第6話 勲章ジジイ

2008年12月。米国史上最大の投資詐欺事件は日本のメディアをも騒がせた。諸説あるが、推定詐欺総額は約650億ドル。当時のドル円レートで約6兆5000億円だ。東京都の税収をも上回るこの巨額投資詐欺をやってのけたのは、米国の主要株式市場の1つNASDAQの運営会社、ナスダック・ストック・マーケットの元会長、バーナード・マドフという男だった。米国の金融政策にすら影響を与えるような人物が、投資詐欺をしたのだ。その詐欺手法は、幾重ものスキームを組み合わせた複雑かつ巧妙なものではなく、非常にシンプルなポンジ・スキームであった。先日老人達が引っかかっていたアレだ。


素人100人中99人は引っかからないであろうソレに引っかかった間抜けどもを挙げていこう。個人であれば、米国アメフトチーム「フィラデルフィア・イーグルス」の元オーナー、米国野球チーム「ニューヨーク・メッツ」のオーナー、「ジュラシック・パーク」や「プライベート・ライアン」で知られるあの映画監督などの錚々たるセレブ達だ。マドフはユダヤ系コミュニティを通じて顧客を開拓しており、その被害者数は数百人とも数千人とも言われている。法人であれば、1700年代に創設されたロイヤルの名を冠する英国の大手銀行、これまた200年ほどの歴史があるおフランスの大手銀行、日本ならN證券、A銀行、S生命保険、N損害保険など、各国トップクラスの金融機関が詐欺に嵌められている。


米国史上最大の投資詐欺をやってのけたバーナード・マドフは、1つ良いことを教えてくれた。それは、「金持ちだろうがプロだろうが投資詐欺には騙される」という事実だ。

これも諸説あるが、マドフは最初から投資詐欺をするつもりで証券会社を立ち上げたわけではないと言われている。彼がポンジ・スキームに手を染めたのは、顧客から預かった資産の運用に失敗し、資金繰りに困ってからだそうだ。それが本当だとすると、少なくとも最初は真っ当にビジネスをするつもりだったということである。そこだ、そこがこの巨額投資詐欺のポイントなのだ。

最初から詐欺をするつもりで詐欺をしても、大した金額を得ることはできない。それはなぜか。それだけの額を得るために必要な「信用」を積み重ねられないからだ。詐欺がバレたマドフが信用を失うのに1日もかからなかっただろうが、それだけの金額を集めるための信用は長い時間をかけて築いてきたに違いない。真に詐欺をするのであれば、時間をかけて“真っ当に”仕事をし続け、実績を作り、カモ達から大きな信用を得るべきなのだ。


俺は証券会社の就職説明会を受けた時に、採用担当者から「この業界は信用が大事だ」と言われた。なるほど、確かにその通りだ。金融機関は命の次に大事な金を扱う仕事。そうである以上、信用が大事であることは言うまでもない。

では、その金融機関に勤める人間が強烈な悪意を持っていたら?

例えばそれが銀行員だったら?銀行員が顧客の預金を脅かすなんて、そんなことを常に心配しながら生きている人間はそういない。自分の給与はいつも通り銀行口座に振り込まれて、いつでも引き出せる。それが当たり前だ。その預金を預かる銀行員が、むしろ積極的に顧客の預金を狙っていたら?

証券会社だったら?自分が購入した株式や債券、投資信託を、証券会社が勝手に売買する、あるいは勝手に送金するなんて、そんなことを警戒している人間もそういないだろう。その証券マンが、むしろ積極的に顧客の資産を狙っていたら?

顧客が金融機関に対して勝手に抱いている「安心」や「信用」などというものは、結局のところ、金融機関従業員の個人的な道徳によって成り立っているに過ぎないのである。実際、金融機関従業員による横領や詐欺事例はいくつもあるのだから、金融機関の信用などというものがいかに脆弱か分かるだろう。

俺が手に持つ「帝日証券」と書かれた名刺には、うちの会社が広告宣伝やブランディングによってコツコツ積み重ねてきた信用が付与されている。


俺は、これを利用するつもりでこの業界に来たのだ。


***


「あー!プレミった!ヤバいヤバい!下がろう!」


「はい。」


「義田さん右右!」


「はい。」


何度も言うが、金持ちには色々な種類がある。俺の隣でゲームをしているこの20代半ばの小太りな男は何者か。このマンションの1階にある不動産会社の役員だ。そんな男が平日の午前中に何をしているのか。マンションの最上階にあるこの部屋で、証券マンとともにゲームをしている。なぜそんなことが可能なのか。

それはこの男が信じられないほどのラッキーボーイで、寺川市に複数の収益物件を持つ不動産会社のオーナー一族として生を受けたからだ。こいつの祖父は、先日寺川銀杏会で出会った「中田」という老人である。経営から退いた今も、会長として経営に度々口出ししているらしい。

中田老人は随分と孫煩悩のようで、自分の息子だけでなく孫も自社の役員に据え、毎月役員報酬という名の“小遣い”を与えている。多めの役員報酬を経費として認めさせるためには勤務実態が必要ということで、中田老人は「不動産企画部」などという大仰な部署を用意し、孫をそこの部長に任命した。これで経営に参加しているという体を作り、税務署を煙に巻くつもりなのだろう。もちろん孫のこいつは見せかけ以上の仕事はしていない。現に、1階の不動産会社に出勤後は、すぐに最上階のこの部屋に来てゲームをしている。

資産家一族からすれば、法人利益の一部を実質的に孫に贈与し、それを経費とできるわけで、このスキームを使うメリットは大いにある。まぁなんてことはない、規模の大小はあれど、世の社長達がよくやっているやり方だ。おかげでこの孫は、肩書きだけは立派だが労働の苦労など一切知らず、部屋でずっとゲームなどをして生きているというわけである。有り体に言えば、一族の資産で生きているだけのボンボンクソニートだ。


「ヘイトこっちで持ちます。今のうちに。」


「ありがとう義田さん!」


このニートと出会ったのはつい先日のことだ。寺川銀杏会の翌日、パーティーを突然抜けたことを詫びる…という体で中田老人の不動産会社に訪問し連絡先を聞こうとしてみたところ、たまたまその孫と出会った。

客を喜ばせることのプロになろうとすると、世の中のありとあらゆることに知見を持つようになってしまう。芸術同様クソほどの興味も無いが、俺はわりと、アニメや漫画、ゲームなんかにも詳しい。孫は、娯楽に詳しいというだけで俺のことを“同族”、つまりオタクだと思ってくれたようだ。話は弾み、数日の間にゲームをする仲にまでなった。

しかし、“オタク”か。甚だしい勘違いだ。俺の娯楽知識や技能はお前のような客を開拓するために身に着けたのであって、こんな下らないものを面白いとか好きなんて思ったことは1度も無い。自分が好きな分野について詳しい人間をすぐ同族扱いするのは、こういう人種の悪い癖だと思う。正直、気持ちが悪い。


「義田さん!GoGoGo!」


「はい。」


「…そう言えば和樹さん、ネット証券とかで投資やってないんですか?」


「あー、なんかやってたけどー、少しやって飽きたー。」


「そうですか。」


「あ、そっか。義田さん証券会社だっけ?」


「一応そうですね。」


「投資って儲かんの?」


「うーん、やり方次第ですかねぇ。和樹さんみたいな人は地頭も良いですから、少し勉強すれば上手くやれると思いますよ。」


「えー?俺地頭良いかなー?」


「そりゃそうでしょう。こんなにゲーム上手いんですし。」


「そうかなー?」


「正直、和樹さんみたいな人羨ましいですよ。私みたいな人間は毎日あくせく働かないといけませんからね。」


「ははは。働いたら負けだと思ってる!」


「いやぁ、本当にそれですよね。」


クソガキが。お前の生活が誰の労働によって成り立っているのか気づいてないのか?少し論理的に物事を考えることのできる知能があれば思い至るはずだろう?これだから名ばかり役員の世間知らずは…。


「あ、もし良ければ今度投資の資料持ってきましょうか?別にうちで取引しなくてもいいんで。」


「あー、そうだねー。じゃあお願いしようかなー。」


「分かりました。」


「あ!義田さんそれアイテム俺取る!」


「はい。」


俺の経験上、家族を1人開拓したらその家庭は攻略したも同然だ。孫を溺愛する祖父の中田老人も、いずれ開拓することができるだろう。営業にも色々なやり方があるものだと、我ながら感心する。

それと、俺は頭の悪い奴をおだてる時以外で「地頭が良い」なんて言葉は遣わない。


***


「義田先輩!あそこの部屋です!」


「ああ。」


「まだ誰も来てないっすね!席、どこでも適当に座っちゃってください!」


「どこでもってわけにはいかないだろ。適当な下座にしておく。」


「どこが上座で、どこが下座なんでしたっけ…?」


「シモ…。入り口に近い方が下座で、遠い方が上座だ。」


「は、はい…。ありがとうございます…。」


「いや、くだらないマナーだとは思うけどな。うちの支店長は飲み会の時そういうのうるさいぞ。くだらなくても幹事なら気をつけとけ。くだらなくてもな。」


「気をつけます…。」


全く、職場の飲み会というのはくだらない。ノルマを追い続けた地獄の決算期が終わり、新年度の4月に入ったら今度は支店の決起会だと?酒を飲んで気合を入れれば成績が上がるというものでもあるまいし、そんな時間があったら自宅に帰って勉強でもした方がまだ成績に繋がるのではないか。何かにつけて酒を飲みたい年寄り連中は本当に迷惑な存在だ。支店の全員を巻き込むな。


「おお、早いな!義田!下柳!」


「あ、支店長お疲れ様です。」


「お疲れ様です!支店長、私今日幹事なので!」


「ご苦労ご苦労。さて俺はどこに座るかなぁ。ここでいいか。」


そう言って、支店長は俺の前に座った。

もちろん俺はこの支店長が嫌いだ。昭和時代の臭いが残る脂ぎった証券マンで、良い歳こいて眼鏡の下は野心的な目つき。声も体も態度もデカく、課長達を詰める時はドスの効いた声を出すのだが、実のところその経歴はエリートのボンボンも良いところなのだ。良いとこのお坊ちゃまが舐められないためVシネマに出てくるヤクザの真似事をして強がっているようで痛々しい。豪快な証券マンを演じる一方、独自色の強いマナーなど変なところで神経質なので、飲み会で知らずに虎の尾を踏む社員もいる。非常に面倒臭い中年である。ちなみに、腕に巻いている時計はロレックス。証券会社の管理職級にありがちだ。


「…支店長、あちらの上座が空いていますが…。」


「いいよここで。義田とも話したいと思っていたし。」


「あ…いや…しかし支店長が下座に座られると、他の社員が気を遣うのでは…。」


「それもそうか。じゃあ2人で上座に移動しよう。」


「あ…はい…。」


最悪だ。支店長達が座りそうな上座から最も遠い席に座ったはずなのに、管理職が集まるであろう上座側に移動することになってしまった。これは、今日の飲み会は堪えるぞ…。


「「「お疲れ様でーす!」」」


「遅いぞお前ら!さっさと席つけー!」


「すみませーん!」


「他の人達もすぐ来るので!」


***


飲み会が始まって1時間。場はすっかり温まっている。俺の席は管理職達に囲まれ、身動きを取ることもできない。しかし地蔵のように固まっているとそれはそれで周囲に不快感を与えるので、適度に喋り、適度に酌をし、適度に注文を取っている。なんて疲れるイベントだ。


こういう席に来ると思うのだが、「証券会社は実力主義である」というステレオタイプなイメージは、半分正しく半分誤りだ。

例えば、今一生懸命支店長と課長相手に道化を演じている島田という男。勤続7年、昨年この支店に異動してきた中堅セールスだ。こいつが管理職達に一生懸命ゴマすりをしている理由なんて1つだけだろう。すなわち「良い顧客」が欲しいのである。良い顧客とは、収益を稼げる顧客のことだ。

証券会社のセールスも、中堅ともなれば会社の顧客を引き継ぐことが多くなる。自分が新規開拓したわけでなくとも、資産数千万円から数億円、場合によって数十億円以上の顧客を引き継ぎ、取引収益を稼ぐことができるというわけだ。当然それは自分の営業成績やボーナスに反映される。だから、証券会社のセールスは誰だって良い顧客を引き継ぎたいと考えている。

では、その引き継ぎ先のセールスはどのように選ばれるのか。支店や課の成績に大きな影響を与える大口顧客の場合、支店長や課長がその判断を下す。さて、果たして管理職達は客観的で公正な判断をするだろうか?セールスの能力を正確に評価しようとするだろうか?セールスと顧客の性格的相性を考えるだろうか?セールスの持つリソースを考慮するだろうか?いいや、そうとは限らない。中には、極めて独断と偏見に満ちた判断を下す管理職達もいるのだ。馬鹿馬鹿しいことに、セールスに対する“好き嫌い”で顧客の引き継ぎを判断してしまう管理職がいるのである。

うちの支店長はその典型だろう。自分に好意を向けてくるセールスに信頼感を覚えるのか、そういった者に大口顧客を任せる傾向が見られる。逆に自分に対して好意を見せないセールスには冷淡で、何かミスや成績不良があればそのセールスから客を剥がすこともある。

それを理解しているセールス達は、社内でまで管理職達に「営業」をするのだ。こういった飲み会はその格好の機会。涙ぐましくも非生産的な努力だとは思わないだろうか。

道化を演じ管理職に媚びへつらう証券マンも痛々しくて見ていられないが、それ以外の証券マン達の会話も聞くに堪えない。話を聞いていると一々イラつくので、俺はいつも内心で毒づいている。


「先週の休み、家族で遊園地に行ってさぁ…」


ほう。こんな悪魔のような仕事をしておいて、休日は家族相手に人間のふりか。


「やっぱりね、仕事っていうのは真面目にやらないとダメよ。俺もずっとね、コツコツ真面目にやってきたから今があるわけ。」


ほう。真面目にこの仕事を?なるほど、そりゃ支店長まで出世するわけだ。人間にはなかなか真似できない。


「お待たせいたしました!生ビールとハイボール、芋焼酎ロック、ウィスキーロック、あと烏龍茶です!」


「こちらに置いといてください。後やっときます。」


「あ!どうもありがとうございます!」


「いえ。」


さきほどチラっと見たポスターに書いてあったこの店のアルバイト時給は1,200〜1,500円、正社員なら月給で25〜30万円とあった。それに対し、今ここにいる支店の面々はいくら金を稼いでいる。新人のシモ以外は、この店のホールスタッフの年収の数倍を優に稼いでいるだろう。

日本は今、貧しくなっているのだと言う者達がいる。しかし、正確に言えば二極化の拡大だ。労働者同士を比較しても、稼げる職業はさらに稼ぎ、稼げない職業はさらに稼げなくなっている。残念ながら証券会社は前者側。こいつらは「日本が貧しくなった」などという実感を微塵も感じていないのだ。

では、貧しい連中は稼げない仕事に就いたから稼げないのであって、それは自己責任なのだろうか。違うだろう。就職活動で有利とされる学歴にも、面接で求められる非認知能力の発達にも、大卒就活に関する正確な情報の獲得にも、「生まれの差」が大きく絡んでいるのだから。それらを自己責任で処理するのは暴論というものだ。

人間は、生まれながらにして選択できる職業の幅が決まっているのである。誰でも自由に好きな職業を選べるかのように見えるこの国の就職市場は、実は見えない壁で区分けされており、稼げる職業を選べる側の人間と選べない側の人間に分断されている。その“見えない壁”を乗り越えるためにどれほどの努力が必要か、乗り越える過程でどれほど人格が屈折するか、どれほど常軌を逸した能力が求められるか、恵まれたこいつらには想像もつかないだろう。

俺の気持ちも知らずこいつらが飲み会で口にする武勇伝ときたら、会社が顧客から訴訟された際証言台に立ったことがあるとか、相場混乱時に大口客の仕組債がノックイン寸前で不眠症になったとか、昔は投信の短期乗り換えで莫大な収益が稼げたとか、凡そロクでもない。そんなロクでもないことをしている奴らの口から出てくる賢しらな金融用語にも腹が立つ。

俺は、寺川市の富裕層連中を開拓しきったら、そいつら相手に詐欺をしかけて金を騙し取るつもりでこの仕事をしている。だから別に自分のやっている仕事に罪悪感など毛頭無いのだが、こいつらはどうなのだろうか。こいつらは、例えばそれによって得た金で家族を食わせることに何の罪悪感も無いのか。家に帰れば可愛い子供の笑顔が見られるだろう。その子供に対して何の後ろ暗さも無いのだろうか。

客をハメた回数を「成績」なんて言い方でデコレーションし談笑するサイコパス達と、美味い酒が飲めるはずがないだろう。こいつらにその自覚すら無いのだとしたら、なおさらたちが悪い。


…耐え難い。この空間は。


***


その家は、寺川市の地場大手スーパー創業者一族が住むには慎ましかった。富裕層にありがちな高級車は駐まっておらず、庭の整備に金をかけている様子も無く、ドアや表札にも高級感は感じられない。周辺の民家と大して見た目の変わらない家。

こんな場所に冨永誠一の祖父「冨永幸夫」が本当にいるのだろうか。それとも、からかわれたのだろうか。

疑いながらもインターホンを押す。


「はい。冨永です。」


「…お忙しいところ大変恐れ入ります。本日アポイントを頂きました、帝日証券寺川支店の義田です。」


「ああ。今開けるから。」


「お願いいたします。」


ドアを開けて出てきたのは、間違いない。この前寺川銀杏会のパーティーで出会った冨永幸夫だ。


「どうぞ、中へ。証券会社の人間がうちの前にいることを周りに見られたくないのでね。」


「はい、それでは失礼いたします。」


何の変哲もない家の中に入ってみたが、玄関から中を見渡してもやはり何の変哲もない普通の家だ。この尊大そうな男にはあまりにも似合わない。


「狭い家ですまないね。ここは別邸なんだよ。」


「別邸ですか。」


「ああ。ほら、あるだろう?1人で思索にふけたい時が。私はね、本邸とは別に自分用の空間をいくつも持つことにしているんだ。思索にふける場所は質素な方がいい。」


「なるほど…。」


そう言えばこいつ、以前どこかの講演で全国に別荘を何件も持っていると言っていたな。そういうタイプか。


「それと、あまり本邸に似つかわしくない客はこちらで対応することにしているよ。さぁ、こちらの部屋へ。」


「はい、失礼いたします。」


ハッキリと失礼なことを言われたが気にしたら負けだ。


***


冨永に案内され入った部屋は書斎のようだった。壁の二辺が本棚で埋まっており、本棚の前には木製のL字デスク、その上には資料や本が積み重なっている。パっと見た瞬間、窓からさす木漏れ日を感じながらこの部屋で本を読み耽る様子がイメージできるような部屋だ。さすが、腐っても名誉教授と言われる人間らしい部屋である。それを教養のマウンティングと捉えるのは、捻くれすぎだろうか。


「そこに座ってくれていいよ。」


「それでは、失礼いたしまして…。」


冨永がイスに腰を掛けたことを確認してから、俺は近くのソファーに座った。

俺がどういうルートでこの状況にまで辿り着いたのかというと、こうである。

先日、不動産会社オーナーの中田という老人の孫を開拓した。その孫を通じて中田老人と連絡を取り、寺川銀杏会のパーティーで途中離席したことを詫び、あの日その場にいた冨永にも謝罪をしたいと中田老人に伝え、連絡先を教えてもらったというわけだ。

この手の偉ぶった人種は、営業は拒否するが謝罪の申し出は受け入れるものだ。その習性を逆用した。対面で会ってしまえば、やりようはいくらでもある。


「先日は、冨永先生の前でパーティーを途中離席してしまい失礼いたしました。」


「先生は止してくれ。別に謝罪なんて大げさだよ。仕事だったんだろう?私は何も気にしていないのに、今日は君がどうしてもと言うから。」


「無理な申し出をいたしました。しかし、“寺川市の礎”とも呼ばれる冨永先生を前にあのようなことをしてしまい、これは直接謝罪をしなければならないと…。」


「…ほう、よく知っているね。」


「寺川市で働いていて、冨永先生の功績を知らぬはずがありません。先生が地域の経済や文化に貢献したからこそ、寺川市の今があるのですから。」


「いやいや、それも大げさだよ。」


今のやり取りを1つずつ解説したい。

まず、この男は「先生」と呼ばれると「止してくれ」と言うが、これは嘘だ。実際先生と呼ばれた時の表情や体の動きを観察すると、まんざらでもないのが明らか。だから、止してくれと言われても先生と呼び続けるのが正解だ。

次に、この男は「謝罪なんて大げさだ」と言ったが、これも嘘だ。尊大な精神を持つこの男は、他人から頭を下げられるのが大好きなのだと予想していたが、それが当たった。あの顔を見てほしい。謝罪を受け入れる懐の広い自分に酔っているかのようだ。

そして、極めつけが“寺川市の礎”という二つ名。どこの太鼓持ちが考えたのかは知らないが、こいつはごく一部の狭い界隈でそう呼ばれているらしい。当然そんな身内ネタを世間一般の人々が知るはずもないのだが、中田老人との会話で事前調査しておいた。その甲斐あって、冨永センセーは大変自尊心をくすぐられたようだ。

大体の人間は、自分のことを理解してもらいたいと思っているものだ。そして大体の人間は、自分のことを理解してもらうため、自分について喋りまくることを恥ずかしいことだと思っている。自己顕示する姿を見られたくないのだ。

つまり、自分について発したくはないが、自分に関する都合の良い部分は他人に知ってもらいたいと意識的・無意識的に思っている。

その観点からすると、著名人というのはむしろ攻略しやすい。なぜなら、一般人と違ってこいつらは自分に関する情報を様々な場所で発信しているからだ。冨永の場合、自分の研究テーマや経営術、自分史などの著書をいくつも出しているし、テレビや地元紙に取り上げられた過去もある。様々な場所で講演などもしている。こいつの内面を分析するための材料は、あちこちに転がっているのである。

著名人は様々な人間から四六時中アプローチを受けているので、営業マンの類にはうんざりしている。だから、この手の連中に営業をかける際は、有象無象の営業マンと思われないように差別化が必要だ。その差別化方法が、“理解者になる”ことなのだ。


「君は、金井君と懇意にしているんだってね。」


「あ…はぁ。ええっと…」


「ああ、そうか。証券会社と付き合いがあることを他人に言うわけにはいかないか。個人情報というやつだな。」


「申し訳ありません。」


「まぁいい。実は銀杏会で金井君と話してね。君のことについて少しだけ聞いたよ。なかなか芸術に理解があるんだってね。」


「いえ、それほどでは…。」


「大学は、どうして辞めたんだい?孫の誠一と同じK大だったんだろう?」


「ええ、実は家庭の経済的な事情がありまして…。」


「そうか。勿体ないね。君のような人材は大学を出るべきだった。最近は大学生と呼べないような無教養者が蔓延っているが、君はそういった者達とは少し違うようだ。」


「恐縮です。」


「ところで、私が旧通産省にいたことは知っているかな?」


「もちろんです。T大学で博士号を取得後、旧通産省所管の研究所で働かれ、様々な実績をあげられ所長になられました。」


「そうそう。そのまま研究所で働いていても良かったんだけどね、父の会社もあったから。知っているかな?」


「はい。寺川市の大手スーパーTOMINAGAです。昨年度の売上高は580億円、従業員数4,000人。これほどの規模になったのは冨永先生の手腕によるところかと。」


「うんうん。その後のことは知っているかな?」


「はい。TOMINAGAの経営をご子息に譲られ会長職に就かれた後、地元大学の教員になられ、研究においても数々の実績をあげられました。」


「うんうん。君は本当に良く勉強しているね。」


冨永はご満悦だ。

こいつは分かりきったことを何回聞くつもりか。お前の経歴なんぞ地元紙や書籍で腐るほど公開されているではないか。まさか、こんなことを他の人間達にもやっているのではないだろうな…やっているんだろうな…。


「君は本当に良く分かった人物のようだね。こちらに来なさい。」


そう言って、冨永は席を立ち俺を部屋の奥に案内した。


「見てごらん。」


「これは…」


壁に飾られていたのは、勲章と勲記であった。そう言えば、こいつは確か瑞宝重光章を貰っていたんだったな。これがとっておきの自慢というわけだ。いや恐れ入る。庶民と違いマウンティングも腰が入っている。


「読んでごらん。」


「え…?」


「そこの文章を、読んでごらん。」


まさか、俺に勲記を音読しろと言っているのか?おい天皇。本当にこいつに勲章を与えて良かったのか?


「…はい。日本国天皇は…」


「大きな声で読みたまえ。」


「は、はい。日本国天皇は、冨永幸夫に、瑞宝重光章を授与する。皇居において璽を押させる。」


「うんうん。」


事実は小説よりも奇なりと言うが、世の中には本当にこういうことをやる人間がいるのだ。これは見損なっていた。この男は俺の想像なんて遥かに上回る承認欲求の化け物だったのだ。


冨永幸夫。孫と違って正真正銘のクソ野郎でありがとう。

これで心置きなくお前を陥れることができるよ。

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