第58話 地下水道の隠れ家
ざぁざぁ、と水の流れる音が薄暗い地下に響いている。
湿気纏った臭いが鼻にこびりつくようで、ジメジメとした空気も合わさって、お世辞にも心地よいとは言えなかった。
ファーラス城下街の排水用のものなのだろう。
人が歩ける通路の横を、少し濁った水が川のように流れていた。
壁に備えつけられた
設備が整っているということは、点検の際などに人が出入りする場所ではあるようだ。
大きな水路が地下に存在していることに、世界の広さを思い知らされる。
「足元、暗いから気をつけて」
ツキノを肩に乗せたエリンスは、後ろを歩くアグルエとアメリアへ声を掛けた。
「うん、大丈夫」
アグルエはしっかりアメリアと手を繋いで、先導するように足元の安全を確保しながら進んでいた。
複雑に入り組んでいる通路に、似たような光景が続く地下水道は、道がわからないものが立ち入れば迷って出られなくもなるだろう。
しかし、エリンスは女騎士より聞いた言葉を忘れないように復唱しながら進んだ。
曲がり角に差し掛かるたび言われた順に辿った先で、四人の前にドアが現れた。
地下水道の壁に備え付けられたドアの隙間から、ぼんやりと温かい光が溢れている。
「ここか」
「そうじゃのう」
何が待ち受けているのかわからないが、不思議とエリンスは安心感を覚えた。
ツキノも特段警戒している様子がないところを見るに、敵の罠ということではないようだ。
エリンスは覚悟を決めてドアを開け、中へと入る。
そこはどうやら地下水道の整備の際などに使われる休憩室らしく、ベッドやソファーに備え付けられた棚が並んでいて、人が少しの間暮らすにしても不便がなさそうな空間だった。
何よりも目に入ったのは、その部屋を包むような流れる視認できる
それはまるで街を包んでいる結界のようなもの。
ドアの隙間から溢れていた温かい光は、この結界によるもののようだ。
地下だというのに、そのおかげで部屋の中は明るい。
「なんでしょう……国のものではないですな?」
エリンスらの侵入を察したのだろう。
奥の部屋から人影が姿を現す。
エリンスは慌てたように返事をした。
「女騎士に言われて、辿り着いたんだ」
返事をしたところで人影と顔を合わせる。
エリンスはその風貌にどこか見覚えがあった。
紋章が刺繍されたローブを着ている杖を突いたおじいさん。
長い白髭を顎から垂らし、シワによって垂れた目つき。
ただその目の奥には、未だに衰えを感じさせないような輝きが垣間見える。
物腰が柔らかそうな雰囲気と同時に、厳しさをも併せ持つ芯を感じさせる。
格好は魔導士のようなものだが、腰には剣を差していて、おじいさんが剣士でもあることがわかる。
「……今の街の状況で、ラージェスが頼ったということですか」
おじいさんは考えるようにして、エリンスを眺めている。
エリンスも見覚えの正体を自分の記憶の中から探った。
そうして、すぐに思い出す。
かつて、シーライ村へ寄っていった騎士学校の教員。
シルフィスが恩師と呼んでいた、その人だ。
「ウィンダンハさん?」
確かめるように聞いたエリンスに、おじいさんは眉を動かして「ん?」と言葉を
「わしの名を知っている?」
「俺はエリンス・アークイルといいます。
シルフィス・エスラインの弟子の一人で、勇者候補生になりました」
エリンスが名前を告げたところで、おじいさんにも思い当たることがあったようだ。
「あぁ、あのエリンスくん! 存じておりますとも」
そう言って「ふぉーほっほ」と笑い声を上げたのは、ウィンダンハ・ダブスン。
ファーラス王国に名を残す剣士であり魔導士でもあって、引退後はファーラス騎士学校の教員の立場に就いて、後任を育てることを生きがいとした。
勇者協会からも認められ、世界の歴史にすら名を残す魔導剣士の一人だ。
「わたしは魔導士のアグルエです。この子を任されてしまって」
そこで一歩前へと出たアグルエは、横に並んだアメリアのことを示しながら申し出た。
ウィンダンハはアグルエとアメリアのことを見比べてから口を開く。
「そうでしたか。救出は成功した、と。
わしはウィンダンハ・ダブスン。彼女の頼みを聞いてくれたこと、礼を言いましょう」
エリンスはそこまで聞いて、この人なら今の街がどういう状況なのか知っているだろうと悟った。
「ウィンダンハさん、教えてくれ。今ファーラスでは何が起こっているんですか」
そう聞いたエリンスに反応するように、ツキノも肩の上で尻尾を揺らす。
「ふむぅ。街へ入るのも苦労したことでしょう」
「はい、勇者候補生の立ち入りが禁止されたと検問がありました」
「あなたたちはうまくやったようですが……」
そこでアグルエが口を挟む。
「街の結界、一体何が起こっているんですか?」
「見るものが見れば、気づきますのう。
おおよそ、あなたたちが感じている
ファーラス王国の結界装置に細工がされ、そこから幻術と呼ばれる魔法が拡散されている事実。
『国王様の命令は絶対』だと暗示が広がって、それにより何者かが国を支配している現実。
黙ってしまったエリンスとアグルエを見て、ウィンダンハは言葉を続けた。
「わしはファーラスの異変にいち早く気づくことができた。この部屋に結界を掛けて閉じこもったのです。
あなたたちにその子を頼んだのは、わしの弟子、ラージェス・ソレアタ。国の騎士をしています。
ラージェスはこの結界の中で生活をしているため、幻術の影響が少ないのです。
国がこうなってしまっては、数少ない味方なのですよ……」
エリンスはそう聞いて、気になることがたくさんあった。
アメリアを見て『救出』と語ったウィンダンハの言葉。
あの女騎士――ラージェスもまた、メルトシスを助けにいくような旨を話して去っていった。
この国の中では、平和なように見えて、もう既に戦いがはじまっているのだ。
エリンスがそのことを聞こうとした瞬間、何やら鋭い眼差しをしたウィンダンハが口を開いた。
「アグルエといいましたか、あなたは魔導士ではない――人間ではないですね?」
エリンスにも緊張が走る。
アグルエも思わずアメリアと繋いだ手に力が入ってしまったようだった。
黙ったままのツキノも、ウィンダンハの出方を探るように構えている様子だ。
返事ができなくなってしまった二人に、ウィンダンハは言葉を続けた。
「そう警戒なさらず。長年生きていると、知りたくないことも知ってしまうものなのです。
エリンスの目を見てそう言ったウィンダンハに、エリンスは頷いて返事をした。
ウィンダンハもアグルエに対して、それ以上深く立ち入ろうとはしなかったのだ。
しかし、アグルエはエリンスが思いもよらぬ返事を口にした。
「この街を包んでいるのは、人間じゃない、魔族の
「うむぅ。そうなのでしょうな」
ウィンダンハも気づいていたようだ。
「わたしは、この魔法に心当たりがあるんです」
街に近づいたときより、アグルエの様子が少し変だったことが、エリンスは気に掛かっていた。
それは単に街の異常を感じ取ったから、というだけではない気がしたのだ。
『これは間違いようもなく――魔族の
そう語ったアグルエの――あのときの表情をエリンスは思い返す。
その間にもアグルエは口を開いて、思い詰めたように言葉を吐き出す。
「『
『
ファーラスに入り込んだ魔族は、その
アグルエはずっと悩んでいたのだ。
きっと、街に近づいたときから敵の正体がわかっていたから。
港町ルスプンテルは、
それが意味することは、ファーラスにも逃れられぬ災禍が迫っているということだ。
否――ウィンダンハの話も合わせて考えるのであれば、この街はもう既に災禍の中だ。
その名を聞いて、エリンスも覚悟を決めた。
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