第2話 カフェで教育の話をするな専業主婦ども
商談を終えたら支店に真っ直ぐ戻るほど俺は律儀な社員じゃない。
どうせ、今支店に戻っても課の連中が血相変えてノルマを詰めている最中だろう。見たくもないし、定時になるまでどこかのカフェで暇つぶしだ。
町を歩いていると、俺はいつもこういうことを考える。
今俺が通り過ぎた一軒家は誰の物だ?恐らく、あの一軒家に住んでいる人間の物だろう。では、あそこのガレージに駐められた車は誰の物だ?恐らく、ガレージのある一軒家に住んでいる人間の物だろう。ならば、正面に見えるマンションは誰のものだ?恐らく、物件オーナーの物だろう。それでは、道路を渡った先にある不動産会社は誰の物だ?株主の物だろう。
そういう目線で町を歩いてみると、この目に映る物は絶対に誰かが所有しているという当たり前の現実に気づく。そして驚愕する。今通り過ぎた何の変哲もない一軒家は一体何千万円する?それが、こんなに並んでいる。あんなに並んでいる。車も当たり前のように並んでいる。駅周辺にある綺麗なオフィスビルも有名企業も、遡っていけば結局誰かの所有物なのだと考えると逆に現実味が無い。
国税庁の令和2年民間給与実態統計調査によれば、20代前半男女の平均給与は約259万円、20代後半で約361万円、30代前半になっても約400万円。たったそれだけの給与で、この国にどんな未来予想図を描けるというのだろうか。何を所有できるというのだろうか。所有することを諦め、町の景色に加わらないという選択をする者達が増えるのも理解できる。
そんな住宅街を抜け、大学通り沿いのカフェチェーン店に入った。店頭でホットコーヒーを注文し2階へ上がる。
この店の2階は大学通り沿いの桜と高さが丁度合う。2月の今は殺風景だが、春には満開の桜を窓越しに見ることのできる花見スポットだ。低価格帯の店なので、ここはハイソぶった客が少ない。1人客が多く、雑談する者も少ないのでよく利用している。これがもし同じ通り沿いにあるコーヒーが550円もする店だと、昼間っから専業主婦や老人たちがたむろしていて鬱陶しい。それで子育てや孫の話なんかをしているとさらに嫌な気持ちになる。
窓越しに町を眺めながらコーヒーをすする。
考えてみると、証券会社の営業というのは結構プライバシーに踏み込む職業だ。扱う商品は株や債券、投資信託といった有価証券だが、いわゆる「ファイナンシャルプランニング」のためには、顧客の人生設計についても聞かなければならない。例えばその顧客がどんな仕事をしていて、どの程度の収入や資産があって、子供が何人いて、どのような教育計画で、老後をどう考えていて、相続をどうする予定なのか等々の情報も耳にする。それらについて顧客が全て話してくれるかどうかは、証券マンと顧客の信頼関係によるだろうが。
とにかく、業務の結果として俺達の知識は金融に留まらなくなる。自然と、顧客の趣味嗜好や価値観、文化等々、金融と無関係のことにも知見が広がってしまうというわけだ。むしろ、金融商品の提案と直接関係の無い雑談こそが情報収集のために重要と言えるかもしれない。
そんな仕事をしていて俺がいよいよ堪らなく思うのは、格差の存在だ。さっきの金井という客も典型的なソレだが、人間というのは生まれた瞬間から格差がある。単に経済的な格差があるだけならばマシなのだが、それは例えば教育にも及ぶ。出自に恵まれた人間達が、どれだけ恵まれた環境で育ち、恵まれた教育を受けているのか俺は知っている。そんな恵まれた人間達が子供を作り、その子供にどれだけ恵まれた教育をするのか俺は知っている。教育格差の一端は、例えば「学歴」にあらわれたりもするが、それは結果。表層的なものに過ぎない。真に絶望的な格差は、その結果に至るまでの教育プロセスにある。
「下の子何歳でしたっけー?」
「今2歳なのー。」
「あー、大事な時期ですよねー。」
「そうそう。最近は自分で絵本読んでる。」
「うちの子は今単語カルタやらせててー。」
「あー、いいらしいねそれ。」
「やっぱり、子供の頃の語彙力大事ですからねー。」
「ねー。3,000万語の格差ね。」
「そうそう。」
いつの間にか教育ママ達が店に入り込んでいたようだ。さすが、この町に住む教育意識の高いママ達は教育について一家言あるらしく鬱陶しい。
今彼女達が口にした「3,000万語の格差」とは、子供が生まれてから4歳になるまでに聞いた言葉の質や数が、その子供の将来に関わるというアメリカの有名な調査研究のことだろう。調査によると、経済力の高いグループの親ほど子供に話しかける数が多い傾向が見られるらしく、その語数を経済力の低いグループと比較すると、4歳までに3,000万語以上の差があるのだという。その差は子供の3歳終了時点での言語習得数や、その後の学習能力にも影響する。また、経済力の低いグループの親ほど子供に対して否定的な言葉を投げかける数が多く、経済力の高いグループの親は肯定的な言葉を用いる数が多い傾向も見られるそうだ。その差は子供の人格形成にも少なからず影響するだろう。
今時の言葉を用いれば、「親ガチャ」の存在を明らかにするかのような調査である。
そういった教育効果を知っている親は、自分の子供の幼少期教育を非常に大事にする。良いとされる言葉を子供に沢山投げかけ、言語によるコミュニケーションを積極的に取り、絵本を読み聞かせ、小道具によって楽しく学習をさせる。他人とも積極的に交流させる。これが将来の学習の素地となるのだ。
一昔前のドラマやアニメには、子供に勉強を詰め込み偏差値を高め受験に成功させることを「教育」と思い込んでいるヒステリックな教育ママ・パパが登場したものだが、アレはむしろ教育としては間違いである。それが、多少教育知識のある親達の認識だ。
まず幼少期に学習の素地を作ることが重要で、その先に受験があり、学歴があるのだということを、教育知識のある親達は知っている。素地を無視して偏差値だけを高める教育は、子供の成長をどこかで歪め、最悪社会からのリタイアを招く。
つまり教育格差というものは0歳時点から発生しているのだが、親から良い教育を受けるのは子供の力ではない。たまたま教育知識と能力、経済力のある親の下に生まれた子供が、たまたま良い教育を受け、たまたま良い学歴を得ているだけなのである。それを自分の実力だと思いこんでいる人間の多さに、俺はうんざりする。
カフェの窓から見えるこの町の景色にすらうんざりしてくる。まるで「これこそが良き正しき人生なのである」と上から言われているような気持ちになる。
…そろそろ支店に帰ろう。この空間の耐え難さよりはマシだろうから。
***
「戻りました。」
寺川駅から徒歩1分のオフィスビルの中に、俺が勤める帝日証券寺川支店がある。
1階には顧客対応用のブースが並び、奥にエレベーターと階段がある。客がいなくても管理職以外の社員は原則としてエレベーターを使ってはいけないという謎のルールがあるので、階段で2階へ。
ここが俺達営業の働くフロア。20人程度を収容しているだけなので、そこまで広くはない。6〜7名を1組とした課が3つあり、俺は「営業部第一課」に属している。課ごとに分けられたデスクの上には、パソコンや固定電話、チャート等の資料が置かれている。中央のデスクに座っている課長の背後にはホワイトボード。そこに、“今月絶対売らないといけない商品”の残り金額と、目標収益額、投資信託の純増販売額などが課員ごとに記されている。課員達の営業成績がリアルタイムで一目瞭然というわけだ。
「あ、義田さん。すみませんが上の階まで来て頂けます?」
「え?はい。」
嫌な奴からの呼び出しだ。
この青白くて背の低い神経質そうな男は、3階の総務で働く細田という。一口に総務と言っても業界や企業によって業務内容は異なるだろうが、うちの会社の支店総務は、専ら営業マンのコンプライアンスチェックを担う。昔ほどではないが、証券営業の強引さは度々問題になっているし金融庁も規制を強めている。そんなわけで、営業達が取引ルールをちゃんと守っているのか総務が目を光らせているというわけだ。具体的には、俺達と顧客の電話内容を聞いたり、取引履歴を見たり、営業報告書を読んだり、といった感じである。
うちの会社に総合職で就職した者達の多くは支店営業に配属されるのだが、業務の中で「営業適性無し」と評価された者達は、本人の希望とは別に内勤に異動させられる傾向がある。支店総務もそういった異動先の1つで、この細田も入社当初は野心に燃えていたようなのだが、営業結果が振るわなかったらしく現在は総務で働いている。人間というのは、現在置かれている環境の中で野心を燃やそうとするものらしい。細田も例外ではなく、営業から外された今は総務という環境の中で実績を作ろうと努力しているようだ。つまり、毎日熱心に営業の取引内容をチェックし、重箱の隅から隅まで突きまくる迷惑極まりないモンスターとなってしまったのである。当然、営業からは嫌われている。それどころか、総務課長ですら細田を持て余しているようだ。
「義田さん。お客さんの中に渡辺幸恵さんっているでしょう。その取引過程についてお伺いしたいのですが。」
3階にある自分のデスクに座った細田は、カルティエのスクエア型眼鏡を指で上げてパソコン画面の顧客履歴を見せてきた。フレームの色はシルバー。いかにもインテリと見られたい人間がかけそうなデザインの眼鏡だ。
「渡辺さんがなんですか?」
「先月渡辺さんの方から注文が入っていますよね。投資信託。」
「あー、あれですか。あれは私もびっくりしましたよ。まさかあっちから注文が入るなんて。」
「…渡辺さんに投資信託の提案をしていませんか?」
「え?そんなこと渡辺さんの顧客履歴に書いてありました?」
「いえ、書いてはありませんでしたが…。」
「ですよね。じゃあ提案なんてしてないですよ。あっちが勝手に注文してきたんです。」
「義田さんが裏で提案しておいて、顧客履歴には提案した事実を書かなかったんじゃないですか?」
「はい?なんのために?」
「とぼけないでください。渡辺さんは高齢者でしょう。原則として高齢者には証券会社側からリスク商品の提案ができません。ですが、顧客からの希望で注文してきたのであれば受注できる。顧客に裏で投資信託の提案をして、提案した事実は顧客履歴に残さず、顧客側から注文するように指示していたんじゃないんですか!?だとしたらこれは重大なコンプラ違反ですよ!」
細田は憶測と偏見に基き俺の過去取引を論うが、実際のところ、俺が黒か黒寄りのグレーな取引をしているのは事実だ。ただし、証拠となるようなものは何も残していないが。そもそも、俺がそういった取引をしていることは課長や支店長も気づいているはずだ。俺1人で稼ぐ収益が支店収益の2~3割を占めているものだから、支店の成績を落とさないために気づかないフリをしているだけで。
細田よ、空気を読め。支店成績の要となっている俺の過去取引を突いて良いことなんて1つも無いと思わないか。
「…細田さん。それ証拠があって言ってます?憶測で言ってるならハラスメントでしょ。やってもいない不正行為の疑いをかけるなんて、酷いじゃないですか。そんなに疑うなら渡辺さんに電話して聞いてみたらどうです?」
「それもどうせ対策済みなんでしょう?あなたが証拠を残すはずがない。」
「何の対策ですか。証拠は全部残していますよ。私と顧客とのやり取りは全部顧客履歴に書いていますし、書類を郵送した証拠や電話記録も残っているでしょ?それが全てです。」
「義田さん。あなた業界何年目でしたっけ?11年くらいですか?証券業界はいつまでも昔のままじゃないんですよ。そりゃ昔はコンプライアンス意識の欠片も無い取引が横行していましたけどね、時代は変わったんです。高齢者への勧誘や短期売買も原則禁じられているんです。いつまで昔の証券業界の感覚で仕事しているんです?」
「ですから、私の取引に何か問題があるなら憶測ではなく証拠を持ってきてくださいよ。細田さん、仕事熱心なのは良いことだと思いますけどね、邪推が過ぎると営業側も仕事がやりにくくなりますよ。」
「義田!」
「あ、課長。」
「ちょっといいか!」
「はい、今行きます。」
「呼ばれたんで、行っていいですかね?」
「…ええ、どうぞ。」
「細田さん、私の取引のことを指摘したいならちゃんと調べた上でお願いしますね。」
「……。」
***
「…それで、今日はどうだった?」
2階に戻り自分のデスクに座った課長の上村は、やや申し訳なさそうに俺の営業成果を聞いてきた。
「そうですね。金井様のお宅に伺いまして、恐らくは新発米ドル債がまとまった額売れるかと。」
「本当か!?いくらになる?」
「さぁそこまでは…。後で金井様の方から電話が来ると思います。」
「そ、そうか…。いやよくやってくれた。」
「いえ。」
改めてホワイトボードを見ると、新発米ドル債の売れ残りが課全体で38万米ドルほどあった。2022年2月現在のドル円レートで約4,400万円だ。販売期限まであと1週間といったところだし、他にも“販売しないといけない商品”が大量にあるものだから、課長も気が気じゃないだろう。
“販売しないといけない商品”とは、証券会社が企業から引き受けてきた社債や株式、投資信託のことだ。現在市場に流通しているものではなく、企業側が新たに発行、売出し、設定した有価証券である。通称「引受・募集物」と言う。こういった引受・募集物商品は、証券会社が全額責任を持って販売しないといけないノルマとなるため、度々営業現場を苦しめる。
とはいえ、FA職の俺はかなりマシな方だろう。商品の売買収益と給与が連動し、半ば個人事業主のような働き方をしているFA職は、会社側から付与されるノルマが少ない。課のノルマに重い責任を負っているのは主に総合職の連中なのである。課長が俺に対して申し訳なさそうに営業成果を聞いてきたのも、俺自身は既に今月分の引受・募集物商品のノルマを達成しており、これ以上販売する責任が無いからだ。
「義田さん、金井様からお電話きてます。128です。」
「ありがとうございます。課長、よろしいですか?」
「あ、ああ。頼んだぞ。」
不安げな課長を余所にして自分のデスクに戻り、パーク保留に出る。
「お電話代わりました。営業部第一課の義田です。」
「ああ、義田君か。金井です。」
「金井様。先ほどはお世話になりました。」
「いやいや、いいんだよ。それでね、さっき提案してもらった米ドル建て社債についてなんだけど。」
「はい。」
「銀行側にも聞いてみたのだが、確かに米ドル定期預金よりも条件が良い。それで色々考えた結果、銀行定期を解約してそちらに米ドルを送金し、それでさっきの債券を買おうと思っているんだ。」
「ありがとうございます。しかし、それは銀行側にもかなり止められたのではないですか?」
「ははは、まぁ担当者は渋っていたけどね。しかし私の金なのだから、私の思い通りにいかないとおかしいだろう?」
「ええ、仰る通りです。」
「それで、とりあえず40万米ドル分頂けるかな。」
「TF社の米ドル債40万米ドルでございますか。少々お待ちください。残額を確認いたします。」
やや大きな声で「40万米ドル」と言いながら課長の上村に目配せをすると、上村はすぐさま隣の二課の課長と話し合い始めた。一課が負っている米ドル債のノルマは38万米ドル。40万米ドルを販売するために、二課の課長と話し合って米ドル債のノルマを2万米ドル分けて貰おうとしているのだろう。同じくノルマで苦しむ二課の課長がそれを拒否するはずもなく、課長同士の話し合いはすぐに終わり、上村はこちらに向かって笑顔で勢い良く3度腕を上げOKサインを出してきた。
「お待たせいたしました。40万米ドルのご購入ですね。それでは事務的な確認となりますが、まず目論見書はご覧頂いておりますでしょうか…」
さっきまで電話で必死に米ドル債を販売していた他の課員達は手を止め、俺の注文確認を聞きながら息をついた。米ドル債のノルマ終了である。
***
「はい!TF社の米ドル債終了!みんな、義田に感謝しよう!」
「さー!次は新発日本株投信残り8,500万円!できる限り純増で頑張ろう!」
米ドル債のノルマが終わり多少血色の良くなった上村が課を鼓舞する。それを聞いた課員達は、束の間の休息から目覚め受話器を取り営業を再開した。ノルマが終わったら次のノルマへ。これが証券会社の日常的な光景なのである。
ちなみに、俺はさっきの金井のような生まれ持っての金持ちも嫌いだが、この帝日証券で働いている連中も7~8割方は好きになれない。
帝日証券は業界大手だ。総合職はそれなりの大学を出ている人間が多く、さっき俺の過去取引を論ってきた細田は東京の有名私立大学、課長の上村は地方の有名国立大学を出ている。課の同僚達も大体似たような水準の大学出身者だ。
帝日証券は高給だ。有価証券報告書で公開されている平均年間給与は39歳で958万円。しかしそれは地域職まで含めた平均で、総合職に限定すれば20代後半から30代前半で年収1,000万円程度になる。成績上位のセールスならそれくらいの歳で1,500~2,000万円ほど。支店長級ならまず2,000万円を下回ることはない。そりゃ思ったより人が辞めないわけだ。
労働者としてはなかなかの金額を稼ぐこいつらだが、それは全て自身の実力だろうか。違うだろう。こいつらは、生まれてから社会に出るまでに親からどれだけの投資を受けた。経済的にも文化的にも恵まれたこいつらが、良い教育を受け、良い学校に進学し、良い就職をし、高給を得たところで何が偉いというのだろう。
俺が心底腹が立つのは、自分で稼いだわけでもない経済的資本と、自分が醸成したわけでもない文化的資本を注ぎ込まれて育てられたこいつらが、自分の成功を全て自分の力だと思い込んでいるところだ。こいつらが賢しらに喋る横文字の金融用語を聞くたびに、恥ずかしくなる。よくもまぁ、他人の力で成り上がった人間がここまで賢そうに振舞えるものだ。
「投資信託は純増だよ純増!乗り換えじゃなくて、純増販売を頼むよ!」
上村の鼓舞が続く。
上村は本社からジョブローテーションで支店に来た男だ。ここで課長として成果を上げたら、恐らくまた本社部門に戻って人事部か営業企画部あたりに行くに違いない。エリートに支店を経験させておくのは、うちの会社の典型的な出世ルートだから。支店は全国に100以上、営業課は500以上あり、上村の成績も全国の課長達と常に比較されている。この支店で成果を出さなければ出世ルートから外れるかもしれないので、上村は上村で出世レースに必死なのだ。この感じだと今日もこいつらは残業なのだろうが、俺まで付き合う義理はない。FA職に残業代はほとんどつかない。
「課長、私はもうよろしいでしょうか。」
「あ、はいはい!義田、お疲れ様!ほんとありがとね!ほんとに助かった!」
「いえ。お疲れ様です。お先に失礼します。」
「義田先輩!お疲れ様です!」
「シモ、お疲れ。」
「…義田さん、今日も定時あがりか。」
「…下柳、お前義田さんとよく普通に話せるな。」
「え?変ですか?」
「いや…まぁ…あの人あんま他人と絡まないからな。飲み会も付き合い以外で来ないし。」
「でも結構話してみると良い人っすけどねぇ。」
「ほんとかよ…。」
「ほらお前ら!雑談してないで電話電話!」
「はい…。」
「すみません。」
「下柳はあがれ。1年目が残業してもやることないからな。」
「あ、はい!すみませんお先に失礼しますー!」
***
「義田先輩ー!待ってくださいよー!」
「…なんだシモ。お前もあがりか。」
「はい!1年目が残業してもやることがないと課長に言われました!」
「その通りすぎるな。」
「先輩、どっか飯連れて行ってくださいよ!」
「飯…?駅前の安居酒屋ならいいぞ。」
「はい!どこでもいいっす!」
***
昔の…それこそバブル時代の証券業界と言えば、仕事終わりに酒飲んでカラオケ行って女のいる店行ってラーメンで〆ていたものらしいが、今は随分と時代が変わった。大企業にコンプライアンス意識が強く求められるようになった昨今、ハラスメントの温床になりやすい酒の席はリスクでしかない。時代の変化についていけない一部の昔気質な証券マンを除けば、大人しいものだ。
ちなみに、うちの会社は10年ほど前に「二次会禁止令」なるものが発布されている。一次会までは付き合いとして、二次会以降は許さないと会社が言っているわけだ。こんなものが本部から発布される会社が他にあるのだろうか?昔はどれほど酷かったのか想像できるだろう。まぁ、未だあの手この手で二次会を催している奴らもいるらしいが。
「先輩、聞いてます?新規開拓のやり方ですよ!やり方!」
下柳は1杯目に頼んだカシスオレンジを飲み干してそう言った。最近の若手社員は1杯目に生ビールを頼まないが、それも時代の変化だろう。
「前も言っただろ。金持ち探して、当たるだけだ。」
「でもお金持ちって、会ってくれなそうじゃないっすか。」
「じゃあ貧乏人はほいほい会ってくれるか?証券マンと。」
「…言われてみれば、そんなこともないっすね。」
「そうだろ。証券屋なんて大抵の奴らにとって胡散臭くて鬱陶しい存在なんだから、金持ちだろうが貧乏人だろうが喜んで会ってくれる奴はいない。それなら、1回あたりの取引額が大きい金持ちを重点的に狙った方が効率がいい。大して金持ってない連中を開拓しても事務的な手間が増えるだけだ。そういう小規模客はネット証券に任せとけばいいんだよ。」
「うーん。そりゃリテラシーある人は自分でネット証券使うんでしょうけど。でも、「貯蓄から投資へ」って国が言ってるわけじゃないっすか。それを促進するのが、対面営業してる店舗証券の社会的役割でしょ?あまりお金持ってなくてリテラシー無い人にも投資のメリットを伝えていきたいんですよねー僕。」
「“貯蓄から投資へ”…ね…。日本人の個人金融資産に占める現金・預金の割合知ってるか?」
「はい。約50%です。」
「そう。日銀や金融庁がよくそういったデータを出している。それに対して、アメリカ人の金融資産に占める現金・預金の割合は12〜13%程度。日本人に比べ現金・預金比率が低く、株式や投資信託などを多く保有しているアメリカ人は、投資に積極的と言える。」
「日本人の個人預金は1,000兆円以上ありますもんね。さすがにみんな貯め込みすぎですから、アメリカ人見習って投資しないと。インフレで資産目減りしちゃいますよ。国が「貯蓄から投資へ」と言って投資への参加を呼びかけてるのも、要するにそういうことでしょ?」
「まぁそうなんだが、変な話だと思わないか。」
「え?」
「預金というのは生活のために必要な蓄えでもあって、必ずしも投資余力じゃないだろう。確かに日本全体では1,000兆円の個人預金があるのだろうが、そのうちどれだけが投資に回せる金なんだか。」
「い、いやでも、1,000兆円っすよ…?いくらなんでも貯め込みすぎでは?」
「だから、その1,000兆円の内訳だよ。金持ちと貧乏人の預金がどっちも含まれているわけだろ。前者は投資をする余裕があるだろうさ。しかし後者はどうだ。生活費の支払いで精一杯。投資に金を回してる場合じゃない。」
「それは…」
「それなのに国は、まるで1,000兆円の預金が丸々投資余力かのような言いぶりじゃないか。そのうちどれだけが生活やライフイベントに必要な蓄えなのか、生まれた時から生活で苦労したことのない上流階級の人間達は具体的にイメージできていないんじゃないのか。」
「俺達証券会社がターゲットにすべきなのは、「1,000兆円の個人預金」なんかじゃない。「ごく一部の金持ちどもが貯め込んでいる銀行預金」だ。金持ちどもの銀行預金を開拓しまくって、その金を直接金融市場に流し、金を回し、間接的に国民を豊かにする。それが俺達の社会的役割というものだろ。」
「なるほど…。言われてみたらそうですね。僕ん家も全然投資する余裕無かったもんなぁ。」
「今は就活の会社説明会なんかでも、「1,000兆円の個人預金を投資へ」みたいなこと言ってるらしいな。証券業界。」
「ええ、まぁ。僕もかなりそれに影響受けたクチでして。」
「俺達証券会社は預金腐らせてる金持ちだけ相手にしてりゃいいんだよ。「1,000兆円の個人預金」なんて言い方するからその本質を見誤る奴らが出てくる。」
「義田先輩って、意外と仕事に真面目っすよね。」
「証券会社に就職しといて「社会的役割」とか「意義」とかいう言葉遣う奴そんないないからな。シモ、もし金融リテラシーの無い連中に何か教えたいんだとしたら、それやる場所は証券会社じゃないぞ。実務経験を積んだら、将来金融教室なり何なり開くといい。」
「あ!いいっすねぇそれ!ナイスアイディアです!」
下柳は呑気な笑顔でそう言った。こいつは名前も聞いたことがない地方私立大学の出身で、よくうちみたいな会社に総合職で就職できたもんだと思うが、なるほど人事も節穴ではない。顔や喋り方に似合わずよく勉強しているし、性格も、鼻持ちならない証券マン達の中においては清涼剤のようだ。
「…そう言えば、駄菓子屋の婆ちゃん、最近投資始めたらしいっすよ。」
「…婆さんが?そんな金あんのかあの人。」
「うーん、分かんないっすけど。孫の教育費を稼ぎたいとか言ってましたよ。小口でやってるんじゃないっすか。」
「…どこの会社で?」
「いやー、そこまでは。」
「そうか…。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます