3月9日
@tonari0407
なんでもない日
「ごゆっくりどうぞ」
ぎこちない手でカップを置いた彼女は、満面の笑顔でそう言い残し、私達のテーブルを足早に去った。その後は、ガチャガチャと慌てた様子で他のテーブルを片付けている。
大きめのカップに並々と注がれた黒色の液体。その水面は、新人らしき店員の不安と焦りをしめすかのように揺らめく。
香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
この匂いを嗅ぐのは好きだ。でも――
「困ったな」
「間違えちゃったのかしら? 」
私達、夫婦は店員に気づかれないように、内緒話の音量で言葉を交わした。
隣のテーブルには、お互いの気持ちを探るような会話で笑い声をあげる男女がいる。「え~嘘でしょ~」「マジだよ! 信じてっ! ねっ」そんな気遣いは必要なかったかもしれない。
私達が注文したのは、温かい紅茶と抹茶オレだ。それがどうして、ホットコーヒーと紅茶に変化してしまったのか。
私は他のテーブルに私達の注文の品が届いていないか、店内を見渡した。
一人スマホを見つめるサラリーマン、カラフルなお洋服をきたご婦人ご一行等、店内は賑わっているが困った様子の人はいない。
視線を目の前に戻すと、夫は伝票を見ていた。
「何て書いてある? 」
「ん、こちらは伝票通りのお品ものだ」
少しだけ顔をしかめているが、その瞳に怒りの色は見えない。
「そう、仕方ないわね。気にしちゃうかもだから内緒にしましょ?」
私はお願いの意味を含めて、夫の顔を見つめる。
間違いは指摘した方が成長できる、と普段なら言う人だ。
「そうだな。
あの子は君と性格が似てそうだから」
意外な言葉に私は驚く。そして、夫がコーヒーを自分の方に引き寄せたことにも。
「あなた、コーヒーは私が飲むわよ。
この紅茶は元々あなたのでしょ」
咎める私の声など聞こえていないかのように、彼は優雅に一口飲んだ。そしてもう一口。
「君はコーヒー苦手だろう? 」
「あなたはお腹壊すじゃない」
この行為が夫の優しさだとわかっているから、私は無理にカップを奪えない。
「熱くて美味しい内に飲みなさい。
紅茶は好きだろう? 」
有無を言わせない口調でそう言う彼の言葉に従い、ティーカップを手に取る。
鼻に抜ける茶葉の香り、琥珀色のそれは確かに私のお気に入りだ。
気まぐれに冒険をして、抹茶オレを頼んだのが間違いだったのかもしれない。
無糖の紅茶が好きな私は熱い液体をこくりと飲んだ。夫はテーブルの置いてあった白い砂糖ポットに手を伸ばしている。
スプーンに山盛り一杯、二杯、さん――
「あなた、入れすぎよ」
三杯目をすくおうとする夫を止める。
彼は私をチラリと見て、三杯目は諦めて蓋を閉めた。
くるくるとかき混ぜて一口。
「甘くなった? 」
「いや、苦いよ」
そう言うのは知っていた。夫は甘党だ。
苦いものにいくら甘さを足しても、本質は苦いのだ。そして砂糖の取りすぎは健康に良くない。
休憩しながら何とか飲み干し、立ち上がった彼のあとを私はついていく。当たり前のように私から奪い取った伝票で、夫は会計を済ませた。関係が甘いものになる前から、この勝負で彼に勝てたことはない。
会計をしたのは別の店員だったが、一生懸命店内を駆け回っていたあの新人さんの明るい声は聞こえた。
「ありがとうございました」
週末のいつものお散歩は、今日も穏やかに過ぎていく。肌寒くなったので、街中のカフェに休憩しに入っただけだ。
人混みを上手く歩けない私の手を夫が引く。走る車は、常に私の隣にはない。
私の隣には、いつもこの大事な人がいる。
そそっかしいのに真面目過ぎて、些細なミスに落ち込んだ日も
余裕がなくて優しさを持てない日も
毎年、素直に喜べない誕生日も
「大切なことは忘れたくない」とふざけた私が決めた結婚記念日も
ずっと最高の夫がいてくれる。
「ねぇ、あなた」
「ん? 歩くの早かったか? 」
人混みを抜けた路地裏で、私は彼に言葉を贈る。
「いつも一緒にいてくれてありがとう。
大好きよ」
夫の顔は仏頂面のまま変わらない。
目尻に刻まれた笑い皺も深くはならない。
「毎日言わなくても知ってるよ。
お団子買って帰ろうか。好きだろ? 」
( はい、あったかいお茶とお団子。そして、温かいあなたが私は好きです )
「お腹は大丈夫なの? 」
そう聞きながら、
私達夫婦は今日も人生を共に歩む。
私は毎日とても幸せだ。
3月9日 @tonari0407
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