第48話【喪失】

 私がずっと続くものだと思っていた平穏な日常は、ある日予告も無く終わりを告げた。


 ――原因は医療ミス。


 お母さんは高齢出産なうえ、私を産んだ際、身体に相当な負担を負っていたらしい。

 にもかかわらず、私にきょうだいを与えてあげたいという一心から、お医者さんや周囲の反対を押し切って妊娠した。

 お父さんが大事をとって設備の整った産婦人科専門病院に事前入院させたのも、そのため。 

 だけど残酷にも人的なミスによって、お母さん、そしてお腹の中にいた妹は帰らぬ人となってしまった。


 二人の葬儀の最中、親戚の叔母さんたちが原因の詳細について話しているのを目撃したが、内容が耳に届いたところで子供の私には何のことかよく理解できなかった。


 原因なんてどうでもいい。


 知ったところで、お母さんと妹が帰ってくるわけではないのだから......。


 棺の中のお母さんは、まるでお昼寝でもしているかのような、安らかな寝顔。


「......お母さん......!!」


病院の遺体安置所で対面した時は虚無。何も感情が湧いてこなかったのに、お母さんの

首元へ最期のお別れの所作で花を添えた瞬間、これまで目を背けていた感情が決壊した。


 お母さんとの思い出は決して多くはない。

 仕事で忙しい両親は私の誕生日のことなど忘れがちで、数日遅れで誕生日プレゼントをもらうなんてことは当たり前。

 妹の出産を機に、お母さんは仕事を辞めて専業主婦になる――これからは私に寂しい思いをさせないと誓った約束は、もう永遠に守られることはないと、子供の私でもわかった。


 悲しみ・悔しさ・絶望......言いようのない感情がぐちゃぐちゃに胸の中で暴れ、私は涙で顔を濡らし、お母さんの眠る棺に向かって呼びかけた。

 私の泣き叫ぶ姿を見かねて、もしかしたら起きてくれるかもしれないという、子供じみた淡い望みを抱いて......。


 ***


 お母さんと妹の死から四年。

 中学三年生になった私は、クラスの男子から向けられる視線に困惑する日々が続いていた。

 いま思えば、それは思春期の男子にはよくある仕方の無い現象だったのかもしれないけど、私だって思春期の女子だ。大勢の男子から毎日好奇を含んだいやらしい目で見られるのは、あまり良い気持ちはしない。


 小学6年生辺りから私の身体は急に

大きく成長し始め、同時に出るところも出始めた。

 あっという間に下着のサイズが合わなくなり、毎月新しいサイズを買いに一人お店に足を運ぶ。

 同い年くらいの子がお母さんと一緒に歓談しながら下着を選ぶ姿を冷めた目で流し、適当にサイズの合う下着を選んでレジに持っていく。

 一欠片ひとかけらも楽しくなんてない。

 ただの作業だ。


 なのにクラスの女子たちは、わたしのことを『三上さんはおっぱいが大きくて羨ましい。もう何人くらいとヤったの?』等と、悪意のある言葉を私に投げつけてくる。

 それが嫉妬からくるイジメであることはわかっていたけど、特に言い返すわけでもなく、彼女たちの気が済むまで耐える。

 変に反論すれば面白がり、余計に長引いてしまう。

 中学を平和に過ごすために私が学んだ、集団生活を生き抜くための知恵。


 だからクラスの担任の先生は、私がイジメられているなんてことは当然知らない。

 いじられている程度の認識だろう。

 その方が騒ぎを大きくしてお父さんに迷惑をかけたくない私にとっても、大人な先生にとっても、いろいろと都合が良いはずだ。


「......んぅ」


 自分以外誰もいない、家のお風呂場。

 シャワーからの熱湯を浴びて、つい吐息がこぼれてしまう。

 すっかり見慣れてしまった自分の成長した二つの乳房と、腰の近くまで長くなった髪からお湯が滴り落ち、足元に水溜りを作る。


 中学に入学してから、私は髪を伸ばし始めた。

 理由なんて特に無い。

 あるとすれば、自分なりに何か変化を求めたかっただけの行動なのかもしれない。

 そんなことでつまらない、退屈な日常から抜け出せるはずもないのに。


 今日も父は帰りが遅いらしい。

 スマホのメッセージアプリにはいつものように『すまん。今日も帰りは遅くなる』と定文化した文章の着信が。

 二人が亡くなって以降、父は逃げるように益々仕事に夢中になり、家庭をかえりみなくなった。

 でもどんなに仕事で遅くなっても家には必ず帰ってくる......別に無理して帰って来なくてもいいのに。


 もともと昔から仕事一辺倒な父に対して、私は少なからず不満を持っていた。

 家にいられたところでお互いほとんど会話もない。どう接していいか戸惑ってしまう。


 ......私はもう、父には何の期待もしていない。


 こんな生活も、私が大人になって家を出るまでの辛抱だ。

 そう、目の前の鏡に映る、暗い表情の自分に言い聞かせた。


 宿題を終え、布団の中に入ろうとした時には、外は雨が降り出していた。 

 これからジメジメとした梅雨の季節が本格的にやってくる。

 制服が雨で濡れると、寒いだけでなく、男子たちの視線がさらにギラついたものへと変わり注がれる。いやだなぁ。

 憂鬱な気持ちのまま、私は部屋の照明を消し、ベッドの中に潜り込んだ。

 徐々に強くなる雨と、壁に掛けられた時計の針の音が妙に気になってしまい、なかなか眠りにつけない。


 しばらく寝付けないで何度か寝返りを打っていると、玄関の方から物音が聴こえてきた。

 きっと父が帰ってきたのだろう。 

 出迎えに行くわけでもなく、そのままベッドの中で眠りにつこうと集中を続けた。

 しかし、それを妨げるように、私の部屋に父のものと思われる足音が迫る。

 部屋のドアが勢いよく開かれ、驚いて上半身を起こした私の目の前に現れたのは、全身ずぶ濡れの父だった。


灯里あかり!」


 遠慮の一切無い力で、父はベッドの中で横になっていた私に抱き着いた。


「お父さん!? ちょっと......いや、やめて!!」


 濡れた衣類が私のパジャマにくっついて、染みを写す。

 父の身体からは雨の臭いは漂うものの、お酒の臭いは全く感じられないので、酔っぱらっているという状態でもなさそう。

 だから私に抱き着きながらも、お母さんの名前を呼ぶことに尚更困惑した。


「灯里......俺......やっぱりお前がいないとダメだ」


 首筋に顔を埋めた父の、鼻を啜りながら消えてしまいそうなほど小さな声で呟く姿に、私は抵抗する力を一瞬緩めた。

 

「会社も今日辞めてきた。だから、これからは家族四人で一緒にゆっくり暮らそう......な?」


 顔を起こした父の表情は、子供みたいに泣きじゃくり、歪んでいた。


 父――お父さんも、お母さんと妹がいなくなったことに、今も苦しんでたんだ。


 その苦しみから、遂にお父さんの心は壊れてしまった――。


 私と顔を合わせようとしないのも、愛するお母さんとの思い出が甦ってしまうため――とっくの昔に忘れていたと思っていたのに――お父さんの一途さに、私の胸に熱いものが込み上げてくる。


『......ねぇ世愛せな。私に何かあったら、お父さんのこと助けてあげてね』


 お母さんと最期に会った日の、あの言葉が、脳内に再生される。


 ――これはきっと、お父さん一人に罪を背負わせた、神様から私への罰なんだ――うん。わかったよ、お母さん――。


「.........はい。あなた.........」


 お母さん、三上灯里みかみあかりとしてお父さんを受け入れる覚悟を決めた私の両の瞳からは、涙がこぼれていた。


 ――その夜、私はお父さんに『初めての経験』を捧げた――。

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