第16話 ひとり暮らしと挫折

(四)  


 父が亡くなってからしばらくして、年が明け、家族は家賃の下がる家に引っ越した。

 引っ越したといっても二駅分ぐらいの距離の場所で、生活は今まで通りだった。


 それから一年が経ち、二十二歳の春、僕は無事専門学校を卒業した。

 結論として、学校というものは合わないな、と思った。

 それでも、二年間の専門学校生活は、良い事もあれば悪い事もあったが、多少は仲間もでき、少しは楽しい思い出も作る事ができた。

 結論としては合わないな、と思ったけれど、行かなきゃ良かったな、とは思わない。得るものはあったと思う。


 この頃の僕は以前よりも全然明るくなっていて、むしろ変な過信や虚勢を張り少々攻撃的なぐらいだった。

 ロックをやるんだったらこれぐらいじゃないとと思い、いつも全開だった。

 以前のようないつもびくびくおどおどしていた自分や、「死にたい」というような闇も、もはや完全に乗り越えた気持ちになっていた。


 六月になると僕は一人暮らしを始めた。

 例のヒステリーな兄との衝突が原因だった。

 父が亡くなって以降は、兄も以前よりは落ち着いて、僕の胃の痛みも大分マシにはなっていたのだが、それでも兄に関する嫌な事は多々あり、面倒臭いのでいつも適当に我慢していたが、ある日とうとういい加減耐えられなくなり、この男と同じ屋根の下で生活するのはもう限界だと、半ば勢いで家を飛び出したというような感じだった。

 この時、母が僕に様々に協力してくれて、そのおかげもあって、手頃な部屋を見つけて、生活に必要な物も一通り揃え、引っ越しも問題なく終え、僕はこの見切り発車を無事成功させる事ができたのである。


 理由はどうあれ、初めての一人暮らし。

 これからは何も気にせず思いっきりやりたい事をやれる。

 そう思い期待に胸を膨らませ、いよいよこれからが本当のスタートという感じだった。

 しかし、この後すぐに、乗り越えていたはずの、あの「やっかいな闇」に、ある事がきっかけで、大きく呑まれる事になるのを、この時の僕にはまだ知る由もなかった......。


 八月。

 最初は色々と戸惑う事も多かった一人暮らしにも大分慣れてきたこの頃、僕は新たなバンドを始めていた。

 専門学校時代の仲間と組んだバンドで、それまでもいくつかバンドはやったが、今回は自分の知りうる、今までで一番のメンバーと組む事ができ、「こいつらとならいけるかも!」と思うぐらいで、かなり燃えていた。


 そんな矢先、僕にある事が起きた。

 ある日、僕は突然ギターが弾けなくなったのである。

「あれ?」と思った。

 明らかに右手の感覚がおかしいのだ。

 どう説明しようか。

 例えるなら、右利きの人がいきなり左手で字を書くような感覚、あるいは、乗れるはずの自転車が、ある日突然、まだ乗った事がない子供の頃のように乗れなくなってしまった、といった感じだろうか。

 でも特別どこか痛めたとか、痛みがある訳でもない。


 最初は明日になれば戻るだろうと気楽に考えていたが、二日経っても三日経っても一向に戻らない。

 おかしい。これは一週間ぐらい間を置いた方がいいんじゃないかと思い、そうしてみたがやはり駄目。

 病院にも行って医師に相談し、レントゲンも撮ってみたが何もわからなかった。


 とりあえずバンドのメンバーには自分の現状を報告し、それから一人で色々と試行錯誤を試みたが、より駄目になる一方だった。


 それでもなんとかバンドは続け、試行錯誤を繰り返しながら無理矢理ギターを弾いていたが、状態はより悪くなる一方で、それでも諦めず、なんとか必死に弾いていたが、ある日、ついに僕は、完全にギターが弾けなくなってしまったのである。


 僕は挫折した。

 その挫折感は、自分にとってそれまで味わった事のないような苦痛だった。

 それこそプロになれなかったならわかるが、こんな挫折は全く予想だにしなかった。

 僕は完全にギターに全てを賭けて生きていて、それを奪われた。

 上手くならないならわかるが、まさか弾けなくなるなんて......。


 僕は発狂しそうになった。

 なんで自分だけこんな、挑戦すらさせてもらえないのか?

 俺が一体何をしたっていうんだ?

 なかば半狂乱でそんな事を思い、拳でギターを殴り神様を心底恨んだ。


 この事が大きな引き金になり、乗り越えていたはずのあの「やっかいな闇」が、僕の中で、忌々しく大袈裟に、残酷に冷たく暴れ始めるのである。

 全ては僕の弱さと脆さ故だが、やがてこの挫折は、その姿を挫折から絶望に変えて僕を襲った。

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