3-14 「さよなら」のかわりの「ありがとう」
影の正体は人間――静佳だった。静佳は橋の欄干に手をかけ、荒れ狂う水面をのぞき込んでいた。川から手がのびてきて今にも静佳の体を引きずり込んでしまいそうだ。
「静佳!」
影にむかって声を張り上げるも、激しい雨音にあっけなくかき消されてしまう。
「静佳! 探したんだ!」
声をかけると同時に静佳の腕をつかんだ。びくりとして静佳が振り返った。
「梓? どうして?」
「話は後で。こんなところにいたら危ない。早く安全な場所に行こう!」
梓は静佳の手を引いた。静佳の腕は引かれるままにだらりと伸びたが、胴体は橋に打ち付けられたかのように動かなかった。
「僕のことは放っておいて」
「放っておけるわけないだろ! 静佳がいなくなったってお父さんから連絡をもらったんだ。お父さん、すごく心配しているよ」
「父さんが?」
疑うような眼差しで静佳が梓をじっと見つめた。疑いの眼差しはすぐさま冷ややかな笑みに取ってかわられた。
「心配しているふりをしているだけさ。本心では僕が死んでくれたらと思っているくせに」
「そんなわけあるか!」
「そんなわけあるさ!」
静佳が雨音でさえひるみそうな大声をあげて叫んだ。
「母さんは火事で死んだ。一度は避難したのに僕が逃げ遅れていると思って燃えている家の中に戻っていった。僕がこっそり家をぬけ出して遊びに行っていたことを知らなかったんだ。父さんは、母さんが死んだのは僕のせいだと思って僕を憎んでいる。僕を助けようとさえしなければ、母さんは死なずに済んだ。僕が遊びに行くと母さんに伝えていさえすれば、助けに戻らなかったのにってね。父さんは、母さんじゃなくて僕が死んでいればよかったのにって思ってる。僕は知っているんだ。父さんは、母さんの遺影に向かって、死んだのが母さんじゃなくて静佳だったらよかったのにって言っているのを聞いたんだから」
「本気でそんなこと言うわけないだろ?! お母さんが亡くなったことが悲しくてやりきれなくて、お父さんはついそんなことを言ってしまったんだ」
「死んだのが母さんじゃなくて僕だったらって父さんが考える気持ち、よくわかるんだ。僕が父さんだったら、母さんじゃなくてって思ってしまうだろうから。僕自身も、母さんじゃなくて僕だったら、って思ってる」
「そんな風に自分を責めなくても。火事だったんだろ? 不幸な事故だよ」
「事故じゃない。僕が――」
「事故じゃないってどういうこと?」
雨音と風が静佳の言葉をかき消してしまった。口の中を雨でいっぱいにしながら、梓は尋ねた。
「僕が母さんを殺した!」
静佳の声が雷鳴のように轟いた。
「そうだよ、僕が母さんを殺したんだ!」
雨風のせいで梓に聞こえていないと思ったのか、静佳は同じセリフを繰り返した。
「あの日、僕は母さんと喧嘩したんだ。部屋を片付けろって当たり前のことを言われただけなのにムカついて。いちいちうるさいなあって口答えしてさ。それで母さんに怒られた。怒られて当たり前なんだ。ひどい口をきいたのは僕の方だったんだから。でも、自分の間違いを認めるのが何だか悔しくて。むかむかした気分のまま、言っちゃったんだ……『死ねよ、クソばばあ』って。『死ね』って言われた時の母さんの顔を今でもよく覚えている。それまでもの凄く怒っていたのに、急に真っ青になって悲しそうな顔になった。忘れられないよ。忘れられるはずがない。それが最後に見た母さんの顔だから……。『死ね』っていう言葉が母さんにかけた最後の言葉だなんて最悪だ……。僕が『死ね』なんて言ったから、母さんは死んでしまった。僕が殺したんだ――」
静佳は泣いていたのかもしれなかった。雨がひっきりなしに顔を打ち、涙とも雨とも区別がつかない。
「本当に死んでほしいと思って言ったわけじゃない。ちょっとした悪口のつもりだった。軽い気持ちだったんだ。僕は『死ね』という言葉の重みをわかっていなかった。言霊なんか、信じていなかった。僕が簡単に口にした『死ね』という言葉の通り、母さんが本当に死んでしまって、言葉が現実化すると身をもってわかったんだ。それからだよ。僕が口をきけなくなってしまったのは。口にした言葉が現実化するとわかってから、簡単にはしゃべれなくなってしまった。怖くなったんだ。何の気なしに僕が口にした言葉のせいでまた悪いことが起こったらどうしようって。そう思って黙るようになってしまって、いつの間にか口がきけなくなっていた」
雨音は耳をつんざき、足元では濁流が唸り声をあげている。雨はまるで槍のように体を貫いた。荒れ狂う世界はまるで母親を死なせてしまった後悔の念にさいなまれ続けてきた静佳の心の内そのものだ。
「しゃべれなくなってしまってからでも、一言……一言だけ、どうしても口にして言いたいと思ってた。『死ね』だなんて言ってしまって『ごめんなさい』って母さんに言いたいって。言わなくっちゃならない。ずっと『ごめんなさい』って謝り続けてきた。でも、どんなに謝ったって、後悔したって、母さんは戻ってこない。もう遅いんだ。母さんが死んでしまってから『ごめんなさい』って言っても、母さんには伝わらない……。母さんにきちんと謝るには、母さんのいる場所に行かないといけないんだ」
とっさに梓は静佳の腕を強く握った。
「行ってはだめだ」
「どうして?」
無邪気に静佳が問う。
「お母さんのいる場所へ行くってことは、死ぬってことだよ?! そんなのダメだ」
「止めないでよ。僕は母さんのいるところへ行って謝りたいんだ」
「行かせられるわけがないじゃないか!」
「止めても無駄だよ。もう遅い。吉元が『死ね』って僕にむかって言った以上、僕は死ぬ。でも、いいんだ。母さんを死なせてしまった僕みたいな人間が生きていてはいけないんだから。父さんも、僕が死んでいたらと思っているんだし、死んだら母さんにちゃんと謝ることができる。吉元の言う通りだ。みんな、僕の死を望んでいる。何より僕自身が望んでいるんだ」
「僕は静佳に生きていて欲しい。僕だけじゃない。響も鈴も、立華さんも。お父さんだってっ――」
その時だった。
「おい! そこの二人! 」
突然、雨音にも負けない怒号が背後から浴びせかけられた。消防団員の男性がいつの間にか梓に迫ってきていた。
「……とう」
静佳が何か言っていた。水面に浮かんできた魚のように口がパクパク動いている。雨音に阻まれ、何と言っているのかまではよく聞き取れない。
「え? なに?」
「梓や響、鈴、立華さんに出会えてよかった。一緒にバンドを組んで歌が歌えて楽しかった。ありがとう。梓にだけでもお礼が言えてよかった。伝えずにいってしまっていたら後悔するところだった。響や鈴、立華さんにも『ありがとう』って伝えておいて」
「ダメだ、静佳! ちゃんと自分の口から言うんだ!」
「落ちたら危ないだろ! さっさと橋から離れなさい!」
男性の気迫に押され、静佳の腕をつかんでいた梓の力がふと抜けた。その隙をつき、静佳が梓を振り切った。いつにない身軽な仕草で橋を飛び越えたかと思うと、静佳の体はあっという間に荒れ狂う川に落ちていった。
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