コンクリート・ジャングル

高雛ギシ

コンクリート・ジャングル

 秋風あきかぜが、夏をぎ取った。肌寒い朝日がまぶたでて、僕を無理矢理に起こしてくる。仕方なく、僕は夏用の薄いタオルケットを頭までかぶって、また夢の中へ逃げ込もうとしたのだけれど、開けっぱなしの窓から冷気は入り込んでくるし、窓の外ではわらわらと人の話し声が聞こえてきて、寝入りの邪魔をする。それでもしばらくは、まぶたを閉じて、タオルケットの中でじっと身をひそめ、さなぎの中で睡魔がやってくるのを待っていた。けれども遂にパトカーが、サイレンを鳴らして、学生のバイク二人乗りを追いかけるなんてことを始めてしまったので、さなぎやぶって僕は生まれた。蝶というよりは、といった方が適切な、汚いおっさんである僕は、さなぎから出たとて特にやるべきことはない。今日は仕事も休みだし、友達と遊ぶ約束もしていない。恋人募集中という看板は出しているが、自分から売り込みに行くほどの熱意はなく、正直、この前のでりたというのもあって、開店休業状態でも店主は満足している。

 携帯端末を充電ケーブルから引き抜いて、ワイヤレスイヤホンを片耳に突っ込む。空っぽな脳みそを自由にしていても良いことはないから、何を言っているのか聞き取れない洋楽を流し込んで、思考にふたをする。すると、僕の体は自動的に、グラノーラと牛乳を皿に注いで、スプーンを右手で握った。このまま簡素な食事を終えてしまうと、いよいよひまである。パトカーも大学生を捕まえたようだ。窓の向こうで、道向かいの街路樹がいろじゅれている。い緑色が黄色い光をくだいて、時折ときおり、みどりの奥に薄い青色を見せては、灰茶色はいちゃいろの枝がその青をさえぎる。テーブルの上で文鎮ぶんちんになっている黄色いフィルムカメラを手に取って、フィルムの残り枚数を確認した。そろそろ捨てるか、買いえれば良いのに、なんてことを考えながら。結局まだ、20枚くらいは撮れそうだったので、イヤホンの音楽をお気に入りの邦楽ほうがくに変えた。カーディガンを羽織はおり、首からカメラを下げて、家の外に出る。

 僕は時折(これは本当に時折で、年に4・5回、やるかやらないかというレベルのことだ)、「昼間ぴるまから酒を片手に散歩するカメラおじさん」になる。行き先は特に考えず、ぶらぶらと道に迷いながら、好きな歌をぶつぶつと、マスクの下で、誰の迷惑にもならない程度の声量でくちずさみ、目についたものを適当に撮る。別にうまくもないし、カメラも安物。誰にも見せない。けれど、撮る。正直、撮った写真を見返したりもしない。けれど、撮る。きっと、カメラを通すことで、何か非日常というか、ただ風景を眺める以上に集中した風景鑑賞になるのだと、僕は思い込んでいるんだと思う。今日の相棒は、赤いラベルのやすい発泡酒。自己満足、万歳。

 若者たちは今日も元気いっぱいで、おじさんにはまぶしくてかなわないから、とりあえず武蔵野大学とは逆の方向に、大通りを歩くことに決めた。だが、すぐに考え直す。大通り沿いの遊歩道に程よく土と草とが並んでいる緑地帯りょくちたいが見えたので、せっかくだから、大通りではなくて、その中を通ることにした。たまたま近くにあった案内板によれば、千川上水せんかわじょうすい遊歩道というらしい。なるほど覗いてみれば、樹々きぎの間に、コンクリートで脇が固められた中を、さらさらと水が流れる用水路があった。さて、その遊歩道を歩こうかと思ってまた、考えを改める。遊歩道をまたいで一つ奥の細い道路の道向かいに、なにやら広い、公園なのか運動場なのか、よくわからない土地に、遊歩道が見劣りするほどにたくさんの樹々が、さびかけのフェンスの向こうで育ち、おどっているのが見えた。フェンスに有刺鉄線ゆうしてっせんがついている感じから見て、広く一般に公開はされていない様子だから、やはり大学関連の施設だろうか。フェンスを飛び越えて枝を伸ばす樹々たちが、の光を遮って、道路にまばらな影を落としている。僕は、この謎の緑地と、千川上水遊歩道(覚えたての語を使いたくなる子どものように、僕はこのあと何度も、繰り返しこの固有名詞を出すだろう。酔っ払いの愚行である。許してほしい)の間にあるこの細い道路を歩くことに決めた。アスファルトの地面でありながら、両脇を土と樹に囲まれ、小脇には水が流れ、空は敷地をはみ出した枝々えだえだが遮り、更には電柱と電線も当然のようにたたずんでいる。そんな自然と人工物とが混在した緑の洞窟が、誰の意図でもなく偶然できあがった場所なんて、他にはないのではなかろうか。

 風情ふぜいも何もを無視するラウドロックに体を揺らしながら、僕はおもむろにカメラを手に取って、緑の洞窟をファインダーしにのぞいた。なぜだろう。青空を緑色がおおい隠して、視界を暗くしているだけで、こんなにも絵になると感じるのはなぜだろう。緑地と千川上水遊歩道の枝と枝とが伸びあって、道路に影を落とすのがなぜこうも、おもしろいのだろう。そんな自然の中に、コンクリートの電柱が一本、地面に突き刺さっているのが面白いのはなぜだろう。酒にっているからか? いや、まだまだ500缶一本目、そんなに酔うはずもない。ああでも、やはり、酒に酔っているのかもしれない。馬鹿なことを考えてしまった。今からつまらないことを言う。これぞまさに、コンクリート・ジャングルだ。どこがジャングルなものか。最高だ。

 そのままトボトボと道路を歩く。アスファルトに白い線が引かれただけで、歩道ということにされている部分があるが、さして交通量があるわけでもないので、僕は堂々と道の真ん中を歩いていく。左手に謎の緑地。右手に千川上水遊歩道。うん、そろそろフルネームを言うのには飽きてきたな。ふと、右手の遊歩道に、水路を跨ぐ用の小さな橋(橋らしいかえりもなく、橋の道幅も縦横2メートル程度の尺で、橋というほど大袈裟おおげさなものではないのだが、両脇に木製の手すりがあって、手すりの柱の部分には「千川上水せんかわじょうすい」ときざみ込まれた鉄板が埋め込まれており、みるからに「私は橋です」と主張している)が見えた。僕はなんだかそのいじっぱりな感じが面白くて、その小さな橋にカメラを向けた。ついでに、さっきまで全く気にしていなかった、背の低い木も撮っておいた。電柱よりも幹が細いのに、元気に茂っていたから。

 脇道もなく、ただダラダラと道を進んでいれば、左手のフェンスや壁が途切とぎれて、入り口らしきものが見えてきた。「武蔵野運動場 来場者出入口」と書かれた看板には、赤い文字で「※部外者の立ち入りは固くお断り致します」とも書かれていて、当然、出入口は柵が閉められていた。大学の施設ではなかった。部外者、という書き振りからしてやはり、一般公開もされていないらしい。残念。中を見て回りたかったのに。撮影。よし、満足。

 道を行けばやがて、武蔵野運動場も通り過ぎる。するとやけに草木がぼうぼうと育ちくるい、こんもりとした私有地、というか一軒家があった。おそらくは、生垣いけがきなのだろうが、それにしては薄く、ぎりぎり向こう側を覗けるくらいの厚みしかないので、樹が並んで育ち狂ったという印象の方が強いのである。あまり覗き込んでも悪いし、撮影などもってのほかである。ファインダー越しに自然の底力を堪能して、シャッターは切らなかった。僕はほろ酔いカメラおじさんで、不審者の風貌ふうぼうなのだから、自重じちょうも大切である。

 カメラから顔を上げると、千川上水遊歩道を跨いだ先の大通りに、彼女がいた。ああ、これは単なる三人称で、僕らの間柄あいだがらを意味しているものではない。は、それなりに長い期間、あったのだけれど。彼女は、買い物からの帰り道なのか、黄色いマイバッグを左肩にかけていた。たくさんの買い物をしたのだろう。きっと大好きな桃の缶詰とか、蜂蜜バター味のポテトチップスとか、おそらくはそういうもので一杯になったマイバッグを、彼女は指輪の光る左手で、しっかりと持っていた。

 彼女は、僕の方に気がついていない。けれど、声は掛けない。そこまで未練はない。買ってもらった黄色いカメラを、まだ僕は持っているけれど。覚えているだけだ。僕らの最後の方は、浮気したり、されたり、どうしようもなかったけれど、そこにいたるまでの過程は綺麗だったから。終わり方がひどかったからと言って、思い出すべてがきたなりつぶされるものでもないだろう? このカメラに残ってるんだ。綺麗な時期に撮った2人の写真が。だから、ただちょっと僕らは、原材料が違っただけなんだ。考え方とか、価値観とか。たぶん、僕は気分屋だから、木製素材なんだけど、彼女はコンクリートだったんだよね。まじめだったから。大丈夫、最高さ。今も昔も、彼女は最高。僕も最高。

 僕はカメラを構えた。ファインダーを覗く。コンクリートの彼女は、交通量のない赤信号を律儀に待っていて、僕はそれを見ていた。目の前で信号を無視して横断歩道を渡る人間が現れても、彼女は律儀に待っていた。僕はそれ見ていた。やがて信号は青になって、彼女は大通りを渡って遠のいて行く。小さくなって行く。僕はそれを見ていた。秋風が吹く。酔いは覚めて、僕はカメラから顔を上げた。家に帰ろうと思った。そしてもう、カメラは買い替えようと思った。今日撮った写真は、どれも最高だったけれど、ただの1枚も現像せずにこのカメラは捨ててしまおう。さあ、来た道をまっすぐ戻って帰ろう。自然と人工物とが綺麗に入り混じったコンクリート・ジャングルを。ああ、今日は最高だ。きっと明日も。

 

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