そんな風に笑って言うやつを『親』と呼んでいいのか迷った。
「あいつは……許せないやつだったが、納得したよ」
小言で零したその言葉はエムレマイルまで届かなかったらしい。
「ずはは、今や貴様らは虫かごの中の蝶も同然。我が魔力を込めれば、羽をむしり取るのも容易いわ。ゆっくり、ゆーっくりもぎ取ってやろう」
目を細めたエムレマイルが手にした杖を結界へと向けてくる。結界全体が薄く紫色に光り出し、
それと同時にアグルエが広げていた空間制御の魔法が消えた。「くっ」と苦しそうな顔をしたのはマリネッタとメイルムだ。
――これは、一体?
エリンスには何とも効果を表さない。そう思って見定めれば、考えつくことがある。
「魔力を吸う結界らしいのう」
ツキノは膨らませた尻尾を立てて警戒の意志を見せ続ける。
「ずははははは、こっちにきて消費した分、補充させてもらおうぞ」
エムレマイルは高らかに笑う。捕らえた気になって余裕綽々の表情だ。
「……そういうことかよ」
どうしようかとエリンスが考えはじめたところで、アグルエは苦しそうにしながらも横目を向けてきた。
「エリンス、あいつの魔法は、覚えてる?」
魔族は親と子で魔力を継ぐ――『借乗伯爵』とアグルエは口にした。そのことからもわかる。有している魔力は、あの魔王候補生――エムレエイと変わらないということだろう。
他人の魔力を上乗せして借りて自分のものとする魔法。『借乗』は、魔導士が相手するには分が悪い。
「エムレマイル、通称、借乗伯爵。非合法な魔力の売り買いまでする、お父様も手を焼いたちょっとした悪人なんだよ」
アグルエが額に滲んだ汗を手で拭いながら、説明を続けてくれた。
エムレマイルはそんな風に話すアグルエを見ても、光る杖を嫌らしく向けながらにやにやと笑い続ける。
「あの杖に、人の魔力を溜め込んで、商品にしているの……」
いよいよアグルエの語気も弱くなってきた。エリンスにはわからないが、この結界はそれだけ魔力に干渉してくるものなのだろう。
『借乗』――かつて対峙した魔王候補生の持っていた力を思うと、そういう力の使い方までできるということらしい。ただし、今相手にしているのは魔王候補生なんて『子』ではない。人を食い物にしようとする、正真正銘の魔族だ。
「大量、大量! 人間の
勝ち誇るように笑うエムレマイルに、エリンスは腰に携えた
「無駄だぁ。どんな武器でも魔法でも結界が吸収する。人の力など効きやしない。その結界はなぁ、人間を閉じ込めて吸い尽くす特別製なんだよ。ラーデスアでもいっぱい吸った。けど、勇者候補生の貴様らには及ばない、ちっぽけな魔力だったよ。ずはははは!」
そう言って高笑いするエムレマイルに、エリンスは思い出したくない嫌な顔を重ねた。思い返すと悔しくもなって、剣を握る手に力が入った。
エリンスは背中にしがみついているマリネッタにだけ聞こえるようにと声を絞った。
「マリネッタ、合図をしたら、一早く飛んで離れてくれ。空間の維持はマリネッタにもできるだろ?」
――借乗の範囲に、魔導士はいないほうがいい。
「できるけど、離れるって……どうするつもり?」
マリネッタの呼吸も荒い。それだけこの空間は魔導士にとって苦しいものなのだろう。
エリンスは空いた左手でアグルエの背中に触れた。そうすることで、アグルエは何かを察したようにして顔だけ横に向けて頷いた。
「あいつの魔法のことは、一度戦った俺たちが一番わかってる。だから、後から追う。ベルムトで合流しよう」
落ち着いたままに首だけ後ろへ向けてそう言ったエリンスに、マリネッタは上目を合わせて小さく頷いてくれた。
「……わかった。必ず、合流しましょう」
マリネッタもそれだけ聞いてエリンスとアグルエの覚悟を察してくれたらしい。
返事を聞いたエリンスが頷くと、その後ろでメイルムも頷いた。
その間にもエムレマイルは、結界の前を陣取るよう空中に見えない椅子を作り出して腰かけた。
もう手は下したとでも考えているのだろう。膝を組んで、どこから取り出したのかもわからないワイングラスを指の間に引っかけて、そこにまるでワインを注ぐかのように杖を傾けて合わせた。紫色の液体となった
「ずははははは! 苦しみ枯れていく様は、我ながら美学!
嫌らしく目を細めるエムレマイルに、エリンスも嫌悪が先立った。単純に気色が悪い。差してそう言われたマリネッタやメイルムにしたら余程だろう。
躊躇いはいらない――エリンスはその勢いで腰に携えていた
胸のうちに湧き上がる白き炎を剣に込めるようにと想いを込めて――その拍子にツキノはアグルエの肩の上へと飛び乗った。
後のことはアグルエが支えてくれる――そう信じたエリンスは、
狙いは紫色に輝く結界の一面――想い込めた一閃を下から上へと振り抜く。
――
「今だっ!」
叫んだエリンスに、マリネッタは頷いて
エリンスが放った一撃は、エムレマイルの結界を断ち、砕く。亀裂となって広がった隙間より、強く翼を打った
緩やかに落下をはじめたエリンスは、背中に温かいものを感じて上昇――飛び上がる。
「な、なんだと! ま、魔竜がぁ! 我の餌が!」
慌てたように立ち上がるエムレマイルは、そのまま
だが――その前に立ち塞がったのは、黒き炎を翼として広げるアグルエと、背中を支えられて飛び上がったエリンスだった。
「追わせると、思うか?」
エリンスは力を込めた視線を逸らさず、剣を横に払って構える。腕を広げてゆく手を遮るようにして、立ち塞がった。
エムレマイルも舌打ちをしながら体勢を整えて、魔竜を追うには先にエリンスを相手にしなければいけないのだと悟ったらしい。
「ずぬぬぬぬ……邪魔をしてくれるな、勇者候補生」
当然、後を追わせない――決意を胸に、勇者候補生は借乗の魔族と対峙した。
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