第17話 絶体絶命


 よく見てみると、小さくて、鈴を首につけていて、それに三毛猫だ。探している条件に完全に合致している。

 どうやってそこへ辿り着いたのか分からないが、どうやら自力ではそこから脱出できないようだ。何度も助けを求めて鳴いている。


「おーい! 絶対にキャッチするから、勇気をもって下りてこーい!」


 そうやって何度か猫の下で声を出してみる。すると、声が届いたのだろうか、猫は少しだけこちらに顔を覗かせた。

 だがそう思ったのも束の間、すぐに引っ込んでしまった。


 その後も何度か顔は覗かせてはいるものの、その度に引っ込んでしまう。あと一歩を踏み出す勇気というものがないのだろう。なんだか今の私を見ているような気分だ。


 とにかく、このままでは埒が明かない。

 時間帯としては本格的に夜に差し掛かっており、猫の姿もあやふやになってきている。こうしている隙にも私と猫の体力はどんどん削れている……こうなったら強硬策に出るしかない。

 幸いにも、この崖の断面は真っ平らという訳ではなく、つまり何が言いたいかというと足場が存在するということだ。


「迎えに行くまで絶対に動くなよ……!」


 後先考えずに、私は小さな出っ張りに足をかけて崖を登り始める。

 私は体重が軽かった。それに足も小さいので、小さな足場だとしても積極的に足を乗せることができる。


 そのおかげで、運動能力の低い私でも止まることなく崖を登ることができた。下だけは絶対見ないように、崖の中腹にいる猫だけを見ていたが、遂にはその姿がはっきりと見えるようになってきた。


「あと少し、慎重に慎重に……」


 才能なのか運なのか、普通に崖を登る自分に驚きを隠せない。正直ここまで上手く行けるなんて思ってもいなかった。だが、こんな時こそ気を抜いてはいけない。



 そして私が最後の一歩を踏み出すと、遂に目の前に猫が姿を現した。


「よしよし、偉いぞー」


 猫はちょこんとその場に座り込んでいた。小動物ならではのあざと可愛さに、若干疲れが癒えた気がする。


「……っと、いかんいかん、最後まで気を抜いては――って、わぁっ!」


 すると猫は私の胸元に容赦なく飛び込んできた。

 そのせいで片手が崖から離れてしまい、私はバランスを崩してしまう。


 だが、私は瞬時に崖にある何かを掴めたおかげでどうにか持ち直すことができた。


「ふぅ……ナイスキャッチ」


 私は安堵のため息をついた。胸を撫で下ろす、とはまさにこのことを言うのだろう。猫を抱えているせいで出来ないが、私は何度も胸の当たりを摩りたくなった。


 それはそうだろう。なんせ、こんなところから飛び降りたら……


「……って、うわ高っ!」


 だが、安心しているのも束の間、気を抜いた瞬間、遂に私は下を見てしまった。

 距離として約20メーター、猫が降りるのを躊躇するのも納得の高さである。こんなところから落ちたら、と考えると手足が激しく震えてしまう。


 皮肉にも、その甲斐あってか私は何かが切れる音を聞いてしまった。

 不運にも、藁にもすがる思いで私が掴んでいたのはまさしくその藁だったようで、


「あっ……」


 私がそう言いかけた時には、もうそれは空中での出来事になっていた。

 手に持っていたのは、茎が切れた一輪の花だった。



「……っ!」


 骨の折れる音がする。

 即死だったのだろう、落下の痛みは全くない。

 ただあるのは、尻の下にある何か柔らかい感覚だけだ。


 私はゆっくりと目を開けた。

 だが目の前に広がる光景は花畑でも暗黒空間でもなんでもなく、


「いたた……間に合って良かったです」


「ウール!? ど、どういうことだ!?」


 急いでその場から立ち退くと、私の下敷きになってボロボロになったウルスがその場に倒れ込んでいた。

 よく見てみると足の関節が明らかに変な方向へ曲がっている。それに対してウールを座布団にした私は無傷、つまり骨の折れる音というのは私ではなくウールだったのだ。


「こんなに身を挺してまで私を……!」


「あ、ご心配なさらず」


 だが、私の深刻な表情とは対照的に、ウールは慌てる様子もなく緩んだ表情のままだ。


「え、いや、でもその体……」


 するとウルスは右手を上げて指を鳴らした。


「《自己回復オウンヒール》! ほら、大丈夫でしょう?」


 謎の光が消えると、ウールはそう言って何もなかったかのように立ち上がった。体に何もおかしい所はなく、骨が折れていたと思われる足の関節もきちんとした方向に屈曲している。


「致命傷でなければ、いくらでも回復出来るんです。自分だけですが」


「そうか……本当に良かった――」


 すると今度は私の方が尻もちをつく形で倒れ込んだ。極度のプレッシャーから解放されて力が抜けたのだ。


「本当に間一髪でしたね。シオンさんの声が聞こえたんで見に来て良かったです!」


 腕がくすぐったい。見てみると、ずっと腕に抱えたままだった猫が私の腕をペロペロ舐めている。小動物にも温情というものがあるのだろう。


「お前も、もうやんちゃなことはするんじゃないぞ」


 落ちた高さを確認しようと再び崖を見ると、暗くて中腹どころか崖自体の造形を確認することすら困難になっていた。それくらいギリギリだったということだろう。



 しばらくするとリューバが来た。


「崖の崩壊かと思ったが……!」


 とても驚いているらしい。つまり、遠く且つ暗闇の中からだとその程度にしか見えなかったということだ。

 そうなると、多少近かったとはいえその中で間一髪私だと気づいたウールはかなり視力が良いのだろう。


「猫が上にいたもので。危うく死にそうになったが、ウールのおかげでどうにか助かった」


「わたくし、活躍しましたよ。褒めてください!」

「あ、おつかれ」

「……それだけ!?」


 あまりの無関心にウールはご不満のようだ。


「でも本当に良かった。結果としてはクエストクリアだ」


「はい、もう半ば諦めていましたから、シオンさんのお陰ですね!」


 なんだろう、数年ぶりに褒められたせいか、なんだかくすぐったい気持ちになる。


「……そうか、それなら良かったが」


 結果照れてしまい、私はそれだけ言って小さく頷いた。


「それじゃあ、クリア報告に行きましょう!」


「そうだね、さぞ依頼者もワタシ達の帰りを待っていることだろう」


 なんだか不思議な感覚だ。だがそれを考えるほどの体力が私には残されていなかった。

 立ち上がろうと、足元が少しよろついてしまう。


「――おおっと!? 大丈夫かい?」


「そういえばシオンさん、さっきも倒れてたから……」


「つかれた」


 長い時間プレッシャーに晒されながらずっと走っていた訳だから、そうなるのも仕方がない。むしろ久々の運動なのによくここまで耐えたものだ。


 私は恥ずかしながら、ウールにおんぶをしてもらった。


「昨日の今日で本当にすまない」

 

「いえ、ぜんぜん大丈夫です!」



 そんな道中のことである。


「しんどいなら下ろしてもらって大丈夫だぞ? 私だって少しくらいは歩ける」


「いえいえ、無理はなさらず。それに、特に困ったこともございません。例えば胸のあたりとか……差し障るものもあまりなくて、とても運びやすいです!」

 

「……やはり下ろしてくれ。自分で歩ける。いや、何としても歩く」


「いえいえ、ちゃんと休まないとダメですよー。シオンさん頑張ったのですから!」


 そう言うウールが無邪気なのがとても悲しかった。

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