第4章 「希望」と「未来」の揺れる花瓶

4-1 花言葉のお見舞い

 病室には先客があった。静佳の父親だ。ベッドの近くに寄せた椅子に浅く腰掛け、静佳の寝顔をぼんやりと眺めている。土曜日とあって、ジーンズにポロシャツというラフな格好だ。

「こんにちは」

 驚かせまいと気をつかったつもりだったが、森川氏は肩をびくつかせた。

「ああ、こんにちは。ええっと……」

「藤野です」

「そう、藤野くんだったね。年取るとなかなか顔と名前が覚えられなくて。毎日お見舞いに来てくれているっていうのにねえ」

 森川氏は、拳骨でこつんこつんとこめかみのあたりを叩いた。亡くなった祖母が、こうすれば直るからと言って調子の悪い電子レンジやテレビを叩いていたのと同じ仕草だ。

「静佳の具合はどうですか?」

「変わらないよ」

 森川氏は暗い表情で首を横に振ってみせた。

 増水した川に飲み込まれたものの、静佳の体はすぐさま河川敷へと押し流されてきた。まるで川が一旦飲み込んだ静佳の体を勢いよく吐き出したかのようだった。居合わせた消防団によって静佳はすぐに救助され、病院へと運ばれた。両足首を骨折する大怪我を負ったものの、奇跡的に命は助かった。

 あの大雨から二週間が経ち、川の流れは穏やかになった。ランニングをする人、犬の散歩をする人、河川敷にいつもの光景が繰り広げられるようになった。日常がその姿を取り戻しつつあるなか、静佳の意識だけが戻らなかった。

「足の骨折は順調に治ってきているそうだよ。頭も、検査では何の異常もないらしいんだが……」

 森川氏は深いため息をついた。声に力がない。

「僕、花を変えてきますね」

 花瓶を手に梓は洗面所にむかった。花を抜き、水をかえ、持ってきた新しい花を花瓶にいれる。花は樹が摘んだ言霊だ。ピンクやイエロー、オレンジといった明るい色のガーベラ、デイジー、チューリップ、ラナンキュラス、ルピナス……それらは「希望」「未来」「幸福」「友情」……梓や響、鈴、立華、そして父親である森川氏の思いがこもった言霊の花たちだ。言霊の花の力を借りて静佳を呼び戻そうと、梓は毎日のように言霊の花束を静佳の病室に運んでいる。


 病室に戻ってくると、森川氏は来た時と同じように椅子に浅く腰掛けた格好で静佳の寝顔に見入っていた。傍目には見舞いに来た父親が寝ている我が子を起こすまいとしているようにしか見えない。起こそうとしても起きないというのが辛い現実なのだが。

 増水した川に流されたにもかかわらず、静佳は死ななかった。大雨で川の水位が上がり、橋から水面までの距離がわずか数メートルであったこと、川に落ちたにも関わらず下流に流されずに河川敷に流されてきたこと、川に転落した人間がいると連絡を受けた消防団が待ち受けるその場に静佳が流されてきたこと――団員たちが興奮するほど幸運な出来事が相次ぎ、静佳は救助された。団員たちは「奇跡」という言葉を何度も口にした。

 柊が言霊を編みかえた結果、静佳は死なずに済んだ。肉体の滅亡は免れたが、意識が戻らないため、生きているとも言い難い。

 望んだ結果ではないからと、言霊の花を今一度編みかえてくれと梓は柊に頼み込んだ。すると柊は床の間を指さした。そこには編みかえた『死ね』の言霊の花が生けられてあった。しかし、花はすでに枯れてしまっていた。

「すでに起きてしまったことは変えられない。でも、未来なら望むように変えることが出来る。それは僕たち次第だよ」

 柊はそう言って梓を絶望の底に叩き落としたかと思うと希望の縄を垂らしてみせた。


 花瓶を静佳の枕元近くに置くと、「ありがとう」と森川氏が感謝を述べた。

「花なら、兄さんが花屋をやっていて売るほどあるんです」

「あ、いや、花じゃなくて……花もありがたいんだが。君が助けを呼んでくれたんだろう? ちゃんとお礼を言わなければと思っていながら、つい失念してしまって申し訳ない」

「あ、いえ……」

 助けを呼んだわけではない梓は礼を言われ、かえって恐縮してしまった。

「静佳が死んでしまったら、私は後悔してもしきれない」

 森川氏は組んだ両手を額にあて、うなだれた。

「私のせいだ。静佳が死ぬような目に遭ったのは。すべて私が悪いのだ」

「静佳の死を願ったことを後悔されているんですね」

 森川氏ははっと顔をあげ、梓の顔を凝視した。

「静佳から聞きました。お母さんの遺影の前で『お前のかわりに静佳が死ねばよかったのに』と言っていたのを聞いてしまったと」

 森川氏は、ああと獣の咆哮のような叫び声をあげ、両手で頭を抱え込んでうずくまった。

「この子の母親は火事で死んだ」

「知ってます。静佳から聞きました」

「妻は一度は避難したんだ。しかし、静佳が逃げ遅れていると思い込んで家の中に戻っていった……そして、焼け死んだ……。静佳はこっそり家を抜け出していたのを知らなくて、だ。家が焼け落ちた後に静佳が戻ってきたと近所の人から話を聞いて、それからというもの、静佳を恨まずにはいられなかった。家にいたならば一緒に避難できたかもしれない。静佳を助けようとしなければ妻は生きていたかもしれない。一度、そういう考えにとらわれてしまうと抜け出せなくなった……。妻に生きていて欲しかったという思いが、いつの間にか死んだのが静佳だったらよかったのにという忌まわしい考えに変わっていった……。そういう考えを妻の遺影の前で口にした……。そんなことを望んでも妻が生きて帰ってくるわけでもないのにだ。静佳が川に落ちたという連絡を君から受けて心臓が止まりそうになった。私が静佳の死を望んだばかりに静佳が死ぬような目に遭ったのだと……。ひどい父親だと思うだろう? 息子の死を願うだなんて」

 森川氏はうずくまっていた背を伸ばし、自嘲気味に笑った。力なく、乾いた笑い声だった。

 梓は首を横に振った。

「あの日、静佳のことを心配して僕に電話してきた森川さんはひどい父親ではありませんでした」

「気を遣わなくていいんだよ。静佳の死を願って口にした時、私は確かにひどい父親だったのだから」

 つかの間、森川氏は悲し気な笑みを浮かべた。しかし、その笑みはすぐさま険しい表情に取って代わられた。

「待ってくれ。私が静佳の死を望んでいると静佳が知っていたということは……川に落ちたというのはまさか事故ではなくて?」

 探るような目で森川氏は梓をみやった。その目が真っ赤に充血し、おどろおどろしい。

 真実を告げるべきかどうか、梓は迷った。望まれた死を静佳が受け入れたと知れば森川氏の悲しみは深くなり、自身を苛むようになるだろう。

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