第7話 底辺を知らないことを誇るな

「えー、こちらが昨年度の決算結果です。」


都内某所のレンタルオフィス。スクリーンに映された業績グラフを、4人の男達が凝視している。


「…おい三田ぁ、お前の投資詐欺の利益クソじゃね?前年比で落ちてんじゃん。」


「はぁ…?たった1年結果が悪かっただけでそれ言う?じゃあ一ノ関、お前のYouTube事業はどうなの?去年ゴミだっただろ。」


「いやまとめサイトとかオンラインサロンの収益あるかんね。ゆーてYouTubeだけじゃねーからうち。」


「2人とも、会議中ですよ。ちなみにグループの収益に占める割合が最も高いのは僕の事業ですけどね。」


「二宮の事業収益なんて来年にはうちのYouTube事業だけで抜けるわ。」


「一ノ関さんの事業は不安定すぎますよ。YouTube側の判定一つで収益認められなくなるんでしょ?」


「バーカ。だからいくつもチャンネル運営してリスク分散してんだろうが。バーカだなお前。YouTubeのこと何も知らねぇ素人。バーカ。ってかYouTubeだけじゃねぇしうち!他にも手広くネットメディアやってるし!」


「ってかさー、二宮のやってる闇バイトの斡旋って要するに中抜きだよねぇ?俺嫌いだな中抜きって言葉。日本を悪くしてるのは中抜きだよ中抜き。あと老人。」


「頭が悪いと世界がシンプルに見えていいですよねぇ。中間業者が何もしてないと本気で思い込めるんですから。」


「え、それ俺に言ってる?二宮?それ俺に言ってる?」


「さぁ。でも図星の人がキレるんじゃないですか?」


「お前さぁ!」


「みっ…みっみっみっ…」


「みっみっみっみっみっみっみっみっ」


3人が言い争いを始めると、中央に座っていた4人目の男が口を開いた。しかし言葉がなかなか出てこないようで、同じ一音をずっと繰り返している。男は、生まれながらの吃音であった。3人は、そんな男を見て笑いもせずじっと言葉が出てくるのを待った。


「みっみっみっみっみっみっみっみっ」


「みっみっみ…みんな、なっなっなっなっなっ…」


「なっなっなっなっなっなっなっなっなっ」


「なっなっ…なっなっなっなっなっ…」


「なっ仲良く。」


「「「はい!!!」」」


「「「申し訳ございませんでした!!!」」」


3人の男は吃音の男にすぐさま謝罪した。そして、お互いの方を向き謝罪し合った。


「三田くん!ごめんね!」


「いいよ!一ノ関くん!ごめんね!」


「いいよ!」


「一ノ関くん!三田くん!ごめんね!」


「「いいよ!二宮くん!ごめんね!」」


「いいよ!」


その小学生のようなやり取りを見届けた後、吃音の男は手元のパソコンに文字を打ち込み、それを3人に見せた。男は、普段はこうして文章でコミュニケーションを取ることにしている。パソコン画面に映った文章を読んだ3人の男達は、小学生のように無邪気に笑った。


「計画」を実行する時が来たのである。


***


…誰か俺を褒めて欲しい。

あの冨永というマウンティングモンスターの自慢話に、2時間も笑顔を崩さず耐えきったのだから。


「アンタ、今日は浮かない顔をしているねぇ。」


「婆さん、俺の顔が浮かないのはいつものことだろ。」


「いつも以上に浮かないねぇ。」


「そうかもな。」


冨永のマウンティング書斎から解放された帰り道、俺は精神のバランスを保つためいつもの駄菓子屋に来た。

クソ…思い出すだけでも腹が立つ。あの爺さんに比べれば、孫の冨永誠一はまだマシだ。ただ自分が恵まれていることに無自覚なだけのボンボンなのだから。

しかし冨永幸夫は根本的に違う。来訪者に勲章を見せびらかし、勲記を音読させる?そんなことをまともな人間がやるか?いいや、やらない。まともじゃない。俺が勲記を大きな声で読み上げている時の奴の顔ときたら、目を細めて、頬と口角を上げて、穏やかに嫌らしく笑うんだ。俺の声を使って、自分が歩んできた「パーフェクトな人生」を噛みしめるように。おぞましい。

今すぐ奴の資産をむしり取ってやりたい衝動に駆られているが、残念ながらそのアイディアは無い。今日は冨永の話を聞くだけで本格的な投資提案には至っていないし、恐らくしばらくは無理だろう。あの手の連中は警戒心が強いから、そう簡単に俺の提案を受け入れるとは思えない。つまり、これから長い時間をかけてあいつと交流し、俺の有益性を伝えるとともに良き理解者として信用を獲得していく必要があるのだ。奴に取引を持ちかけられるのは半年後か1年後か…。

…1年?奴の話をニコニコ聞いて1年?2時間話を聞くだけでもこんなに疲弊しているのに?何かの刑罰か?ぞっとする。もっと早く奴の信用を獲得する方法は無いのか…。IPO(新規上場株)を配分してみるか…?いや、アレも絶対儲かるとは限らない。取引の一発目で損をさせたら信用も失う。


落ち着け…落ち着け俺…焦るな…。

なんのために10年以上こんないけ好かない土地で働いてきた。富裕層達の信用を築き、丸ごと投資詐欺に嵌めるためだろうが。冨永は地元の名士だ。焦ってあいつの信用を損ねでもしたら、他の名士達にもそれが伝わる。俺の計画も丸潰れになる。我慢だ。奴がどれだけ腹の立つ男でも、我慢してコツコツ信用を築いていくしかないんだ。

ああ…もし奴の信用を短期間で獲得できるなら、犯罪でもいい。そもそも俺は犯罪をするつもりなのだから構わない。しかし犯罪を含めて検討しても良いアイディアが思い浮かばない。


「あんた、顔がますます険しくなってるけど…。」


「…え?いや、ちょっと仕事が大変でさ。」


「あっそう…。無理しちゃダメよ?」


「ああ。そういや婆さん、アレから投資詐欺の話は来てないか?大丈夫?」


「ええ。おかげ様で。」


「そうか。そりゃ良かった。」


「でも、この前寺川駅前のスーパーで半田さん見かけたわねぇ。」


「え…?」


「お店の品出ししてたわ。」


「はぁ…?」


「声はかけなかったけど…更生したのかしらね。」


「いやいや…そんなわけ…」


何から突っ込んでいいのか分からない。この町で投資詐欺の勧誘をやっていた男がスーパーで品出し?元顧客に見つかって通報でもされたらどうする?そもそもなぜスーパー…?また良からぬことでも考えているのではないか。


「…婆さん、それどこのスーパー?」


***


婆さんから話を聞き、寺川駅の北側ロータリー付近にあるスーパーに入ってみると、いた。間違いなく、あの時座川市のボロマンションで会った半田という男だ。菓子コーナーでかったるそうにポテトチップスを陳列している。

背を丸め、首をハトのように前に突き出し、ガニ股で品出しだ。髪の色は黒から茶色に変わっており、腕にはやはりブレゲの腕時計。そんな不自然なスーパーの店員がいてたまるか。何から何までちぐはぐな男だ。


「おい。」


「え…?あ!」


「俺のこと覚えてるか?」


「おめーのせいで三田さんにめっちゃ怒られたぞ!「あんな奴勧誘するな馬鹿」って言われたぞ!お前俺のこと騙したな!」


「ああ騙した。で、詐欺師がなんでこんなところで働いてんだ。」


「べ、別に…ほっとけよ。」


半田はこちらから目を背け、体と足の向きを陳列棚の方向にやや戻した。手は体の後ろに回し、モジモジしている。明らかに何かを隠しているという態度だ。


「お前さ、こんなところで働いていたら面倒なことになるんじゃないのか?」


「え…?どうして…?」


「どうしてって…。そりゃお前に嵌められた詐欺被害者達だってこのスーパー使うだろ。見つかったらどうすんだ。」


「あ!」


「あ!って…。マジかよ…。」


蛇口を捻れば水が出るということくらい分かりそうなものだが、こういった人間は蛇口を捻った後に何が起きるか考えるようだ。論理性が著しく欠如しており、一手先のことすら考えず行動するのである。これまでもその場しのぎの刹那的な生き方をしてきたことが伺える。まぁ、それすらこいつのせいじゃない。こいつの親がまともな教育をしなかったのだろう。


「まだ投資詐欺やってんのか?もう止めとけよあんなこと。」


「は?もうやってねーよ!アレはもう終わり!今は次の仕事してんだよ!」


「終わり?次の仕事?」


「うるっせーなぁ!話しかけんなよ!俺働いてんだよ!」


「また貧乏人から金毟るようなことするつもりじゃないだろうな。」


「しつけーよ!しねーよ!このスーパーだって数ヵ月で辞めるわ!やりたくてやってんじゃねーんだよ!」


「数ヵ月で辞める?やりたくてやってるわけじゃない?」


「あ、いや…。」


どうやら更生のために働いているわけではないようだ。これはいよいよキナ臭い。


「…なんかまた悪だくみか。」


「っせーなぁ…。」


「何を企んでいるのか正直に言わないなら、俺はこのまま警察に行こうと思う。交番近いしな。警察も、まさかこんなところで詐欺師が働いているとは思わないだろうなぁ。」


「はぁ!?やめろし!もうやってねーつってんだろ!」


「お前な…。今やってなくても過去やった罪は消えないだろ。」


「やめろし!」


「…じゃあ何を企んでるんだ?」


「…いや知らねーよ!三田さんが、とりあえずスーパーとかコンビニとかで働けって言うから。俺だけじゃない。うちのグループの連中があちこちで働いてんだよ今。」


「グループ?ああ、あのセミナー会場にいた奴らか。」


「あーいやいや俺達だけじゃなくて、グループ全体。」


「グループ全体…?詐欺してんのはお前らだけじゃないのか。」


「いや詐欺やってんのは俺達だけだけどぉ…なんつーかなぁ…まぁとにかく、何十人といんだようちのグループ。」


「何十人…?そいつらが全員、あちこちの小売店で働いている?一斉に?」


「まぁそんな感じ?後のことはまた今度知らせるって言われてるから、俺はマジで知らないんだって。マジ警察とか止めろよ。」


「……。」


投資詐欺をやるような半グレグループ数十人が一斉にスーパーやコンビニで働く…?なんだそれは。明らかに何かをやるつもりではないか。一体何を…。

目的が金銭だと仮定して考えてみよう。数十人もの人間を各地のスーパーやコンビニに潜り込ませて、何の利益になる。小売店のスキャンダルでも掴んで強請りの材料に使うつもりだろうか?それとも内部から集団窃盗?労働法違反の証拠を掴んで集団訴訟?いずれもピンとこない。


「お、おい。急に黙るなよ。」


「…三田からは他に何か言われなかったのか?」


「他…?いや別に…。「ヨグルト」が売ってる店ならなんでもいいって言われたくらい。」


「ヨグルト…?乳酸菌飲料の…?」


「そうだけど…。」


「……。」


ヨグルト…?ヨグルト…ヨルグト…。ヨグルトを作っているメーカーは上場企業…。まさか、そういうことか…?だとしたら待て。“それ”は使える。もしかしたら、それを利用して冨永の信用を獲得できるかもしれない。


「半田。三田は今どこにいる?」


「はぁ?なんだよ急に。」


「いいから!三田に会わせろ!じゃないと警察に…」


「わ、分かった!分かった!えっと…あ…。」


「お、お客様いかがいたしましたかぁ…?半田君、どうしたの…?」


俺と半田のやり取りを見て、スーパーの社員と思われる人間が慎重に話しかけてきた。クレームに対応しますという構えだ。そうか、確かにこの絵面だと俺は客観的にはクレーマーか。


「いえ、すみません。ちょっと知り合いだったもので話しかけてしまっただけです。半田君、じゃあ仕事終わるまで外で待ってるから。何時まで?」


「今日は18時までだけど…。」


「そう。じゃあその頃に店の前で。」


「……。」


「すみませんね社員さん。では私はこれで。」


「は、はぁ…。」


「…半田君、大丈夫?」


「大丈夫っす…。」


***


「…そもそも、お前どうしてこんなことしてるんだ?」


「どうしてって…。」


バイト終わりの半田をスーパーの店前で捕まえ、近くのファストフード店に入った。しかし、何度見てもこいつは落ち着きがない。今も俺の前で貧乏揺すりをし、ストローの袋を手で弄り回しながら、あっちを見たりこっちを見たりしている。その目は相変わらず脅えており、ヤンチャなのは格好や言動だけで、本質的にはイジメられっ子のように思える。


「…俺、ビッグになりたいんだよねぇ。」


「は…?びっぐ…?」


「これ、俺の夢なんだけどぉ。」


そう言って、半田はくしゃくしゃの紙を出した。紙には次のような内容が汚い文字で箇条書きされていた。


【ビッグになる計画】

・金持ちになる(10億くらい)

・みなと区のタワマンに住む

・ランボルギーニ乗る

・有名人になる(テレビに出る)

              <ダサいことをしない

・デカい男になる

・なかまをたくさん作る

・モテるようになる

・マイナス思考なくす

              <プラス思考

・やりたいことなんでもやる

・まわりの目を気にしない

・人それぞれ

・全部自分しだい

・ぜっ対全部うまくいく

・出会いに感しゃ

・社会良くする


…内容を見た瞬間震えた。この紙切れ1枚に半田という男のことがどれだけ表れている。

恐らくどこかの自己啓発に影響を受けたであろう箇条書き法、書けない漢字の多さ、小学生のような文字、願望の浅はかさ、思いつきで書いていることが明らかな感情の吐露、そしてそれらを「計画」と…。

俺は…俺はこの男が心底気の毒に思えてきた。端的に言えば、この男は俺が思っていたよりも遥かに頭が悪かったのだ。だから、自分の願望と自分が行っている行為の矛盾に気づくことすらできない。下手をしたら、過去行っていた詐欺行為を万引き程度の悪としか思っていないのかもしれない。それほど重く罰されるとは思っていないのかもしれない。それくらいの思考力しか無いのかもしれない…。

しかし、それはこの男の責任だろうか。いや違う。こんな悲惨な状態に育てあげた親が悪い。生まれた場所が悪い。格差が悪い。こいつは紛れもなく被害者なのだ。

世の中には、こういう人間の存在を知らないどころか、底辺を知らないことに優越感を覚えているようなボンボンのクソ野郎達がいる。また、存在を知っても目を逸らし、いなかったことにするクソ野郎達もいる。だが、俺はそういう連中とは違う。俺はこの半田という男の存在を認める。この世には確かにいるのだ、こういう人間が。


「…なんだよアンタ。突然黙って。」


「…いや。なんでもない。」


「それよりお前、金を稼ぎたいなら犯罪以外の方法があるだろ。何でそうしない。」


「え…?それってどういう意味?」


「真面目に働くってことだよ。」


「働くぅ〜?いやいや、無いわそれ。」


「どうして?」


「ってか働いてたけどねホストとかで。でも向いてないんだよ。上下関係キツいし、ああいう、なんつーか、社畜?みたいな働き方無理。」


「今だって上下関係の中で社畜のように働いてないか?」


「え…?今はぁ…あー…いやぁ…なんか今は結構気に入ってるっつーか。前やってた投資のやつだって、ある意味社会貢献っていうか。ほら老人って金貯め込んでて日本の癌じゃん?そういう奴らに金を吐き出させるのは良いことだし。金もかなり稼げたし。今は…なんでスーパーで働かされてるか分かんないけど、まぁ三田さんの命令だから…。」


「……。」


この男の中では、明らかな矛盾が整合し、明らかな間違いが間違いではなくなるようだ。いや、こいつの上司の三田という男がそう洗脳しているのだろうか。


「…半田。」


「何?」


「本題だ。三田はどこにいる?」


「え…えっとぉ…いやマジできっついなぁそれ…俺マジで怒られるじゃん…。」


***


「…で、こうなったわけだ。」


「す、すみません三田さん!でもこいつ警察に言うって!」


「半田ぁ…お前なぁ…。」


「すみません!!!」


半田に連れられて来たのは、座川市にある老築化マンション4階の一室。以前半田と出会った、JOSYOアセットマネジメントの実務用オフィスと思われる部屋だ。中はさほど広くなく、デスクと固定電話が並んでいるだけ。左右の部屋も似たような感じだ。なるほど、ここで爺さん婆さん相手に投資詐欺の電話をかけ続けていたというわけだな。


「んで…またアンタかよ証券マン…。次邪魔したら覚悟しろって言ったろ。」


「邪魔はしない。ただお前らの計画に加えてもらいたいと思ってな。」


「は?何?計画?わけわかんね。」


「半グレグループの連中があちこちの小売店にアルバイトとして潜り込んでいて、何も計画が無いなんてことないだろ。」


「おい半田ぁ。お前こいつにどこまで喋った?」


「すみません!」


「ってかアンタもさぁ、そんだけの根拠で疑うの?何?統合失調症?陰謀論者?さっさと帰れよ。」


「2000年、Y社集団食中毒事件。」


「は?何?」


「あの事件の再現だろ。お前らがやりたいのは。」


「いや知らねーよ。Y社が何だって?名前は知ってっけど。」


「知らばっくれているのか?」


「何がだよ。」


「2000年に上場企業のY社が起こした大規模食中毒事件だよ。それを人為的に起こそうとしてるんだろ?」


「……。」


半田の話から推測した内容で鎌をかけただけだったが、「大規模食中毒」と聞いて三田の表情が強張った。どうやら、本当にそんなことをやるつもりらしい。


2000年、Y社集団食中毒事件。

自己申告を中心とする数字では被害者数14,780名。Y社が公表する被害者数は13,420名。いずれにしろ、戦後日本最大規模の食中毒事件である。

経緯としては、Y社の生産工場が停電しタンク内の脱脂乳に黄色ブドウ球菌が異常繁殖、製造課長はそれを隠蔽し、毒素の残った製品がそのまま小売店に出荷され、大規模食中毒事件に発展したというものだ。

大企業が起こした大規模食中毒事件というだけで大ごとだが、世論を燃え上がらせたのはY社の隠蔽体質と上層部の責任逃れだろう。この事件に関するY社の記者会見は1時間程度で打ち切られ、会見延長を求める記者達に対してY社社長が放った「そんなこと言ったってねぇ、私は寝ていないんだよ」という言葉はY社の体質を象徴していた。この発言は非常に有名で、今も動画サイトに当時の映像が残っている。


注目すべきは株価への影響だ。この事件が報道される前日6月28日のY社株価は終値609円。翌6月29日に事件が報道されるも、その日の株価は604円で終わり、市場への影響は小さかった。

株価が大きく動くのはそれからである。事件報道後に食中毒被害の報告が相次ぎ、その事実がメディアを介して全国に広がった。7月2日にY社大阪工場が操業停止となり、7月5日には被害者数が1万人を超え、7月11日にはY社の全21工場が一時操業停止となった。この時のY社の株価が406円。その後も度重なる隠蔽発覚と責任逃れがメディアに取りあげられ、株価もじわじわと下がり、この年のY社株は一時359円まで暴落した。当時の日本の乳業業界は3社による寡占状態であり、Y社はそのうちの1社だった。そんな大企業の株価が、1年で40%以上下落したのである。

余談だが、Y社はその2年後に今度は牛肉偽装事件を起こし株価は100円台にまで暴落している。さすがは大企業。溜まった膿の量は不祥事をおかわりできるほどだったらしい。


つまり、この半グレどもの計画というのは、乳酸菌飲料ヨグルトを取り扱うスーパーやコンビニに潜り込み、何らかの方法でヨグルトに菌でも混入させ、広域で食中毒事件を起こしヨグルトの株価を下げ、株の「空売り」によって儲けるというものではないかと推測する。

空売りとは、証券会社から株を借りて市場で売り、後日の決済日までに市場で株を買い戻して証券会社に返却するという取引のことだ。通常、株取引というのは先に買って後で売るものなのだが、空売りは先に売って後で買う。空売りをした場合、取引後に株価が“下がれば”利益を得られるというわけだ。まぁただ…


「その計画、上手くいかないと思うぞ。」


「あ…?」


「いくつか問題点があるが、まず、小売店で食中毒事件を起こしたところでメーカーの株価に影響を及ぼすほどの事態にはならない。」


「なんで株のこと…あ、いや…」


「実際の事例を知らないのか。Y社以外なら、2007年に菓子メーカーF社の食品偽装事件、2014年に大手ファストフードチェーンM社の使用期限切れ鶏肉混入事件、2016年に食品メーカーH社のツナ缶ゴキブリ混入事件などなど、飲食品を取り扱う上場企業の不祥事は何度も起きている。しかしいずれも株価への影響は限定的で、一時的に下落はするもののY社ほどのインパクトは無い。」


「…だ、だから、株とか言われても知らねぇって。そんな計画ねぇよ。」


「そうか。じゃあ俺が一方的に話を続けるから、それを聞いた上でよく考えてくれ。」


三田には敢えて伝えなかったが、2002年に起きた食肉商社S社と食肉メーカーN社の食肉偽装事件は、両社の株価を短期的に大きく下落させた。そういう意味では、こいつらの計画にも株価下落の可能性が無くはない。だが計画の不備を突いておいた方が俺が入り込みやすくなる。


「お前らがやろうとしていることは小売店レベルでの工作なんだろ?仮に大規模な食中毒事件を起こそうが、メーカーの工場で菌が検出されてサプライチェーンが止まらない限り、特定企業を狙った小売店でのテロとして扱われるだけじゃないのか。メーカーの株価が多少下がりはするかもしれないが、そこまで大きく影響するとは思えないな。」


「……。」


「他にも問題点はある。恐らくお前らは空売りするつもりなんだろうが、ある日突然特定銘柄の売りポジションが膨れ上がったら怪しいもんだ。その後対象企業の食中毒事件でも起きようものならほぼ確実にクロ。市場を監視している日本証券取引所自主規制法人が黙っているはずがない。お前らのやろうとしていることは明らかに相場操縦だ。簡単に捕まるぞ。まぁそもそも、相場操縦を抜きにしても飲料に菌を混入させるなんて犯罪だけどな。」


「……。」


「まだまだ問題点はあるぞ。例えば…」


「もういいっつーの!うるせぇな!」


「じゃあ最後に。証券取引等監視委員会は「情報提供窓口」を設けている。相場操縦などの不正取引が疑われる情報は“誰でも”ここに通報できる。言ってる意味分かるか?」


「…まさかお前、妄想を通報するつもりか?」


「俺の考えが妄想かどうかは、あっちが判断することだ。」


「…お前何がしたいんだよ。」


「さっきも言っただろ。お前らの計画に加えさせてくれ。」


「…半田ぁ。お前マジで疫病神かぁ…?」


「す、すみません!」


「はぁ〜…。マジどうするよこれ…。」


三田は頭を抱えてイスに座り、下を向きながら貧乏揺すりして考え込み始めた。


「……。」


しばらく無言だった三田はスマートフォンを取り出し、何やら文字を打っている。


「…なぁ、あんた、明日時間取れる?」


「なんでだ?」


「うちらのボスと会ってもらうわ。」


「ボス…?」


なんとなく予感していたが、どうやらこの半グレグループを取り仕切っているのは三田ではないようだ。

半グレのボスか。普通に生きていたらまず会いたくない人種だな。


「分かった。何時にどこへ行けばいい?」

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