back in the room

koi

1.


 男の目の前には長く続く真っ直ぐな廊下があった。突き当りにある扉に向かって、男は足早に進んでいく。男の背中からは焦燥感と、少しの疲労が滲み出ていた。歩みを進める男の上方、天井近くに等間隔で備え付けられたスピーカーから、機械音声が流れ始めた。

『隠れて、逃げて。追って、追われて。君はアリスか、白うさぎか。扉の向こうは外側か、内側か。隠れて、逃げて。追って、追われて・・・・』

 音声は同じ文言をリピートし続けている。男は気にも留めず歩き続け、ついに扉の前に辿り着くと、ズボンのポケットから銀色の小さな鍵を取り出した。



2.


 男がその部屋に入って来たのを、僕はカメラ越しに確認した。ようやく見つけたという安堵感と、これがまだまだ前哨戦であるという緊張感で、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。目の前に並んだモニターは五つで、男が映り込んでいるのは一番左側のモニターだ。カメラは天井の隅に設置されているらしく、俯瞰的な画角で男の背を捉えてはいるが、顔は見えない。男はしばらく部屋を見回し、まず手始めに木箱の上に置かれたラジカセの電源をつけた。ざーざーというノイズ音が流れるだけで、どのボタンを押しても結果は同じだった。男はラジカセの電源を切った。男はそのまま部屋の探索に取り掛かった。僕は男がどこにいて何をしているのか、その全てを追い続けなければならなかった。顔は見えない。男が白いスチール製のキャビネットを物色し始めた時、突然、消えていたはずのラジカセから音声が流れ始めた。

『逃げろ、逃げろ。お前は卑怯で残忍な人殺し。その手はもう赤く汚れてしまった。大切だった人の血で汚れてしまった。目を背けるな、背を向けるな。お前は卑怯で残忍な人殺し。』

 ラジカセが黙ると、部屋に静寂が戻った。キャビネットは至る所が錆びて変色し、ほとんどの引き出しは内部で変形してしまっているらしく、開けることができないようだったが、ひとつだけ小綺麗なままの引き出しがあり、男はそれに手をかけた。中から取り出されたものは茶褐色に錆びた鍵と、色褪せた紙切れだった。男はまず鍵を手に、部屋のドアに向かっていった。ドアノブの鍵穴に鍵を挿しこもうとしたが、規格が合わなかったようだ。男は鍵をポケットにしまい、紙切れを眺めた。

「リンネノワ」

 男は紙に書かれた文字を読み上げ、キャビネットの対面の壁に目を向けた。そこには額装された数十枚の絵画や写真がはめ込まれている。男はその中から中央やや下段に飾られた一枚の仏画に近づき、念入りに調べ始めた。何かに気がついたのか、男は先程見つけた鍵をその絵に挿しこんだ。どうやら絵の中に鍵穴があり、額縁ごと隠し扉になっていたようだ。男は額縁に手をかけ、手前に開いた。内側の空洞に、鍵がつるされている。男はそれを手に取り、扉に向かった。がちゃん、という音がして、男は部屋から出て行った。扉が閉まると同時に、右隣のモニターのランプが点り、別の部屋に辿り着いた男の背中が映し出された。



3.


 次の部屋で男がまず手に取ったのは、古い木製の箪笥の上に置かれた写真立てだった。男が写真を眺めていたその時、男の背後でテレビの電源がついた。男はそれに気がつかない。画面は砂嵐のままで、音声が流れた。

『逃亡マタハ追跡ノ訓示』

『決シテ発見サレテハイケナイ』

『具象/抽象ヲ問ワズイカナル存在ノ痕跡モ残シテハイケナイ』

 写真を取り出そうとしたのか、男がパネルを分解し始めると、写真立てから何かが床に落ちた。男がそれを拾い上げようと中腰になった拍子に、箪笥の引き出しに取り付けられたパネルに気がついた。おそらく三つの引き出しは全て、それぞれのパズルを解かないと開かないシステムになっている。最上段の引き出しに取り付けられているのは、どうやらスライドパズルらしい。男は数十秒でパズルを解いたが、ピースがひとつ足りない。空白になった中央部に、男は先ほど写真立ての中から見つけ出したものを当て嵌めた。ピースはぴたりと嵌まり、コマドリの絵が完成した。すんなりと開いた引き出しの中には、影絵が描かれた紙と、金色の枠で縁どられたピースが入っていた。男はピースをポケットにしまい、紙を眼前に掲げながら二段目のパズルに取り掛かった。二段目で出題されているのはタングラムパズルで、男はこれも難なくクリアし、引き出しを開けた。引き出しの中には、細い銀色の指輪と、金色の枠付きのピースがあった。男はしばらく指輪を眺めたあと、そのままそれをポケットにしまい、ピースを観察してから、ふと部屋のドアに目を向けた。この部屋のドアにはドアノブがなく、代わりに何かを嵌めることのできる窪みがあった。男はドアに近寄ると、引き出しから取り出した二つのピースをその窪みに当て嵌めていった。その最中、再びテレビから音声が流れた。

『逃亡モ追跡モ広義デハ同様デアル』

『故ニ目的ヲ遂行スル為ノ絶対的手段モマタ同様デアル』

 男がドアから離れ、最下段の引き出しの前にしゃがみこむと、モニター越しにドアにはめられたパネルが見えた。左端のピースには【トガ】とあり、中央部が空白になっていて、右端に【ベル】と続いている。男に目を戻すと、男は最下段の引き出しに取り付けられた数字キーの前で指輪を観察していた。男は指輪から目を離すと、人差し指で数字を押していった。

「20130608」

 モニターに向かっている僕の口から無意識に数字の羅列が飛び出していった。テレビがついた。

『その背中から目を逸らすな』

 男が引き出しから取り出した最後のピースを窪みに押し込むと、がちゃん、という音がした。男は部屋から出て行った。閉まるドアを見ると、三つのピースにより文章ができあがっていた。

【トガアリスベル】

 それが何を意味するのか考える間もなく、右のモニターのランプが点った。



0.


彼はそれを終わらせたかった/悪夢の中心にはいつもその背中があった/滑らかな肌を隆起させる肩甲骨から生えてくるのが天使の羽なのか悪魔の翼なのかは分からないがどちらにせよ彼にはそれが人間だと思えなかった/彼はそれを終わらせたかった/シナプスを這い回る薄透明の悪意で彼はそれを粉々にしてしまいたかった/そうすることができればこの悪夢から抜け出せるのだと彼は信じて疑わなかった/彼はそれを終わらせたかった/彼はそれを終わらせたかった/灰褐色に濁った殺意で彼はそれを柘榴に変えた



4.


 男の背中を眺めている。相も変わらず男の顔は見えない。部屋の隅に置いてある木製の丸椅子に、赤いドレスを身にまとったアンティークドールが腰掛けている。男は人形を持ち上げ、一通り観察し終えると、丁寧に元に戻す。人形から離れた男は、次にドレッサーの探索に取り掛かる。僕はそれを観察している。『どうして』人形の口が動く。分からない。僕は答える。男が引き出しに隠された血まみれの包丁を見つける。男はそれに手をつけず引き出しを閉めてその場に蹲る。「どうして」男が呟く。分からない。僕は答える。男のすすり泣く声がモニター越しに聞こえてくる。僕はその背中から目を離さない。『どうして』そうしなければならないから。男が気を取り直し顔を上げると、真っ白な壁に文字が刻まれていることに気がついた。刃物か何かで切りつけるようにして書いたのか、文字は荒々しい直線で象られている。

【シラT七X】

 男は壁に近づき、その文字列を眺めていたが、それが何を意味するかは男にも分からないようだった。突然、人形の口から音声が流れ始めた。

『………月8日未明…の………付近で……の一部が発見されました。遺体の身元は行方不明………藍莉あいりさんと断定…………どうして………………殺であるとの見方が強く、捜査本部………どうして………発見された遺体には薬指がなく………弟の……すばるさんは「悔しい、やりきれない」と……………………どうしてわたしは………………………県警は捜査を進めて……………………どうしてわたしはころされたの?』

 男は不意に人形に目を向け、人形が右手に持っている手鏡を取り、文字が書かれた壁に背を向けた。男は手鏡を顔の前に掲げ、位置を調整するように腕を左右に動かした。

「ツル、ト、カメ」

 男はそう呟いてからドアに向かった。ドアに貼り付けられたパネルに文字列を打ち込むと、がちゃん、という男がした。男はドアノブに手をかけたが、はたと立ち止まり、手鏡に目を落とした。男は踵を返し、人形の前に跪くと、手鏡を元通り人形の右手に握らせた。



5.


 何もない部屋に辿り着いた男が、壁に取り付けられたスイッチを押すと、部屋の電気が消えた。壁一面にびっしりと、蛍光色で【カコメヤカコメ】と書かれていた。ぐらりと視界が揺れて、僕は床に倒れ込む。消えかかった意識の向こう側で、がちゃん、という音が聞こえた。



Q.


貴方に必要なものは何?

―――――安寧。呼吸。休息。


貴方を苦しめたものは何?

―――――恐怖。


貴方が恐れているものは何?

―――――温かい食事。温かい毛布。温かい笑顔。それから・・・・


何?

―――――・・・・幸福。



6.


 何もない。ここには何もない。暗い。誰もいない。どこにも行けない。そのことに僕は安堵している。終わったんだ。ドロップのような甘く馨しい生活に怯えなくていい。遊び疲れて眠る子供のように満たされた日々を憎まなくていい。終わったんだ。何もかも。震えた脚が頽れてその場に膝をつく。未だ視界はぐらいて、脳味噌ごと、回っている。四つん這いになった僕の、顔、顔が、地面に反射している。ガラスの上、を、僕は歩いていたのだろうか、息づくたびに、僕の顔が、波紋によって歪んで、水面、水面から、女の顔、彼女の顔が、ゆっくりと、顔が、浮かび上がってきた。

「藍莉?」

 僕の両の手のひらは彼女の首筋にぴったりとまとわりついてその薄青い皮膚と僕の間にはまるで輪郭という境界など存在しないかのように思えて僕はそれを包み込んでいるのか握り潰そうとしているのか分からない。

『目を背けるな』

 後頭部の内側でノクターン第2番が流れる。

『背を向けるな』

 違う。

『違う』

 違う、違う、違う。

『何が違う』

 違う、僕は

『君は』

 僕は

『こんな殺し方はしていない』

 水面が赤く赤く染まっていく。蠢く泡沫と波紋が、藍莉を隠していく。僕の手は血まみれの包丁を掴んだまま離さない。

公人きみと

 彼女が僕の名前を呼ぶ。包丁の柄を握ったまま震える左手の薬指、細いシルバーリングが赤黒く錆びていく。



「ウサギハウシロ」

 モニターの中で、男がゆっくりと後ろを振り返る。



7.


輪廻の輪

咎あり滑る

鶴と亀

囲めや囲め

兎はうしろ



 ああ、そうだ。

 逃げていたのは僕の方だった。

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