金融義賊
エフ
第1話 くたばれ上級国民
「くたばれ上級国民」
そう思っている人間は、きっとごまんといるに違いない。
では、そのうちどれだけの人間が具体的な計画をしているだろうか。金持ちの肉体を、精神を、地位を、権力を、具体的にいつどこでどうやって喪失させようとしているだろうか。
俺は仕事で、明らかに一般国民とは異なる“特別な生い立ち”の人間達を相手にしている。
だからこれだけは断言できるが、インターネットで何を言おうが奴らを害することはできない。包丁を持って町で暴れても奴らは刺せない。歩行者天国にトラックで突っ込んでも奴らは轢けない。電車に放火しても奴らは乗っていない。ただ暴れるだけで奴らを害することはできない。そこには確かな計画と準備、能力が必要なのだ。
そうしてやっと、弱者の牙は強者に届くのだ。
***
「平和ですねぇ。」
「うちの支店以外はな。」
「先輩、思い出させないでくださいよぉ。」
後輩の下柳は、ソースと青のりのついた紙皿に割り箸を叩きつけて頭を抱えた。
「月末だってのに、支店の収益や投信純増どころか募集物の予算すら埋まってないなんて雰囲気最悪すよ!」
「そうかもな。」
「僕あんな殺伐とした雰囲気の支店に戻りたくないっすよ!課長の顔怖いし、中堅以上の先輩達は課長から詰められてるし、その課長も支店長から詰められてるし!ってか支店長、課長を詰める様子をわざと僕達に見せてません!?あれ課長を通じて間接的に僕達にプレッシャーかけてますよね!?間接的なパワハラっすよね!?」
「そういうパワハラテクニックだな。」
「だから僕、月末を乗り切るまで適当に外回りの理由を作ってサボることに決めたんです!あ!婆ちゃんお好み焼きおかわり!」
「はいはい~。」
駄菓子屋の婆さんは呑気に応じ、お好み焼きを作り始めた。
「シモ。お前、1年目なのにサボりとは良い度胸してるよな。」
「え、そっすか?」
俺がこの下柳という男のどこを気に入っているかというと、人懐っこくてどこか憎めないところ…などではなく、まずは歯並びの悪さだ。
上前歯のうち1本が手前に浮いていて、全体的にすきっ歯。また、笑う時に両奥の銀歯が見えるところや、歯が黄ばんでいるところもいい。
それ以外で気に入っている部分があるとすれば、まぁ地方の裕福ではない家庭出身というところだろうか。
「義田先輩は営業成績ぶっちぎりだからいいですよね。課長からも強く言われず済んで。」
「そもそも俺はFA職だからな。総合職のお前らと違って課の予算にさほど責任を持たない。」
「僕その辺よく分かってないんですけど、FA(フィナンシャルアドバイザー)職ってなんなんですか?義田先輩も僕らと同じように営業してるわけで、違いがよく分からないんですが…。」
「要するに営業専門職だよ。お前ら総合職と違って他の支店や部署に異動することはない。給料もほぼ出来高制で、成績に大きく連動する。」
「え…給料出来高制なんすか…。なんか僕らよりもシビアなんすね…。」
「一応正社員だがほとんど個人事業主みたいなもんだ。だから課の予算に大きく振り回されずに済むが、数字が取れなきゃゴミみたいな給料で働くことになる。」
「へぇ〜。ちなみに先輩は年収おいくらなんすか?」
「去年は3,000万くらいだったな。」
「…まさか先輩って支店で1番稼いでます?」
「支店長よりはな。」
「出来高制エグいなぁ…。」
「基本給が厚い方が安定するだろ。」
「お好み焼き、お待ちどうさま。」
「ありがとう婆ちゃん!」
呑気な婆さんが運んできたお好み焼きを呑気な新人証券マンがほおばっている。
敢えて言う必要もないので話さなかったが、俺がFA職で証券会社に就職したのは、高卒者が証券会社に入り込む数少ない方法だったからだ。応募にあたり大卒以上の学歴を必要とする総合職や投資銀行部門と違い、FA職は学歴不問が多い。
「義田先輩。新規開拓マジでキツいんですけど何か上手いやり方ってありませんか?」
「金持ち探して、当たるだけ。」
「説明になってないっすよ…。」
「本当にそれだけだしな。」
「そういや、いつもサボりに使ってるこの駄菓子屋も長く続いてそうっすよねぇ。意外と儲かってたりして。」
「儲かってはいないだろ。」
「え?そうなんすか?」
「そこの棚に並んでる10円菓子…今は12円か。それを問屋から仕入れる時の相場が8掛けだ。」
「8掛けってなんすか?」
「店頭価格の8割の価格で仕入れているということ。1個12円の菓子なら9円60銭。」
「え…じゃあ1個売れたら利益は2円40銭…?銭なんて単位普段聞かないですけど…。」
「この店のガチャポンなら粗利益率はざっと3割前後。店で1番利益率の高い商品は、多分お前が今食ってるお好み焼きじゃないか。」
「そ、そうなんすね…。」
「こんな場所で婆さん1人でやってる小さな駄菓子屋だ。月間来客数なんて300人もいれば良い方だろ。その大半はガキだろうから客単価100円として、月間売上高は推定3万円。粗利益は多く見積もってもその3〜4割ってところ。そこから水道光熱費を差し引いて残ったのが婆さんの収入。」
「えぇ…それって商売として成り立ってないじゃないですか…。」
「この駄菓子屋がなんで成り立ってるかというと、婆さん1人が自分の家でやっていて、土地代と人件費がかからないからだ。出ていく金が少ないから潰れてないってだけで、儲けなんてほとんど無い。そんな店、町見渡せば大量にあるだろ。」
「そんな儲からないのになんで店なんてやるんすか?」
「長いこと個人事業やってて国民年金保険料しか支払ってないような老人は、よっぽどの蓄えでもない限り年金生活に不安を抱えているもんだ。店やるのは半ば老後の娯楽、半ば生活のためだろうよ。」
「はぇ〜。」
下柳は青のりのついた前歯を見せながら呑気に頷いた。
「シモ。金持ち見つけたいならこのくらいの推定しながら町を歩けよ。数当たるのは営業の基本だが、証券マンは金持ち相手じゃないと商売にならない。貧乏人に営業してもしょうがないぞ。金持ちの探し方から覚えろ。」
「は、はい!なんか、ありがとうございます!」
「じゃあ、俺は行くから。」
「え?サボらないんすか?」
「このあと1件アポがあってな。」
「義田先輩ってなんだかんだ働いてますよね。」
「…あ、そうだ。以前からお前に聞きたいことがあったんだった。」
「なんですか?」
「シモ、お前ガキの頃保育園通ってたろ?幼稚園じゃなくて。」
「え?そうですけど…なんで分かるんですか?」
「なんとなくだよ。じゃあな。」
***
いつもサボりに使っている駄菓子屋を出て、大通り沿いに南下し、寺川駅の中を通り抜ける。
東京郊外にあるこの町は北側と南側で別世界。駅の南口を出ると、街路樹の立ち並ぶ幅広な「大学通り」が目の前に現れる。通りの道幅は約43m。片側二車線の広い車道と歩道の間には桜と銀杏の木が植えられており、道は南側に真っ直ぐ約1.3kmも伸びている。春には桜並木が、秋には銀杏並木が見られるというわけだ。一応、東京では桜の名所と呼ばれている。
大通り沿いにはスーパーマーケットや書店、飲食店、有名国立大学などが並ぶが、ゲームセンターやパチンコ、ネットカフェ、ホテル、風俗などの類は一切無い。その理由は今から70年以上昔の朝鮮戦争勃発時にまで遡る。その頃、隣にある座川市の軍事基地が米軍の前線基地となり、米兵相手に商売をする店が栄え、その出店はこの寺川市にまで及んだらしい。今も昔も意識の高い環境危惧人間はいるもので、いかがわしい店で町の環境が損なわれることを危惧した市民達は運動を起こし、町を二分する大論争の末「文教地区指定」を勝ち取った。それ以降、駅周辺にいかがわしい店の一切無い“清潔で緑豊かで閑静な町”になったというわけだ。いかにも意識の高いエピソードである。開発を阻止し町の環境を守った住民達はそれを誇りに思っているに違いない。
そういう店が町に無いということは、そういう店に客を呼び込む人間も、そういう店に入り浸るような人間もいないということ。当然、治安は良い。
ドイツの学園都市ゲッティンゲンをモデルとし計画的に作られたこの町には、小学校から大学まで数多くの学校が所在する。それだけに子育て世帯も多く住んでおり、彼らをターゲットとした教育サービスも充実している。駅周辺にある有名学習塾にお坊ちゃんお嬢ちゃんが列をなして通う様子も、この町お馴染みの光景だ。きっと地元の名門中高一貫校への合格を目指しているのだろう。
“たまたま”この町に住んでくれる親の下に生まれた子供は、なんと恵まれていることだろうか。緑豊かで、治安が良く、不便もせず、十分な教育サービスを受けられ、幼稚園に通い、お受験を経て良い小学校、良い中学校、良い高校、そして良い大学に通い、労働条件の良い就職をし、経済的に豊かになり、家庭を持ち、良い場所に住み、子供を作り、良い教育を受けさせる。
その成功は丸々そいつの実力か?いや断じて違う。親やその親、さらにその親が代々積み上げてきたものの上にある成功だ。
今さらこんなことを言うのも青臭いが、つまり、人間というのは生まれた瞬間から平等ではない。明らかな格差がある。
勘違いしないでもらいたいのだが、俺は社会的成功者それ自体を憎悪しているのではない。1代で成り上がった成金や、それに群がるセレブ気取りの馬鹿女が集まる町を憎悪することもない。しかし、先祖から代々継承したもので成功者を気取っている人間が集まるこの町が憎くてしょうがない。格差再生産の象徴のようなこの町に比べれば、成金どもが住んでいる町の方がよほどマシだ。
…さて、そんな町で俺は何の仕事をしているのか。言葉にしてもいいが、ちょうど客先に着いたところだ。実際の現場を見た方が分かりやすいだろう。
***
「はい。」
インターホンを押すと、しがれた低い声が聞こえてきた。この客が今日のアポイント先だ。
環境や教育意識の高いこの町だが、都心の有名高級住宅街のようにセレブな町並みではない。しかしどこにでも高級住宅街というのはあるもので、この家もその一部だ。
外から来た金持ち達によって形成された高級住宅街ではなく、昔からここに住んでいる金持ち達によって形成された高級住宅街である。新参者はほとんどいない。ここらに住んでいる連中は、きっと金を持って高級住宅街に進出してくるような成金を下劣なものと扱うに違いない。
「帝日証券の義田です。」
「ああ、どうも。今開けます。」
立派な正門ではなく、裏の勝手口のロックが解除された。俺はいつもここから中に入ることになっている。雅なお客様は、卑しい証券マンに正門を開けては下さらないらしい。まぁ、証券会社と関わりがあることをバレたくない顧客は珍しくないし、慣れているので気にもならないが。
「お邪魔いたします。梅の花が咲き始めていましたね。これからが楽しみですね。」
「うん、そうそう。一昨日くらいからね。あがってあがって。いつもの部屋に。」
「失礼いたします。」
四季折々の風景が楽しめるという庭が、この爺さんの自慢の1つだ。俺はいつも、この豪邸に入る前に庭の様子を見てコメントを用意しておくことにしている。何を褒めてもそっけない反応しか返ってこないが、アレは実のところ喜んでいるのだ。庭の話でポイントを獲得し幸先の良いスタートだ。客の案内通りにいつもの廊下を進む。
商談用の応接間に続く廊下には、絵画や彫刻が飾られている。これも客の自慢の1つ。定期的にラインナップが変わるので、廊下を歩きながら目を通し、変化があればコメントを用意するようにしている。
「あ…こちらの絵画、新しいものですよね?」
「気づいたかい。先日画商で買ってね。レンブラントの真作だよ。」
「それはそれは…。私はあまり詳しくはありませんが、確かにレンブラント特有の明暗表現が素晴らしいですね。」
レンブラントの真作…?
少なくともレゾネにこの絵は載っていなかったと思うが…余計なことは言わないでおこう。
「そっちの静物画も、新しく買ったんだよ。」
「あ、そうですね。先日はありませんでした。」
「…分かるかな?」
何様なのか、この客は含みのある言い方でよく俺を試してくる。
「…そうですね。私もそこまで詳しいわけではありませんが…これはヴァニタス画でしょうか。テーブルの左側に置かれた宝石は富を意味するのでしょうが、その横にある熟れた果実と砂時計は時間の経過を、右側の髑髏は死をそれぞれ暗示しているのでしょう。そこから推察するに、いくら富を持とうと死は免れないという寓意が込められている絵画ではないかと…。」
「ははは。君はよく分かっているね。そんな皮肉が面白くてね。飾っているんだよ。」
「直接的な描写よりも味わい深く、見る者が見なければメッセージの意味が分からない、知性と教養に訴える絵画だと思います。こういった芸術品を好まれるのは、教養人の金井様らしいですね。」
「私が教養人?止してくれよ。」
「いえいえ…。」
ヴァニタス画は、17〜18世紀にヨーロッパで流行した「寓意の込められた静物画」だ。一見ただの静物画なのだが、描かれている果実や花、宝飾品などにはそれぞれ意味が込められており、それらを読み解くことで絵画全体のメッセージを推察するという楽しみ方をする。
見方が分からない人間にはただの静物画にしか見えず、分かる人間には意味が分かる…という、いかにも選民的な人間が好みそうな趣旨の絵画だ。宝飾品などで豊かさを、骸骨などで死を暗示し、世の虚しさを皮肉的に表現している絵が多い。
“分かる人間にしか分からない皮肉”、そんな絵を好んだ当時の芸術愛好家どもは皮肉屋だったのだろうか。
俺は芸術とやらに全く興味がないし、面白いとも素晴らしいとも思わない。しかし、こういった趣味を持つ金持ちは珍しくないものだから、話を合わせるため最低限の勉強はしている。全ては客を喜ばせるための手段だ。
***
「さぁさぁ、そこに掛けてくれ。」
「失礼いたします。」
「今使用人に紅茶を持ってこさせるから。」
「あ、どうぞお気遣いなくお願いいたします。」
案内された部屋はもっと堪らない。いかにも「貴族です」という風なチェスターフィールドのソファーと、ガレのひとよ茸を模したと思われるキノコランプ。部屋中に置かれている美術品やインテリアも、1つ1つに言及していくとキリが無いくらいだが、特にアール・ヌーヴォー期のガラス製品がお好みらしい。大地震でも起きて全部割れてくれないものだろうか。
「本日はお忙しい中お時間を頂きありがとうございます。いつもながら素晴らしい芸術品に囲まれたお部屋で、私としてはコレクションについて是非詳しくお話を伺いたいところなのですが、私の時間と金井様の時間は等価ではないでしょう…。金井様の貴重なお時間を無駄にしないため、まず先にご提案をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「そんなに気を遣ってくれなくていいんだが、どうぞ。」
そうとでも言って先に商談を済ませておかないと、こいつのコレクション話が最低2時間は続いてしまう。コレクターは話を聞いてくれる相手を常に探しているが、話の分かる人間というのは少ないし、話を聞き続けてくれる人間はもっと少ない。だから、俺のような人間をコレクターは求めているのだ。
「金井様もご存知の通りでしょうが、米国FRBの利上げにより日米金利差は来年まで拡大が続くと予想されます。金利差の拡大により、円安・米ドル高がしばらく続く見通しです。」
「銀行からも、何やら同じことを言われたよ。」
言うまでもなく、この金井という男は資産家だ。うちに預けている株式や社債などの資産だけで10億円ほどになる。他の金融機関にも資産を預けているから、金融資産だけで数十億円は保有しているはずだ。複数の不動産も所有しているので、総資産は百億円を超えているかもしれない。
こいつがうちに預けている株式の平均配当率は2.8%、社債の平均利回りは1.3%。それらを合算すると、日本円にして毎年約2,000万円ほどの不労所得が入っている計算になる。株式や社債にかかる税率は20.315%だから、手取りで約1,600万円だ。他社に預けている株式や不動産からの収入もあるわけだから、毎年働かずどれだけのキャッシュフローを得ているのか分からない。
さて、この男はどうしてそこまでの富を持っているのか?何のことはない、ただの相続である。
こいつの父親は昔それなりに有名な国会議員だった。3人の息子のうち、長男は現在国会議員をしている。次男は一族経営の会社を継いで社長をしている。そして三男のこいつは…正直なんなのか分からない。
金持ち相手の商売をしているとたまに出会うのだ。何をやっているのかよく分からない金持ちと。一応、こいつは一族経営の会社に勤め数年間ではあるが役員をしていたこともあるらしい。そこを辞めた後は見ての通り趣味に没頭し、知り合いの出版社を通じて雑誌に美術評論を寄稿してみたり、美術に関する講演をしてみたり、投資家達と交流してみたり、あと慈善活動家でもあるとか。要するに、金とコネだけ持ってる暇なニートが暇に任せて活動ごっこをしているだけで、こいつ自身は何ら財を築いてはいないのだ。
こいつはオギャーと生まれた瞬間からそれだけのキャッシュフローを得られることが決定していたのである。自分が築いたわけでもない資産で生計を立て、投資家を気取り、文化人を気取り、社会的成功者であるかのような顔をして、恥ずかしくはないのだろうか。税金も税金だ。こいつが株や債券でいくら収益を稼ごうが、それにかかる税率は一律20.315%。過去には株式の利益にかかる税率が10%という時代もあった。一方で、俺は昨年どれだけの税金を取られた?所得税と住民税、厚生年金保険料で年収の半分ほどを納めたぞ。
この世の不平等を呪わずにはいられない。
「どうぞ。」
「あ、どうもありがとうございます。」
使用人が運んできた紅茶は、いつものフォートナム・アンド・メイソンだ。イギリス王室御用達の紅茶にチェスターフィールドのソファー。この客は英国紳士気取りなのだ。
「金井様は既に多くの米ドル資産をお持ちですから、今から慌てて米ドルを購入する必要性も無いかもしれませんが。ところで、確か銀行で米ドル建ての定期預金を組まれているというお話を以前伺いましたが、年利何%で運用されていらっしゃるのですか?」
「確か…0コンマ数%だったかな…うろ覚えだ。何せ一昨年預けたものだから。」
「そうですか…。つまり、FRBの利上げ前に購入した米ドル定期預金がおありなんですね。」
「そうだね。」
「それについて、銀行側から新たな提案などは?」
「電話はよくかかってくるのだが、あの担当者は芸術の何たるかを知らない。どうやら関心すら無いらしくてね。そういった無教養な人間の話を聞く気になれんのだよ。」
「なるほど…。確かに、金井様のように高尚なご趣味をお持ちな方と多少なりともお話ができる人間は限られるかもしれませんね…。」
金は人間を自由にさせる。自由な金持ちが経済合理性から離れていくことは珍しくない。銀行側がどれだけ経済合理性のある提案をしてきたところで、「人間的に気に入らない」という理由で話を聞かないなんてよくあることだ。
「しかし、その銀行に預けていらっしゃる米ドル定期預金はあまり良い条件とは言えませんね。」
「言われてみればそうだね。今ならもっと良い条件で定期預金を組み直せるかもしれない。」
「それでもよろしいでしょうし、弊社では、例えば高配当の米国株式などを取り扱っておりますが…。」
「株かぁ…。」
「…他にも、例えば年利3.7%の5年物米ドル建て普通社債を取り扱っております。」
「株式」と聞いてやや警戒した客を見て、セカンドプランで用意しておいた「社債」の提案に切り替えた。
社債とは、企業が資金調達のために発行する債券のことだ。企業側は資金調達できる代わりに社債を購入した投資家に利息を支払う。通常の社債には満期が設けられており、企業が倒産でもしない限り、満期まで保有すれば購入額がそのまま投資家に返ってくる。今回提案した社債の場合、満期は5年後だ。普通社債は証券会社が取り扱う商品の中で比較的安全性が高く、定期預金代わりに購入する投資家も多い。
ちなみに、国が発行した債券のことを「国債」という。これは多くの国民がニュースで聞く言葉だろう。社債はその民間企業版というわけだ。
「社債か。発行体は?」
「国内大手自動車メーカーT社傘下のオーストラリア法人、TF社の米ドル債です。格付けはS&PでA+、Moody'sでA1をつけています。」
「米ドル建ての普通社債ということは、リスクは主に発行体の信用リスクと為替リスクだね?」
「満期まで保有する場合は仰る通りです。金井様は既に銀行に米ドルをお持ちでいらっしゃいますから、それを弊社に送金頂くだけでご購入可能です。こちらの方が、米ドル定期預金よりも良い条件で運用できると思います。」
「分かった。検討しておくよ。」
「ありがとうございます。こちら商品説明資料と目論見書になりますので、ご検討よろしくお願いいたします。ご購入の際は目論見書をご確認頂く必要があります。」
「ああ。」
この客の「検討」は購入と同義だ。証券マンからの提案に乗ってその場で購入を決めるのはプライドに障るらしく、大体は後で支店に電話をかけて注文してくる。だから、商品説明資料とともに目論見書を渡しておくと手っ取り早い。
目論見書とは、投資信託や債券などの購入時、投資家に渡すことを義務付けられている書面のことだ。その商品のリスクや手数料などの重要情報が記されている。顧客が商品を注文する際は、証券会社側が必ず目論見書の内容を理解しているか確認することになっている。
まぁ実際のところ、こんな細かい書類を隅から隅まで読んでいる投資家は多くない。精々、主なリスクと手数料を確認するくらいだろう。
「さて、金の話は置いといて。どうだいあそこのガラス瓶。この前アンティークショップで見つけて驚いたよ、アレは紛れもなくアール・ヌーヴォー期の…」
あとはこの客の自慢話にいくらか付き合って、商談終了だ。
身振り手振りコレクションの話をする客の腕にはグランドセイコーがはめられている。
もちろんこの男は高級時計もコレクションしているが、実用品は親から譲り受けたコレなのだとか。そういうところも“分かった人間”かのようで気に食わない。馬鹿みたいにパテックフィリップや金無垢のロレックスをつけている成金の方が遥かに清々しい。60歳を過ぎてもその歯は綺麗に並んでおり、年齢的にありがちな歯周病の気配も無い。紅茶を好んで飲んでいるわりには歯も白い。定期的に歯科に通っているのだろう。爪の状態は良好で、水分不足やストレスなどによる爪割れ、縦筋も見当たらない。顔の肌ツヤも良く、睡眠や栄養もしっかり取っていることが伺える。
腹が立つほど健康的なジジイだ。きっと長生きするだろう。
***
「貴重なお話、ありがとうございました。勉強になりました。」
「うん、またおいで。」
「はい。失礼いたします。」
商談を終え、勝手口から外に出ると夕暮れが近くなっていた。いつもながら、随分と長話に付き合わされたものだ。
新発普通社債を販売しても大した手数料収入にならないが、これで少なくとも数千万円程度の新規資金導入になるはずだ。本当は株式や株式投信を購入させたかったのだが、今回はこれでもいい。銀行からうちに資金を移動させれば、今後の提案もやりやすくなる。次の提案で株式か株式投信を買わせよう。
「金は天下の回りもの」というが、それは正確ではない。現実には、金を貯め込み流れを止める悪性腫瘍のような人間達がいる。その腫瘍を針で刺し、破裂させ、貯め込まれた金を市場に流すのが証券会社の社会的意義と言えるだろう。
新発普通社債によって調達された資金は、民間企業の事業に利用される。企業の財務内容にも寄与するわけだし、そこに勤める労働者達にとっても悪いことじゃないだろう。
こうして金持ちが銀行に貯め込んでいる金を吐き出させて、直接金融の発行市場に流せば、少しは労働者達に貢献することができるかもしれない。それに今は庶民も投資をする時代だ。金持ちの金を流通市場に流せば、彼らの投資利益にも繋がるだろう。
もっと金持ちからの信用を集めよう。もっと金持ちが貯め込んでいる金を吐き出させよう。
それが俺の考える社会貢献計画の一部。
そして、最終的には…。
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