第5話 成金じゃない金持ちが一番クソ

「ヨッシー!この前勧めてくれた株、もうこんな上がってるよ!売る!?もう売った方がいいんじゃないの!?」


「成田社長。それでもよろしいですが、私としては長くお持ち頂きたいと思っております。」


「あ、そう!?ヨッシーがそう言うならそうするよ!ハハハ!」


貧乏人にも色々な種類があるように、金持ちにも色々な種類がある。

大別すれば、親から財を引き継いだ金持ちと、1代で財を築き上げた金持ちだ。この成田社長は典型的な後者。恵まれない出自から成り上がった、寺川市に本社を持つ高級自動車ディーラーのオーナー社長だ。

社長がこれ見よがしに付けている金無垢のロレックスと金のネックレス。分かりやすい成金ファッションだが、むしろ俺はその姿に安心する。こういった成金を「下品」と馬鹿にする人間は、1度冷静に考えてみて欲しい。成金ではない金持ちとは、つまり親から資産を継承した人間のことではないか。下品な金遣いとは、つまり巨額の消費活動を行っているということではないか。下品だろうがなんだろうが、稼いだ金をひたすら使いまくる成金は立派である。少なくとも、たまたま恵まれた家に生まれ、それのおかげで資産を持ち、その資産をシコシコ貯め込んで上品ぶっている連中より遥かに。


ところで、おかしいと思ったことはないだろうか。有名経営者達の自伝を読むと、親族縁者に“たまたま”会社経営者や大企業役員、政治家など社会的・経済的に上級の人間がいて、そういった人間達からサポートを受け成功したという話があまりにも多すぎることに。

経営者というのは、サラリーマン以上に情報や人的ネットワークが重要になる職業だ。親族縁者から資金や情報、人脈を継承した人間は、経営の世界でも大きなアドバンテージを持つ。起業というのは、決して全員平等な競争ではない。むしろ、サラリーマンとして就職すること以上の格差をつきつけられる世界である。「貧乏から1代で成り上がった経営者」は印象的だし美談にもなるが、俺が知る限りでは、恵まれた出自の人間が経営者として成功している例の方が圧倒的に多い。

このように、学歴も、就職も、起業ですら、親のステータスは子に継承されていく。それなのに自分の社会的成功を自分1人の力だと思いこんでいる連中のなんと多いことか。そんな奴らがハイソぶって「金遣いが下品」などと成金を冷笑する姿を見ると虫唾が走る。冷笑されるべきは先祖の力でふんぞり返っている貴様らだろう。

その点、この社長は地方の貧困家庭出身で学歴は中卒。10代で裸一貫東京に来て、アルバイト生活を経て、40代でここまでの金持ちになったのだから感嘆を禁じえない。

出自に恵まれない人間が、ただ己の力だけで自分より恵まれた出自の人間達を押しのけ社会的・経済的に成功する。何世代もかけて資本や文化を蓄積しながらも競争に負けた人間達のなんと間抜けなことか。そいつらの先祖にまで遡り無能の烙印を押しつけたようで痛快だ。この社長のような金持ちは“俺の計画”の対象外である。


「そう言えばヨッシーさぁ、最近変な連中が増えたって思わない?」


「変な連中ですか?どのような?」


「うちの店にさぁ、やたらと若いんだけど、お金持ってるっぽい客が何人か来るようになったんだよ。以前はそんなこと滅多になかったんだけど。」


「若い金持ちですか。」


「うん。みんな20代前半くらいだと思うよ?うちの車なんて、それくらいの子達は普通買いに来ないんだけどさぁ。」


「金持ちのボンボン息子ではないのですか?」


「いやいやー、ボンボンなら雰囲気で分かるよー!むしろ、その対極?にいるような感じの人達でさ。」


「つまり、育ちの悪そうな?」


「まぁそんな感じ。なんとなくだけどね、なんとなく。」


「確かに、寺川市だとそういった人物は珍しいですね。」


「でしょ?なんとなくなんだけど、こりゃまともじゃなさそうだなぁ…って思ってさ。やんわりと取引はお断りしてるんだけどね。うち客は選ぶから。ほら、反社とかだったら困るでしょ?」


「そうですね。しかし、勘ですか。社長。」


「うん、勘。」


出自に恵まれない社会的成功者。これほど恐ろしい存在は無い。通常なら成功できないはずの人間が、何らかの因子で成功してしまっているわけなのだから。こういった人種は何か常軌を逸した能力を持っているもので、成田社長の場合は人を嗅ぎ分ける嗅覚だろう。自分にとって害になりそうな人間を察知する能力が異常に高いのだ。この社長が「怪しい」と思うのであれば、その人物は十中八九怪しい人間なのだろう。


「ヨッシーのとことか、金融機関は反社リスト持ってるんでしょ?」


「ええ。反社はリストでチェックして口座開設前に弾く仕組みになっています。一応。」


「反社」とは、反社会的勢力の略称だ。暴対法では「集団的又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体等」と定義されている。具体的には、暴力団や暴力団関係企業、総会屋、社会運動等標ぼうゴロなどのことである。証券会社は反社会的勢力とされる個人・法人のリストを持っており、口座開設審査の際に照会を行うことで反社を排除している。


「うちの会社はそういうリストとか無いからさぁ。反社チェックするには金払って調査会社使わないといけないんだよ。でも一々そんなのやってらんないでしょ?だから俺の勘が頼りってわけ。ローテクだよねぇ。」


「社長、それがですね、反社リストも万能ではないんですよ。反社を排除するために法整備はされましたけど、最近は半グレや社会運動標ぼうゴロの亜種みたいな連中が増えました。そういった連中の名前は反社リスト上にありません。反社も時代によって姿形を変えますので、リスト頼りの審査も怪しいものですよ。」


「そうかぁ。結局、いたちごっこになっちゃうんだねぇ。」


「ええ。」


「あ、ところでさ、今度の土曜日に「銀杏会」あるけど、また来る?」


「あ、よろしいですか?是非また伺いたいです。しかしお邪魔になりませんか?」


「いいよいいよ。他にも地元の金融マンとか来てるし。俺もしょせん成金だから肩身狭くてさ。むしろヨッシーが来てくれると助かるよ。」


「そう言って頂けると助かります。では、お邪魔させて頂きます。」


銀杏会は、寺川市の経営者や名士など地元の有力者達が集まる定例親睦会だ。正式名称は「寺川銀杏会」。会の名称は、寺川市を象徴する大学通りの銀杏並木に由来する。地元に貢献したい、名声が欲しい、金持ちとのコネが欲しい、ただの付き合い…参加してる者達の思惑は様々だ。地元で有名な人間ほどこういった集まりは無視しにくいものらしく、成田社長も何かと顔を出している。社長は1代で財を成した人物であるし、この町では新参者だ。付き合いで参加している銀杏会では、毎度肩身の狭い思いをしていることだろう。

こういった集まりには、地元の金融機関や不動産会社、インフラ企業に勤めるサラリーマンが参加していることも珍しくない。俺も以前成田社長を通じて参加したことがあるのだが、鼻持ちならない地元の有力者を相手に、サラリーマン達が仕事獲得のため一生懸命道化を演じていた。有力者の集まりにも、謙り上手な潤滑油的人間が必要なのだ。

資産家を相手に仕事をしている俺のような人間にとっても、絶好の機会であることは言うまでもない。


「ああ、良かった。それじゃこれパンフレット。土曜日にこの場所で。」


「はい。よろしくお願いいたします。」


***


「戻りました。」


支店の2階フロアに戻ると、一課と二課の課長が中央のデスクで話し合っていた。


「あ、義田!ちょっといいか?」


俺を見つけた課長の上村が、また若干申し訳なさそうな顔で手招きする。きっと何か売って欲しい商品があるのだろう。


「はい、なんですか?」


「義田、ワクチン債が来ることになったんだけど…。」


「いくらです?」


「一課で予算2,000万円、二課で1,500万円。あと、一応三課で500…。」


「計4,000万円ですか。」


「そうなんだけど…どう…?」


「分かりました。全部ください。」


「だ、大丈夫か…?」


「ええ。」


「そ、そうか…。よろしくな…。」


申し訳無さそうにしていた上村の顔は、安堵の表情に変わった。この人は感情が分かりやすい。


「あのぉ、義田先輩。」


「ん?」


席についた俺に下柳が話しかけてきた。


「ワクチン債ってなんすか?」


「この債券で調達された資金は、発展途上国のワクチン接種に使われる。」


「え!そんな債券あるんですね!」


「証券マンには人気ないけどな。」


「どうしてですか?」


「利率が低いから。投資家は高い利率を欲しがるから、条件の悪いワクチン債なんて買いたがらない。投資家に売れにくい商品は証券マンも扱いたくない。」


「でも先輩、さっき隣の課のノルマまで引き受けてませんでした?」


「…ほっとけ。」


今言った通り、ワクチン債は条件が悪く売れにくい。こんな商品でも販売ノルマとして支店に降り掛かってくるものだから、現場の証券マン達は度々迷惑を被っている。きっと、「クソみたいな債券引き受けてくるんじゃねぇよ本社」と思っていることだろう。

しかし、俺はそう思わない。生活に困っていない金持ちから集めた金が、発展途上国のワクチン摂取に使われ、人々の命を救う。これほど有意義な仕事があるだろうか。これこそが金融による社会貢献の理想形ではないか。

だから、俺はワクチン債が支店に来るたびに販売の多くを引き受けている。同僚達は俺に感謝しながらも不可解な顔をするが、金儲けに囚われた投資家の腰巾着には一生理解できないだろう。


「あ、先輩。俺今からコンビニで昼飯買ってきますけど、何かいりますか?」


「ああ、もうそんな時間か。いや、一緒に行こう。」


***


「いらっしゃいませー。」


支店の近くにあるこのコンビニは、コンビニ本部が運営する直営店ではなく、本部と契約したオーナーが運営するフランチャイズ店だ。人手不足か経営難か、いつ来ても50代前後と見られるオーナー夫婦が店頭に出て働いている。


「合計3点で1,035円になります。」


「…え、1つレジ通ってないですよ。」


「え?あ!すみません。」


「…合計4点で1,252円になります。すみません。」


「いえ。これでお願いします。」


「はい。1,300円お預かりいたします。」


今日もオーナー婦人の顔色が悪い。手にはあかぎれ、指にはささくれが見られ、爪の周囲も変色している。毎日品出しや運搬、水仕事をしている人間の手だ。恐らく、栄養状態も良くない。顔色からすると過労や睡眠不足も心配だ。オーナー夫婦の月間労働時間はどれほどになるのだろうか。それでどれだけの収入を得ているのだろうか。


俺は、労働者としてはかなりの収入を得ていると思う。恐らく、この夫婦の数倍は稼いでいるはずだ。仮に、俺の年収がこの婦人の10倍だったとしよう。俺はこの婦人の10倍社会の役に立っているか?いや、俺の主観ではそんなことは無いと思う。では俺が日頃相手にしている資産家どもはどうだ。金融資産を転がすだけで多額の収入を得ている。仮に奴らがこの婦人の100倍の収入を得ているとして、本当に婦人の100倍社会の役に立っているのか?いや、俺の主観では絶対にそんなことは無いと思う。

しかし、この世には稼いでいる収入がすなわちその人間の社会的価値なのだと語る連中が非常に多くいる。資本主義社会の中ではそれが常識であると、是であると。いや俺も馬鹿ではない。自分に支払われる給与は利益から、利益は顧客から得ているわけで、顧客ひいては社会にとって価値があるとされているからこそ自分は多くの収入を得ることができているのだという客観的事実くらいは理解している。資産家どもの金も、投資によって巡り巡って社会のどこかに貢献しているのだろう。だからこそ奴らは多額の金を得られているのだろう。客観的にはそうなのだろう。

だが、その客観的事実を理解した上で、目の前で働いている人間の何倍も何十倍も自分達のやっていることに価値があるとは到底思えないのである。俺の主観が客観を強く拒絶しているのだ。資本主義社会が俺や資産家達をどれだけ肯定しようとも、俺はそれを否定する。資本主義の手先のような仕事を実際にやってみて、いよいよ俺は、「コレは明らかにおかしい」と思うに至ったのだ。俺がこの仕事をしている真の理由は…


「48円のお返しです。」


「…あ、はい。ありがとうございます。」


「レシートは…」


「いえ、結構です。」


「まいどありがとうございました。」


「はい。」


***


「…先輩、レジミス黙ってれば1品お得だったのに。」


「馬鹿かお前。これ198円だぞ。コンビニのフランチャイズ店が198円利益出すためにどれだけの売上出さないといけないのか分かって言ってんのか。」


「す、すみません。調子乗りました…。」


「小売店にとって、レジミスとか万引きによる損失は洒落にならないんだ。金融商品右から左に流すだけでアホみたいに稼げるうちみたいな業界とは違うんだ。」


「は、はい。反省します…。」


「…ところで、義田先輩っていっつもコンビニとかの店員さんに丁寧ですよね。」


「俺はいつも丁寧だろ。支店の奴ら以外には。」


「いやぁ、なんとなくお客さんに対する丁寧さとも違うような。」


「気のせいだろ。」


「気のせいですかね。」


***


週末。俺は寺川銀杏会の立食パーティーに来ている。

寺川銀杏会は二部構成だ。地元の商工会議所を借りて、午前の部では2階会議室で地域振興や町づくり、教育、経済などに関する講演と意見交換、午後は3階の大会議室にケータリングサービスを呼んで立食パーティーを行う。午前の部には地元の大学教員なども参加し、なかなか向学心に訴える内容を講演してくれるのだが、堪らないのはこの午後の立食パーティーである。


「成田社長、よくお噂は聞きますよ。」


「これはこれは中田さん。私の噂ですか?良い噂だったら良いのですが。」


「いやぁ、もちろん良い噂ですよ。会社の景気が良いみたいで。お忙しいんでしょう?」


「いえいえ、貧乏暇なしでして…。」


「本当にね、新参とはいえ地域に元気の良い会社があるのは良いことですよ。新参でも気にすることはない。」


「ええ、はい。中田さんにそう言って頂けるとありがたいです。」


「私はね、もうかれこれ30年ほど“そういう忙しないこと”はしていないものですから。会社は息子に譲り、私は晴耕雨読の毎日ですよ。いや、実際に田畑を耕しているわけではありませんが。ははは。」


「それは羨ましい限りです。」


「働き盛りの成田さんには、引き続き地域を盛り上げて頂きたいと思っています。頑張ってくださいね。」


「ええ、はい。ありがとうございます。頑張ります。」


地元の有力者を相手にする時の成田社長は、いつもと全く違う話し方になる。態度は控えめで、徹底して謙遜。そしてジジイとババアの話を一方的に聞くのだ。1代で財を築いた人間は何かと反感を買いやすいので、これが社長流の処世術なのだろう。

しかしなんだ、成田社長と話している中田というジジイは。先ほどから、まるで働いていないことをステータスだと思っているかのような口ぶりではないか。労働は下賤の者がするものとでも思っているのではないか。いや、間違いなく思っている。現に先ほどから成田社長の隣にいる俺に一瞥もくれない。お前が今持っている不動産だって、労働者達が管理・運営をしているからこそ収益を生み出しているのではないか。自分の生活が誰の力で成り立っているのかを忘れてしまったのであれば、教えてやりたい。それを耄碌と言うのだ。


「どうも、中田さん。」


「あ、これはこれは冨永先生。」


いけ好かない中田の背後から、老爺と30代と見られる男の2人組がやってきた。老爺の方はべっ甲の眼鏡をかけていて、背は丸まっているが大柄、髪は白くなり後退しているものの、スーツの着こなしに気品が見られる。ああ…これはきっと金持ちだ。なんとなく分かる。

今“先生”と呼ばれていたが…冨永…冨永…?そうだ、あの顔は冨永名誉教授だ。寺川市にある国立大学の。地元の大手スーパーマーケットの会長でもある。あのスーパーには俺も何度か営業をかけたが門前払いを食らっている。老爺の横にいる若い男は、背が高くガッチリとした体格で、顔は浅黒く精悍、非常に整った俳優のような…え…?


「中田さん、孫の誠一を連れてきましたよ。」


「おおー!誠一君、お久しぶりです。君が小さい頃に1度会ったことがあるんだけどね、覚えていないだろうねぇ。」


「中田おじさん、ご無沙汰しております。いえ、実はうっすら覚えています。確か、以前どこかのパーティーの時に。」


「そうそう。いやぁ、大きくなったねぇ。」


「誠一はK大学を卒業した後外資系コンサルタント会社に就職しましてね。そこを退職して、今度うちの会社の役員になる予定なんですよ。」


「そうですかそうですか。いやぁ、やっぱり誠一君は優秀だ。」


冨永…誠一…。嘘だろ…こんなところで…。


「中田さん、そちらの方々は?」


「ああ、こちらはですね、地元でカーディーラーを営んでいる成田さん。」


「初めまして、成田です。隣の彼は帝日証券の寺川支店に勤めている義田くんです。私の友人でして、今日は無理を言って連れてきてしまいました。」


「初めまして、義田です。」


中田から一貫して存在を無視されている俺に気を遣って、成田社長が紹介してくれた。


「証券会社…。はぁ、そうですか。いや、まぁ、ご友人は大事にされるべきでしょうな。」


証券会社と聞いて、冨永老人は露骨に態度を変えた。直接的には言わないが、「お前は歓迎しない。それを察してくれ」という態度だ。言葉に出さなければ自分の品格を保てるとでも思っているのだろうか。メラビアンの法則によれば、人間同士がコミュニケーションによって受け取る情報のうち、視覚情報は55%を占めるのだとか。だとすれば、言葉に出すより態度に出すことの方がよほど失礼だ。


「あれ…?いや、すみません。もしかして、義田君…?K大学で一緒だった…。」


「はい。お久しぶりです。」


「いや本当に久しぶり。“あの後”どうしたのかと思ったけど、そうかぁ、証券会社で働いているんだ!」


「ええ、運良く職を得まして。」


「なんだ誠一、知り合いか?」


「うん。K大学で1年生の時に何度か。」


「そうか。」


「でも、義田君大学を辞めたって聞いたからさ。心配してたんだよ。」


「ええ。ちょっと家庭の事情もありまして。」


「そうなんだね…。」


「申し訳ありません皆様。実はこれから出勤しなければならず、そろそろ失礼させて頂きます。」


「出勤?土曜日なのに。」


「ええ。貧乏暇なし、休日出勤というやつでして。」


「そうかぁ。いやぁ、もっと話したかったなぁ。」


「成田社長、すみません。」


「…うん、分かった。忙しい中無理言って連れてきてすまないね。」


「いえ。失礼いたします。」


***


飲んだ。


銀杏会を嘘で抜けた後、しこたま飲んだ。思考がまとまらない。記憶も曖昧だ。いつの間にか、桜の蕾が目立ち始めた大学通りを歩いている。

まさかあんな場所で冨永誠一と会うとは…。最悪の気分だ。大学1年生の時ぶり…か。いや、立派立派…K大を卒業したあと大手外コンに就職し、そこを辞めた後は一族経営の会社役員ですか…。あのグループは非上場だから財務内容は詳しく公開されていないが…。確か、持株会社の売上高は580億円…従業員数はパート含めグループ全体で4,000人だったな。地場企業としてはトップクラスの規模だ。30代前半でそんな会社の役員か冨永。いずれは跡を継いで社長か?世襲ここに極まれりだな。


俺は、小学生の頃から勉強が少し得意だった。別に塾には通っていない。家庭教師もついてはいなかったし、親が教育熱心だったわけでもない。「自分の力」で勉強した結果だった。

勉強のできる人間は偏差値の高い学校に進学する…なんて、都会の世界観だ。俺は周囲と同じように、大して偏差値の高くない地元の高校に進学した。普通だ。うちの地元じゃこれが普通。頭が良くても悪くても、みんなこの高校に通うのだ。そもそも、「偏差値の高い学校に進学する意味」とか「大学に進学する必要性」とやらを正しく説明できる大人が周囲にほとんどいないのだ。そんな環境で育ったら、学校選択だってそうなるだろうさ。


SNSは悪魔の発明だ。

高校2年生の頃、親にスマートフォンを買ってもらった。金の無い家というのは、たまに驚くようなことに金を使う。だから金が無いのではないかとも思ったが、最新の機器に胸は踊った。試しに当時テレビで話題になっていたSNSをインストールしてみるとびっくり。そこには世の格差が一覧化されていたのだ。

どうやら、都会にいる綺羅びやかな同世代達は大学に進学するのが当たり前らしい。大学には格付けのようなものがあって、ランク的に上位の大学に進学できない人間は「負け組」なのだと言う連中もいた。負け組大学に進学した人間は、まともな就職もできないそうなのだ。そうやって大学のランクで言い争ってる奴ら曰く、そもそも高卒はあり得ないのだとか。ディスプレイ越しに異世界の価値観を垣間見たような衝撃だった。

どこからどこまで本当の話なのか分からないので、インターネットで見た情報について親や教師に聞いてみたが、やはり彼らは明確な回答を持ち合わせていなかった。この地域の大人達は、地元の中学・高校を卒業して地元で働くビジョン以外持っていないのだ。母親は俺に、高校を卒業した後は地元の市役所で働いて欲しいと言う。それが、母親なりのベストシナリオらしい。


他所は他所、うちはうちと割り切ることができたらどれだけ楽だったか。

知らなくて良かった格差を突きつけられ、自分が明らかに格差の下側にいることに気付かされて、しかもそれが「生まれ」という本人からすればどうしようもないことによるものと知って、精神のバランスを保てる10代がどれだけいる。きっとこのSNSを生み出した人間は、ただ作って、ただ流行ればいいとしか思っていないに違いない。何でもかんでも「オープン」にすることが、格差の下側にいることを自覚していなかった者達にどれほどの劣等感を与えるのか。そういったことを考えもせずコレを世界に広めたのではないか。そう疑問に思いSNS創業者の生い立ちについて調べてみると、海外の有名なH大学在学中にこのSNS事業を始め、軌道に乗った後に中退したのだとか。ちなみに両親は医者。くたばれと思った。そりゃ格差になんて関心すら持たないわけだ。


しかし、インターネットは劣等感とともに叡智も授けてくれる。世には「奨学金」というものがあって、これを借りれば金が無くても大学に進学できるというのだ。その話をすると、母親は借金(奨学金)は恐ろしいと強く反対した。テレビで報道されている奨学金破綻者の話を何度も何度も繰り返し俺に話し、「借金はダメ、借金は危険」と念仏のように唱えてきたのである。俺が高校3年生の時、第二種奨学金の返済金利は利率変動方式で1%を割っていた。利率固定方式ですら1.5%前後で、これは当時の市場金利と比べても相当に低い水準だ。また、就職後に収入が少なかったり病気や怪我で働けなくなったりした時は返済を猶予・免除できる仕組みもある。これも一般的なローン商品と比べ破格である。それに日本学生支援機構が公開している奨学金の返済率は毎年96〜98%で、テレビに出てくるような奨学金破綻者達はマイノリティもいいところだ。そもそも、俺は無利息の第一種奨学金を借りるつもりだった。

…そんな感じで、俺はインターネットで学習した内容をデータと共に1つ1つ母に説明したが、母の知力の限界を超えていたのか精神的パニックなのか、もはや理屈やデータでどうこうなるものではなかった。親はダメだと思い高校教師に相談してみたのだが、進路指導教員は奨学金の返済利率を「3%」だと言う。俺は頭がクラクラした。それは上限利率であって現在の返済利率ではない。こいつもダメだとすぐに分かり、相談を切り上げた。

つまり、俺の周囲にいる大人達は、俺が思う以上に世の中のことを知らなかったのだ。金融についても、学歴についても、就職についても、恐らくそれ以外のことも、インターネットで調べれば高校生でも分かるようなことを分かっていなかったのだ。にも関わらず、「大人である」というだけのことで俺の進路には知ったような顔で助言をする。俺は怖くなった。自分は、人も物も常識も世間から隔絶された環境にいるのではないかと。無知な大人達が、その無知によって、俺をこんな場所に縛り付けようとしているのではないかと。


俺が田舎から出て東京の大学に行くことを決めたのはこの時だ。人間には生まれながらの階層というのがあって、残念ながら俺はその下側に生まれた。しかし、階層を飛び越え別の階層に移るチャンスというのはある。それが大学受験と就職活動なのだと、この時は信じていた。学費と1人暮らしの生活費は、第一種・第二種奨学金のどちらも借りればどうにかなる。先に金を借り、大学に行き、良い職を得て返済する。そういう意味ではこれは先行投資のようなものだ。奨学金というのは、俺のように下の階層に生まれた人間にチャンスを与えてくれる素晴らしい制度である。

富める者が“金”を“融”通し、貧しい者にチャンスが与えられる。「金融」という仕組みに関心を持ったのもこの時だ。


18歳の春、俺は第二志望のK大学のキャンパスにいた。第1志望の国立大学には落ちてしまったが、自分の出自からすれば上々の結果と言っていい。母親はとにかく借金(奨学金)を心配したが、金融リテラシーの「き」の字も無い母を相手にするのは疲れたので、「大丈夫」とだけ言って説き伏せた。


「冨永誠一」という男と出会ったのは、大学の新入生歓迎会だ。勉強一筋で生きてきた田舎者は、とにかく世俗に疎い。ファッションや趣味、流行などの話をする周囲と馴染めなかった俺に、奴の方から話しかけてきた。新入生の中ではなぜか既にグループが形成されており、冨永はその中心人物のような男だった。背は高くガッチリとした体格で、顔は浅黒く精悍、非常に整った顔をしている俳優のような男である。浅黒い顔とは対照的に歯は白く綺麗に並んでおり、笑う時には輝いて見えた。ファッションも垢抜けていて、田舎者丸出しの俺とは大違いであった。きっとこいつは、都会の真ん中を歩く時に、自分の歩き方や服装が変ではないか気にしたことなんて1度も無いに違いない。


冨永は、まず間違いなく人間的に悪ではなかった。周囲に溶け込めない俺に気を遣い、わざわざ話を振ってくれたのだから。しかし、自分達の常識とあまりにも乖離した現実に直面した時は、どう反応するのが正しいのか分からないようだった。

俺の家庭の話になると、冨永やその周囲にいる連中は、信じられない話を聞いたという顔をするのだ。確かに俺の母親は中卒だ。俺は母親の無能さに腹を立てたことはあるが、母親の学歴を恥だと思ったこともおかしいと思ったこともない。だが、どうやら冨永達からしたら驚くべきことらしい。しかしその反応は不味いと思ったのか、彼らはすぐさまうちの家庭をフォローしてきた。

確かに俺は片親家庭で育った。俺は自分を可哀想だと思ったことはないが、冨永達は随分と悲痛な顔をして同情的に俺の話を聞いた。

実家の風呂は薪で沸かしているが、冨永達はこの話をギャグだと思ったらしく「むしろお洒落」だと笑った。

さすがに便所は汲み取り式ではないと話すと、冨永達はいよいよ我慢できなくなったらしく、腹が捩れるのではないかという勢いで笑った。

この時の会話をきっかけに、俺は冨永を中心としたグループと大学内でたまに話すような関係性になったが、自分が当たり前だと思っていたことを話して同情されたり大笑いされたりするのは気持ちの良いものではない。以来、俺はそいつらに対して極力家の話をしないようにした。


冨永達と会話を重ねる中で、俺はこの大学の仕組みを知った。彼らは俺のように一般入試に合格してK大学に入学したのではなく、この大学系列の小学校からエスカレーターで上がってきたのだと言う。俺のような学生のことを「外部」、冨永のような学生のことを「内部」と呼ぶらしい。

それを聞いて、俺は困惑した。学力試験一発勝負で全員平等に競うのが大学受験の理念ではないのか。平等だからこそ、全力で競った結果に納得ができるのではないのか。もし冨永達の言っていることが真実だとすれば、この世には生まれた瞬間学歴をほぼ約束された者達がいるということではないか。

なんだそれは。どこが平等だというのか。どこが実力主義だというのか。


だが、恵まれた者達に「こうあって欲しい」と願うルサンチマンを満たしてくれるのは、ドラマや漫画の世界だけなのかもしれない。悔しいことに、冨永達は無能ではなかった。恵まれた出自は能力や人格をも育むらしく、彼らは頭脳明晰であったし、どんな者達とも別け隔てなく積極的に関わる社交性も身に付けていた。学業や課外活動にも熱心で、特に金と人脈に物を言わせて行う課外活動のスケールにはいつも驚かされた。彼らは口々に「大学は学問や貴重な体験のためにある」と言う。さすが、奨学金も借りていないお坊ちゃんお嬢ちゃんはご立派なことを言う。俺からすれば大学なんて良い職を得るための手段であり、就職予備校だ。お前達のように現実の生活を軽視したような言い方はできない。

とにかく、これらの現実は俺の心を激しく傷つけた。甘やかされて育った金持ちのボンボンは、せめて無能であるべきではないのか?人格破綻者であるべきではないのか?そうでなければ、救いが無いではないか。冨永達に対してそんな気持ちを抱く俺こそが、人格破綻者なのではないか。

勉強以外何もできない俺の劣等感は、大学入学後半年も経たずして限界に達していた。それが爆発したのは、ある日、学内のカフェで冨永達と食事をした時だ。一旦離席し、手洗いから戻ってきた俺の耳に、冨永の声が聞こえてきた。


「彼、黄色くない?」と。


確かに聞こえた。間違いなく聞こえた。俺の歯のことだった。


冨永誠一。

お前からすれば、ただの軽口だったのだろう。世間一般の感覚でも軽口の範囲だろう。

だが、人の見た目の欠点を口にする時は覚悟を持つべきだ。生まれた時から恵まれているお前は想像したことも無いかもしれないが、お前が指摘する俺の欠点の背景にあるのは、明らかに生まれながらの格差だろう。確かに俺の親は貧乏で、教育意識に乏しいよ。子供の身嗜みにもさほど関心が無いさ。綺麗な歯をしているお前と違って、俺の歯は黄色いし並びも悪いさ。でもな、それは子供の歯を気にかけない、気にかけたとしても金を投じることのできない親の下にたまたま生まれただけだ。俺の何が悪い。

お前はきっと、あくまで俺個人にそれを言ったのであって、俺の親を批判するつもりなど毛頭無いに違いない。それが余計に問題だ。生まれの差というものに、お前は鈍感すぎるのだ。いや、お前だけじゃない。お前のような奴ら全員がそうだ。


俺が、誰の、何に怒っているのか。

お前ら恵まれた人間達の無自覚さに怒っているんだよ。


俺は大学を辞めた。親の制止を振り切って辞めた。これ以上あの環境に耐えられなかった。きっと俺以外の外部組の中にも、俺と同じような劣等感を抱えていた奴らがいたに違いない。そいつらは劣等感に耐えられたのかもしれない。現実に折り合いをつけることができたのかもしれない。しかし俺にそれは無理だった。


俺は大学を辞めて、働いた。倉庫で働いた。工場で働いた。金を貯めて、真っ先に歯のホワイトニングと矯正をした。それでやっと人前で堂々と口を開けるようになったよ。おい冨永、いくらかかったと思う。200万円以上だよ。今だって金を投じ続けている。お前にとってははした金か?俺は必死に貯めたがな。

ファッションや芸術、流行についても勉強したよ。お前らが当たり前に生きてきて当たり前に知ったことを、俺は何1つ知らなかったからな。

それだけじゃない。考えたよ、探したよ、お前らみたいな人間達に一撃を加えられる職業を。

金融機関が良いと思った。しかし残念ながらどこも大卒採用ばかりだ。そんな中で、1つだけあったんだよ。


証券会社のFA職。

高卒でも働けて、上級国民の資産にアクセスできて、総合職と違い異動が無い。全ての条件を満たす職業が、あったんだよ。


***


泥酔しながら昔のことを思い出し歩いていると、いつの間にか大学通りを抜け駅前に着いていた。


冨永誠一。

俺はお前個人を憎悪しているのではない。お前は象徴だ。生まれた瞬間から格差の上層にいる人間達の象徴が、俺にとってはお前なのだ。俺は、お前のような人間達が全員憎くて堪らないのだ。


俺はなんのためにこんな仕事をしているのか。


俺はなんのために富裕層に取り入ってきたのか。


俺はなんのためにこの土地で10年以上信用を築いてきたのか。


つまり、“そういうこと”だ。


もしこれが1つの物語だとしたら、ここまで読んで読者は勘違いをしているかもしれない。


この物語は「帝日証券寺川支店に勤める証券マンの営業奮闘記」ではない。


現代の義賊による、「巨額投資詐欺事件簿」である。

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