第9話 決闘 ――2――
勝負が決したかと思われた瞬間。
アグルエのペンダントが吹き飛んだその瞬間。
エリンスは辺りの空気が一変したような、なんとも言えない奇妙な感覚に襲われた。
まるで空が暗くなったかのように錯覚し、空気が震え、寒気を伴う恐怖に似たようなものを一瞬だけ感じた。
しかし状況を見ても空は雲一つない晴天で、何か辺りに変化が起きたわけではない。
メルトシスにもエリンスと同じような奇妙な感覚が生じたのだろう。
メルトシスは止めを刺そうとしたその手を引き、アグルエから距離を取るようにして離れた。
勝ちを確信し爽快な表情をしていたその額に、汗が光ったようにエリンスからも見えた。
吹き飛ばされてしまったアグルエは受け身を取って立ち上がり、自分の胸元より吹き飛んでいったペンダントを拾い上げると、静かにエリンスのほうへと寄る。
決闘の最中だというのに決闘相手に背を向けるアグルエの姿。
己から背を向けるということは、それだけで騎士道に反するものだとされているのだが、それに対して誰もが口を出すことはできなかった。
「これ、預かっといて」
エリンスは何故だかわからないが、自分の元へと寄ってきたアグルエの表情を見ることができない。
「わかった」と静かに返事をして鎖の切れてしまったペンダントを預かることしかできなかった。
今までのアグルエと、どこも変わったところはないのに――。
目の前にきたアグルエを、どこか劇的に変わってしまった別人のように感じてしまう。
エリンスはアグルエから手渡された漆黒の宝石のついたペンダントを眺めた。
最初にアグルエの胸元にあったところを目にしたとき、不思議な印象を覚えたことを思い出す。
まるで見ているこちらをも引き込もうするような感覚があった――しかし今エリンスの手元にある漆黒は、ただ朝日に照らされ薄っすらと輝きを放つだけだ。
ペンダントを預けて勝負の場へと戻っていったアグルエは、再び剣を片手にメルトシスに向きなおると口を開いた。
「こうなっては仕方ない。使うつもりはなかったんだけどね」
次の瞬間、アグルエの右肩から噴き出た黒い炎は、アグルエの右腕から右手、手にしている剣までをも飲み込んだ。
「わたしも負ける気はないから!」
「なんだその魔力、とんでもねぇ……」
驚いたような声を上げるメルトシスが、感嘆としたまま続ける。
「国の爺さんが言っていたことを思い出す……。
一流の魔導士は、その
故に
今まで戦いを楽しんでいる様子だったメルトシスにも焦りの表情がうかがえた。
たしかにすごい魔力だった。
『あまり魔力を感じないエリンス』からしてみても感じ取るだけの、溢れ出る
アグルエの右肩から先を包んでいる黒い炎は、昨日勇者協会でジャカスに放った黒い炎と同じものに見えた。
ただそこに感じる
尋常ではない、明らかに異様だ。
アグルエが一体何をしているのか、エリンスには想像もつかない。
アグルエは口にしていた。使うつもりはなかった、と。
「言ったでしょ、この力にはリスクがある。
まあ今すぐどうにかなるとか、後遺症が出るとかそういったものではないんだけど」
「……面白い! 本気になってくれたということか!」
メルトシスは再び笑う。
強大な魔力を相手にして一瞬焦りを見せたものの、より一層戦いを楽しんでいるようだった。
エリンスの目にはそれが信じられないものに映る。
まだ彼には戦いを楽しむ余裕が残っていたのか、と。
そもそも刃を交える戦いを楽しむということが、エリンスにはわからない。
どうしてそうまでして、メルトシスは剣を振っていられるのだろうか――それはエリンスにないものだ。
今度先に勝負を仕掛けたのは、メルトシスのほうだった。
黒い炎を纏い立っていたアグルエに向かって、地面を蹴って飛び出したメルトシスはその勢いのまま加速し、再び
横から飛ぶような残像――後ろから襲い掛かるような残像――そして本体は――アグルエの左側、黒い炎を纏っていないほうを狙ったもの。
アグルエはその攻撃を剣で受け止めようとはせず、避けようともしなかった。
自身の右腕に纏った黒い炎をまるで翼のように広げて背後を包み、大きく広げた黒い炎をしならせて、その炎でメルトシスの剣を弾いて見せた。
不思議な光景だった。
質量のないはずの炎で、質量のある剣を弾き返している。
アグルエの扱う黒い炎は昨日の一件を思い出しても不思議なものだった。
ジャカスの左手を包んだ黒い炎に、ジャカス自身最初は熱さを感じていないように見えたものだ。
今アグルエが纏っている黒い炎にも、アグルエ自身が熱さを感じている様子がない。
だから、あの黒い炎は気体が燃えている現象ではない、ということだ。
「そんなのありか、よ!」
黒い炎に剣を弾き返され驚くメルトシスはしかし再び切り掛かる。
「だったら、これは!」
メルトシスが
先ほどと同じように、アグルエは自身の前方に広げた黒い炎でそれを防ぐが、今度は弾くことができない。
メルトシスの剣撃に合わせて、黒い炎が途切れ、裂けた。
攻撃を弾くことをやめたアグルエは黒い炎を盾にし、一歩引いてかわす。
ただ、かわすだけではなかった。
盾にしたことで裂かれた黒い炎がメルトシスの腕へと這うように伝わっていき、メルトシスはそれに驚き、今度こそ攻撃の手を止め飛び退いた。
メルトシスは右腕を包んだ黒い炎を、腕を振って風の魔法を起こして消火した。
「熱いじゃねーの……!」
メルトシスの台詞からもわかった通り、メルトシスはその一瞬たしかに炎の熱さを感じたようだった。
再び剣を構えなおしたメルトシスが、大きく振りかぶってアグルエへと飛び掛かる。
それは先ほど、アグルエを吹き飛ばすほどの衝撃を起こした風の一撃を出す構えだ。
「
メルトシスはアグルエとの攻防を心底楽しんでいるように笑っていた。
「そうね、その通りだけど!」
アグルエは返事をし、メルトシスの一撃を、右手に持った剣で受け止めた。
その瞬間、アグルエの右腕を包んだ黒い炎が大きくなる。
まるで力を込めたから大きくなったかのようにエリンスの目には映った。
その衝撃は空気を震わせるほど――辺りにいた観客らも、そしてそれを一番近いところで見ていたエリンスとアーキスも、押し黙って自然と息が止まった。
時が止まったかのように感じたのもほんの一瞬。
アグルエはそのままの勢いでメルトシスの一撃を弾き返し、後方へと吹き飛ばす。
先ほどはその一撃で、受け止めた側であったアグルエが吹き飛ばされたのに。
メルトシスも渾身の一撃をこうも簡単に振り返されるとは、思わなかったのだろう。
メルトシスは「やらかした」と焦った。
本当にまずい失敗をしたとき、その予感はだいたいにして当たる。
メルトシスの一撃は、纏った風の
だから大抵の相手は、『この剣技を受けてはまずい技』だと判断して避ける選択肢を取る。
受け止めたところで、
だけどアグルエはその力を簡単に弾き返して見せた。
それどころかメルトシスは追撃までをも受けてしまっていた。
力量差を誤った、失敗した――メルトシスは自分の大技のリスクは知っているつもりだった。
そのリスクを、
しかしそれをアグルエは許してくれない。
メルトシスが空中で体勢を立て直す間もなく、アグルエは弾いた一撃に乗せて振り抜いた剣先から、黒い炎を三つ飛ばした。
まるで宙を舞ったようになった三つの黒い炎は、その形を鋭く尖った針のようなものに変え、吹き飛ばされたメルトシスを
――この追撃をそのままもらってしまってはまずい!
メルトシスは本能でそう感じた。
その追尾してきた黒い炎たちを、風の
情けない格好で地面を滑って倒れたメルトシス。
針のような形をした黒い炎を打ち消すことに成功はしたものの、身体にダメージを受けたのはメルトシスだった。
「くぅー……」
メルトシスは苦しそうな顔をして地面に突っ伏していたが、まだ諦めていなさそうだった。
立ち上がろうと手をつくが、なかなか腕に力が入らないようだ。
しかしメルトシスが諦めてなかろうと、エリンスら観客側の人間からすれば、勝敗は既に決したように見えていた。
「どうすれば勝負がつくかな」
アグルエは涼しい顔をして、地面に這っているメルトシスを眺めている。
未だ起き上がれずにいるメルトシスへとアグルエが静かに近づこうとしたその刹那――アグルエの足元を狙って、空から高純度の
アグルエは足を止めてそれを避けると、身に纏った黒い炎を消したのだった。
決闘にて当事者以外の攻撃は認められていない。
要するにその攻撃――他者の介入があった時点でもう勝負は終わったのだ、とアグルエは悟る。
「勝負はそこまでだ! あの一撃で勝敗は決した!」
天剣グランシエル――大空を操るとも呼ばれる伝説の聖剣を抜いて、天高く掲げているアーキスが観客にも届くような大きな声で宣言した。
そのレーザーのような光が、アーキスによって放たれた魔法だということは、エリンスもアグルエも、二人の戦いを見ていただけの観客にも理解ができた。
「もう十分だろう、メルトシス」
アーキスの言葉に、ようやく起き上がることができたメルトシスもただ一言返事をする。
「あぁ……俺の負けだ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます