第76話 傷と動揺


 エリンスはラージェスの腕を首に掛けて肩を支えて、身体を引きずるようにして玉座の間を離れた。

 力の入っていない身体は鎧の重量も合わさってとても重い。

 その鎧の裂け目からは流れ続ける赤い血が足を伝って、床へと黒い染みを広げていく。

 医者ではないエリンスから見ても、一刻も早い治療が必要なことくらいわかる。

 しかしエリンスは治癒魔法を扱えない。


「くっ……」


 目の前で起こった悲劇の瞬間――見ていることしかできなかった己の弱さが悔しくて、エリンスはぎゅっと目を瞑った。

 ベダルダスの相手はアーキスとメルトシスに任せて、ただひたすら逃げるように、階段を下りてまた下りて――そうして1階、中庭の一角へと辿り着く。


 花壇には丁寧に手入れされた青い花が並んでいる。

 対角線上――荒れ果てたままになっている一角は、先ほどアーキスとアブキンスが争ったところ。

 それに比べて踏み荒らされていないこちらでは、花たちが健気に揺れていて、エリンスは無意識のままに足を止めた。


 屋上より吹き抜けた風に揺られ、エリンスの鼻先を項垂うなだれたラージェスの髪先がくすぐる。


「……今は、立ち止まっている暇もない」


 悔やんでいても、事態が変わるわけではないのだから。

 一旦城から出る。

 一刻も早くラージェスを医者がいる場所まで連れていかなければならない。


――ギィーッ


 エリンスが前を向きなおしたのと同時に、扉がきしむ音が聞こえた。

 続けて聞こえたのは「はぁ、はぁ……」と上がった息を落ち着かせるようにする荒い呼吸。

 城の入り口、大きな両開きの扉の前。

 閉まった扉の向こう側をうかがうようにしているのは、両膝に手をついて息を整えるアグルエだった。


「アグル! エ……?」


 聞こえるようにと名を呼ぶエリンスであったが、その様子がおかしい。

 まるで強大な魔物から逃げてきたかのように――顔色も血の気が引いたような真っ青で、しきりに後ろ・・を気にしている。

 エリンスの声が届いた様子もない。


「アグルエ!」


 もう一度聞こえるように名を呼んで、アグルエはハッとしたようにエリンスのほうへと顔を向けた。


「エリンス……! ラージェスさん!」


 アグルエはようやく呼ばれたことに気づいたようで駆け寄ってきた。


「アグルエ、どうしたんだ?」

「ううん……それよりもラージェスさんが!」


 アグルエの顔色が戻っている。

 それだけを確認したエリンスは身体を低くし、花壇へと腰掛けた。

 ラージェスを床へ寝かせようとするアグルエに合わせて腕を離した。


「酷い……」


 背中から腹まで貫いた後が見える傷を確認したアグルエは、ラージェスを仰向けに寝かせてから傷口へと手を翳した。

 ラージェスを挟んでエリンスの対面に腰を下ろしたアグルエが口を開く。


「まだ、息はある」

「あぁ……どうにかできるのか?」

「最善と全力を尽くす!」


 目を瞑り集中をはじめたアグルエの顔を見て、エリンスは口を閉じる。

 頼もしい返事ではあった。

 だけど、先ほどの表情が頭から離れない。


「癒しの力――それだけじゃ足らない。わたしのおもいを乗せるわ」


 瞳を閉じながらも目尻の端から涙を流して集中を続けるアグルエを、エリンスはただ見守った。

 アグルエの両手が白く光を放つ。

 同時に胸元のペンダントより透き通る綺麗な黒い炎が噴き出した。


「――――、――、――――」


 目は瞑ったままのアグルエは、エリンスには聞こえないような小声で詠唱を続ける。

 アグルエの身体を伝って流れる黒い炎がラージェスの全身を包んだ。


 傍から見ていたエリンスにも、そこに込められた想いが伝わってくる。

 温かくて、優しくて、柔らかい。


――この黒い炎は、燃やし尽すための炎じゃない。


 エリンスはただただ静かに、アグルエの胸元より溢れ、天へと昇るように弾ける黒い炎の残滓を目で追った。


 治癒魔法は、魔素マナによって生命に活力を与える魔法だ。

 魔導士は魔法の入門の基礎として、治癒魔法を習うと聞く。

 ちょっとした擦り傷であれば、幼い魔導士でも治すことができる。

 エリンスに扱うことはできないが、理論と魔素マナの使い方がわかれば、そう難しいものではないものだ。


 だが、アグルエがこうして行っている治癒魔法・・・・は、明らかにエリンスが知っているそれではない。

 アグルエは滅尽めつじんの力を最初に説明してくれた時、『自由自在に操れる想いの炎』だと語っていた。

 ここまで共に旅をしてきたエリンスは――黒い炎アグルエの温かさを知っている。


 何をしているのか、今更聞いたところで野暮なことだろう。

 それにどうしてもエリンスの脳裏には、先ほどのアグルエの表情がちらついてしまっていた。


「……終わったよ」


 そう言ってアグルエは立ち上がる。

 ボーっとしたままに眺めていたエリンスも慌てて立ち上がった。

 疲れたような表情は見せているものの、笑うアグルエの表情を見て、エリンスは安心感を覚えた。


「傷は塞いだ。傷ついた内臓も、多分治せたと思う」


 額より垂れる汗を拭ったアグルエの金髪がキラリと輝く。

 寝かせたままのラージェスの表情は、眠るような穏やかなものへとなっていた。


「よかった……」


 エリンスの口から思ったままに言葉が零れた。


「うん……」


 アグルエは肩で息をするようにして、返事をする。


「大丈夫か?」

「大丈夫だよ、それより状況は?」


 無茶をさせてしまっただろうことはエリンスにも想像がついた。

 そのまま話を続けていいものかと迷ったが、事は緊急事態。

 エリンスは状況をそのまま伝えることにした。


「……ルミラータたちが姿を晦ました。玉座のほうはアーキスとメルトシスがなんとかしてくれる」

「そう……あの二人に任せておけば、そっちは平気そうだね」


 アグルエが笑ってこたえた。

 二人への信頼は厚い。


「メルトシスが言ってた。多分結界のところだろうって」

「うん、ツキノさんもあの部屋にはまだ何かあるって言ってた」


 エリンスは頷いて返事をする。

 アグルエも合わせて頷いた。


 二人の気持ちは一つだ。

 だが、エリンスには気掛かりが残っている。


「アグルエ、その……何か、あったのか?」

「ううん、ツキノさんとアメリアちゃんは無事に勇者協会まで送り届けてきたよ」


 首を横に振って金髪を揺らし、アグルエは「何もない」といったような表情で口にする。


「でも、アグルエの表情が……」


 エリンスは、真っ直ぐ――アグルエの瞳を見つめて逸らさない。

 アグルエは分が悪そうな顔をして、青い瞳を少し逸らした。


「うん……何かはあった。だけど、それは全部終わってから話す!」


 アグルエは決意の灯った瞳を向けなおす。

 それを見て、エリンスは何も言えなかった。


「今はこの国に迫る脅威を止めなきゃ。ルミアートが語ったことがそのまま起こるんだったら、大変なことになる」


――全部終わってから話す。


 その言葉を飲み込んで、力強く返事をした。


「あぁ! そうだな!」

「きっと無関係じゃないから……だから、止めよう! 全力で!」


 エリンスは心配を振り解くように首を振って、今はアグルエの言葉を信じることにした。

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