第47話【過去】

 私の家はもともと裕福ではなかった、らしい。

 というのも、私が物心ついた頃には兄さんは養子に出されたあと。

 だから今の生活があるのは養子に行った先、兄さんの現在の父親のおかげだということは、当時小学五年生だった頃の私には知るよしもなかった。


 ***

 

 ジリジリと太陽が本気を出して地上を照らし、セミの鳴き声が騒がしいくらいの大合唱をかなでていた、そんな夏日。

 一学期の終業式を終えて私が向かった先は、大きな産婦人科専門病院。

 まだ今年に入ってできたばかりだという建物内は清潔感に溢れ、壁紙等の色は妊婦さんに考慮した、安心感を与えるパステルカラーで構成されている。


 その病院の個室病棟。

 名前を確認してスライド式の扉を横に引っ張って中に入ると、入院中のお母さんが腰まで長い髪をなびかせ、優しい笑顔で出迎えてくれた。


「広いお部屋だね」


 室内は木の匂いと、嗅ぎなれたお母さんの匂い。


「お父さんが病院側に無理言ってお願いしたみたい。お母さんは相部屋のままで全然良かったんだけどね。こんな広い部屋に一人は落ち着かなくて......あ、ごめんなさい。あなたもいたわね」


 お母さんはすっかり大きくなった自身のお腹を撫で、そこに存在する、新しい家族になる予定の子へ話かける。

 私も彼・彼女の生命いのちの鼓動を感じたくて、ランドセルを近くの椅子に置くなり、そっと手を触れ優しく撫でる。


「あとどれくらいで生まれてくるの?」

「えーと、今が7月だから......世愛の学校の夏休みが終わるまでには会えるわよ」

「じゃあいつその時が来てもいいように、夏休みの宿題終わらせなきゃだね」

「そうよ。世愛せなは勉強できるんだから、後回しにしないで早くやっちゃいなさい」


 今年も夏休み最後の週に終わらせようと企んでいたのがバレてしまい、軽くさとされてしまった。

 お母さんの言う通り、私は小学生の頃から学校の成績は良かった。

 特に国語、漢字のような記憶力が重要な科目に関しては毎回ほぼ満点を記録するほど。

 ただ覚えるだけなのに、どうして周りの子たちはそんな簡単なことができないんだろうと、当時の私は同年代の子たちを少しバカにした目で見ていたふしがあった。


「ねぇお母さん。いい加減この子が男の子か女の子なのか教えてよ」

「ふふ、ダーメ」

「お母さんのケチ」


 検査で性別は既にもうわかっているというのに、私が何度訊いてもふわりとした笑顔であしらわれてしまう。


「どっちが生まれて来るかわからない方が、ワクワクが二倍になると思わない?」

「そんなの変わらないと思うけどな。私だけ知らないなんて二人ともズルい」

「文句言わないの。どっちが産まれてきても、世愛がお姉さんになることに変わりないんだから」

「お姉さん、か......」


 あと一ヶ月もすれば、私はお姉ちゃんになる。

 勉強と違って、こればかりは対策のしようがない。

 幼かった私の心は、ワクワクよりも、しっかり姉をやっていけるかどうかの不安の方が勝っていた。


「じゃあさ、一足先にお母さんたちがこの子の性別わかってるんだったら、もう名前は決めてあるよね?」


「もちろん」


「なら男の子の場合の名前と、女の子だった場合の名前、両方教えてよ。今はそのくらいで許してあげる」


「お、世愛、策士〜」


 私の提案にお母さんは見事乗ってくれた。

 名付け方の真剣具合でどっちかわかるかもしれない......子供ながらに知恵を巡らせた末の策だった。


「この子が男の子だった時は佑星ゆうせい。女の子だった時は心愛ここなかな」 

「佑星クンと心愛ちゃん?」


 頭の上に疑問符を浮かべる私に鼻を鳴らして、お母さんはベッドの近く、来客用のテーブルの上に置いてあるメモ帖をめくり文字を書いてくれた。


「ええ。佑の字には天や神様が人を助けるという意味があって、後ろに星を付けると『人助けする星』、佑星になるの。どう? カッコいいでしょ?」


「心愛ちゃんの方は?」


「心ちゃんの方はねぇ――心に愛って書いて心愛。世愛みたいにいろんな人に愛され、愛を与える人になってほしい願いを込めて、そう名付けたの」


 どちらも二人なら名付けそうな名前で、正直わからない。

 まさか双子じゃ? と思いお母さんの顔を見上げてみても、ニコニコと首を傾げて私の様子を楽しんでいる。

 どうやら、私の策は最初からお見通しだったようだ。


「......お母さんたちのネーミングセンス、クラスの男子たちみたいでダサい」


 手のひらで遊ばれた仕返しとばかり、嫌味を言ってみた。


「あいたたたっ。傷つくなぁー。じゃあ世愛は何て名付けるの?」

「そうだな......私だったらね」


 私は産まれてくる『きょうだい』の名前を、必死に考えてはお母さんに伝えた。

 どんな時も嫌な顔ひとつせず、私の遊びに付き合ってくれる、私の大事なお母さん。

 三人の楽しい時間はあっという間に過ぎていって、気付けば面会時間の終わりを告げるチャイムが鳴る頃までお邪魔していた。


「それじゃあ私、そろそろ帰るね」

「うん。お父さん今日も仕事遅くなるみたいだから、戸締りだけはしっかりしてね」

「わかってるって」


 最近お仕事が忙しいみたいで、私が眠ったあとに帰って来るお父さん。

 朝も早いので、もう一週間以上顔を見ていないことになる。


「......ねぇ世愛。私に何かあったら、お父さんのこと助けてあげてね」


 ランドセルを背負おうとする私の背中越しに、お母さんが私の頭を優しく撫でてきた。


「え? どういう意味?」

「ううん。何でもないわ」


 そう言ったお母さんの笑顔は、気のせいか、少し陰のあるものに見えた。


「変なお母さん。私の方からもお父さんに名前の候補伝えておくから。そのつもりでいてね?」

「えー。まだ諦めてなかったのー?」

「だって大事な私のきょうだいの名前だもん。二人だけに決めさせるなんて絶対させないから」

「はいはい。気を付けて帰るのよ」

「お母さんこそ。お大事にね」


 わさわざベッドから起き上がり、廊下まで見送りに来てくれたお母さんの顔が、夕焼けに照らされて輝いて映った。


 ――この姿が、生きているお母さんを見た、最後の瞬間として今でも脳裏に焼き付いている――。

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