第55話【交渉】

 運命の日がやってきた。

 あれから一週間後。

 学校側に留学の返事をしなければいけないタイムリミットを2日後に控えた今日。

 世愛せなの兄である来栖社長くるすしゃちょうが、再び家に訪れた。


「あまり時間はないんだ。できれば手短に用件を済ませてほしい」


 テーブルを挟んで俺と世愛の前に対峙する来栖社長。

 今頃他の部屋の住人たちは家族と、または愛する者と温かい会話しながら夕食を取っているのかもしれない。

 たがこの部屋に限っては、これから世愛の進路をかけた兄妹の真剣な話し合いが始まる。

 和やかな雰囲気なんか微塵もない、重く張り詰めた空気がリビングに漂う。

 世愛はどうかは知らないが、正直な話、昨日は緊張でほとんど眠れていない。


「うん。あのね兄さん.........私を海外留学させてください」


 自らの意思を伝える世愛に、来栖社長は少々驚いた表情を浮かべた。


「なんだそのことか。私はてっきり、その同居人との生活を許可してほしいと言い出すものと思っていたよ」

「いえ。俺は次の引っ越し先が見つかり次第、ここを出て行きます」


 冷ややかな中傷の視線を向けられても、落ち着いて首を横に振り否定する。

 

「兄さんには学費だけじゃなく、この部屋の家賃や生活費まで出してもらって感謝してる。私が今日まで無事に生きていけたのは兄さんのおかげ」


「無事......か。望んで見知らぬ汚れた大人の男たちに身体をいじられてきて、よく無事と言えたな?」


 やはり彼は俺と出会う前の世愛の様子を調べ上げていた。

 今となっては黒歴史と呼べる、快楽に溺れ満たされない日々――。

 呆れた表情で問う兄を前に世愛がひるむ。


「......」

「どうせその男も奴らと同類なんだろ」

「風間さんは違うの! あんな人たちと一緒にしないで!」


「前にも言ったが世愛、お前はその風間という男に洗脳されているんだ。大人というのは自分が得をするためには平気で騙し、嘘をつく。狡猾こうかつな生き物なんだよ。例え相手が子供であろうとね」


「......すいませんが、話しを脱線させないでもらえますか? 世愛の海外留学の件に俺は関係ありませんよね?」


 隣で反論しようとする世愛を手で制し、挑発を続ける来栖社長の目を見据え、釘を刺した。

 世愛本人の希望で、最初は自分の意思を伝えたいから黙って聴いていてほしいとは言われたが。まだ交渉が始まる前に彼のペースにかってしまっては放っておけない。


「確かに。失礼しました」


 じろと来栖社長はこちらに視線を返し、ため息一つ吐き出した。

 

「私の意見は変わりません。世愛の海外留学には断固反対です」


「......その理由を聞かせてください」


 ここまでは予想の範囲。

 俺が知りたいのは、来栖社長が反対する理由。

 世愛から聞かされたものはどうしても彼女の主観が入り込み、信憑性に欠ける。

 やはり直接本人の口から聞き、その上で交渉するしか手段はない。天才相手になんとも無謀な話ではあるが。


「理由は極めて単純。行く必要がないからです」

「必要がないとは?」


「世愛は高校卒業後、そのまま付属の大学に進学したのち、将来は私の会社に就職することが決まっています。ですから、海外留学など無意味だと言っています」


 冷淡に語る来栖社長。

 

「ウソ。本当は私を監視したいだけのくせに」


「そもそも私はお前に一人暮らしをさせたことは失敗だったと思っている。何の不自由も感じないよう住む部屋と生活費を与えた結果がこれだ」


 相変わらず表情一つ変えなくても、的確にこちらの急所を突いて来る。


「兄さんの言う通り、私は今まで本当にバカなことをしてきた。理解してる。でもね......」


 世愛は隣に座る俺に振り向き、


「風間さんと出会って、半年間一緒にここで生活して私、ようやく前を向いて歩けるようになったの。それまで、ただなんとなく兄さんに言われるがままの日々を送っていた私を、暗闇から救ってくれた――私から逃げている兄さんなんかより、風間さんの方が全然保護者らしいよ」


 ふわりとした笑顔を見せ、言葉を続けた。


「何をバカなことを。誰が逃げていると」


「じゃあなんで私と話す時、たまにしか目を合わせようとしないの? 私がお母さんに似てきたからでしょ?」


「お前はこれからも私の言われた通りに生きて行けばいい。余計なことは考えるな」


 世愛に言われてハっとした。

 そういえば、要所要所では世愛の目を見て語っているが、基本は世愛から視線を少しずらして会話を交わしているように思える。


「嫌だ。私、この目でもっといろんな世界を見てみたいの。これからは決められたレールの上を歩いて行くんじゃない。自分の五感で体験して、自分の意思で私の進むべき道を決める」


「子供が......養われている分際で調子に乗るんじゃない!」


 来栖社長の作り物のような笑顔が剥がれ、叫びと共に初めてが露わになった。

 細長の目は大きく開かれ、表情は険しい。肩は上下に揺れている。 


「人の金でこれまで散々好き勝手にやってきて、今度は留学させてくれとは――随分虫の良い話じゃないか」


「わかってるよ。でも」


「――今ごろ父さんも母さんも、お前を生んだことをあの世で後悔しているだろう」


 不意に血の繋がった兄から放たれた、冷酷な感情の発露はつろが妹の瞳を濡らし、こぼれさせた。


「......いい加減にしろ」


 来栖社長の、世愛の意見を一方的に聞こうとしない態度。

 ――どうやら今の一言で、俺の中の理性という名の鎖は、完全に切れてしまったようだ――。

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