第2話 魔王

 彼は暗闇の中で微睡まどろんでいた。何も無い、無のまま、心地よく空間を彷徨さまよっていた。今の彼には肉体は存在しない。寒さも暑さも、外気の温度すらも感じられない。

 ただただ、空中を浮遊ふゆうしていた。ここがどこかすらも、己が何なのかも分からぬままに浮遊していた。

 ただ唯一わかるのは、彼にはすべき事があると、まだ消える訳にはいかないという、その意識だけ。そんな強い精神力で辛うじて己を維持しながら、彼はただよっていた。


 それがどれほどの期間続いたか。彼には何も解らなかったが、ある時ふと、何かに引き寄せられるのを感じたのだ。真っ暗な闇の中でふわふわと漂いながら、彼はあらがうことなく流れた。


 流れ流れそして後、彼は突然、ハッキリとした声を聞いた。


『――エドヴァルド?』


 それが己に向けられたものだとハッキリと理解出来る程、不思議と彼の中にも響いてくる声だった。記憶なぞは持ち合わせてもいないのに、どこか聞き覚えがある。

 思念だか魔力だかに成り果てた彼に向かって、それは名前をハッキリと名を呼んだ。そこで彼は初めて自覚する。自分はエドヴァルドという存在だったと。


 名前は万物ばんぶつに力を与える。長年使われた道具ですら、名前によって力を得ることもある。ゆえもまた、名前を自覚することで実体を持つだけの力を得た。

 ちりや魔力でしかなかったそれは、まず名前を取り戻した。例え存在自体が曖昧あいまいなものであっても、確かにカタチを得たのだった。


 彼に名前を与えたその声は、彼とは違いハッキリとした自我じがを持っていた。そして声は、まるでのようにことばを続けた。


『やはりお前だろう、エドヴァルド……私との約束を果たそうとした、優しき偽善者ぎぜんしゃ


 彼は実体は得たものの、それ以外は何もわからなかった。考える力すら持たない、力を内包ないほうしたただの黒い物体だった。

 それでも、己を呼ぶその声が心地好いのは確かで。勇者だの魔王だの、声の言った約束だのと、そういったものは全くわからない。だがそれでも、彼は声の元へ行きたくて仕方がなかったのだった。ふわふわと周囲を彷徨さまよい、流されながら、声のぬしを探す。


『もうひとつ、頼まれてくれないか……私に、お前の力を少しだけ分けてほしい。今の私は、実体化するには弱り過ぎている。少しで良いのだ……私が体をまた得れば、すぐにお前にも体を与えるだけの力ならば取り戻せる。――もう一度だけ、頼まれてくれ……頼むッ……』


 そう続けられた声は本当にかなしげで。意識すら、知能すら持てなかったはずのただの力の塊は、それでも声の主のもとへと着実に向かっていった。何の思考も意識もないはずなのに、それはその声を止めたくて仕方なかった。

 だから、無事に辿たどり着いたその時、一片の躊躇ちゅうちょもなく、それは全てを預けたのである。

 強く強く、何かをこいねがいながら。




 荒れ果てた廃墟はいきょのような魔王城の中。ただの力の塊がちゅうに浮かぶだけのその場所で、変化はゆっくりと起こった。

 場に残された小さなちりの山から突然、手が空高く突き出された。人のようで、それでいて黒い爪の鋭く伸びた力強い手が、まるで空を掴むように、ゆっくりと。

 しばらく動きを確かめるかのようにその手はうごめいていたが、ふと誰かが気が付いた時には、それは上へ上へどんどん伸びていった。始めは手首まで、それがひじから肩まで、そして――顔と胴体が現れていく。そして、全身があますことなく現れるのは、それからすぐのことだった。


 その気配を察した魔王城はその日、大騒ぎであった。

 魔王様が復活した――と。

 ざわざわと落ち着きなく歓喜かんきあふれた喧騒けんそうの中。涙ぐんだ魔人によって肩にマントを掛けられながら、うつむく魔王は穏やかに優しい笑みで呟いた。


「感謝する。――これでお前は、私のモノだな。しばし眠ってくれ。次に会う時には、今度は私がお前にからだを与えてやろう」


 魔王の中へ取り込まれながらも確かに自我じがを持ったそれは、与えられる心地良ここちよさにあらがい切れず、ゆっくりと力を抜いていく。


「ゆっくりと眠れ。お前の悪夢はもう、終わったんだ――」


 ささやくような男の子守唄こもりうたを最後に、そこで一旦いったん、彼の意識は途切とぎれることとなった。


「せめて夢の中では幸せを――」


 誰に聞かれるでもないその呟きは、まるで願いごとのように、そらに溶けて消えた。



◇ ◇ ◇




「イェレ、人間共の様子はどうだ?」


 その男は、再び体を取り戻して間も無く、自室で宰相さいしょうのその名を呼んだ。それからほとんど時を置かずして、どこかの空間から別の男が降ってきた。背中ほどの黒髪を後ろにい、黒いローブに包まれたその男は。わずかにズレた眼鏡を右手で押し上げながら、左手に羊皮紙の束を携えていた。キリリとした彼の雰囲気ふんいきとは裏腹に、その目は薄ら赤くれ、何かを耐えるかのようにその口はギュッと真一文字まいちもんじに結ばれている。

 それを、ベッドの上で起き上がりながら目のはしとらえ、男の口が少しだけ笑みをたたえた。そんな男の様子が少しだけ気怠けだるそうなのは無理もない事だろう。つい今し方、その体を取り戻したばかりなのだから。

 声を掛けたいのだろうに、宰相イェレは私情しじょうも何もかもはさむことなく、男に聞かれた事だけに応えていった。


「魔王様が復活なされた事には奴らも勘付かんづいたようです。城へ入城しようと試みる間者かんじゃが確認されました」

「対処は?」

幻影げんえいにより惑わせました」

「それでいい、我々も戦力を失いすぎた……国力が回復されるまでは戦闘は出来るだけ回避し、魔人達の避難ひなんを最優先させろ。しばらくは引き続き、お前に任せる。――すまないな」

「ッ承知しょうち、致しました。……魔王様」

「ん?」

「よくぞ、お戻りになりました。私を含め皆、信じておりました――ッ」


 魔王の話が途切れ、一息つこうとしたその時。とうとう堪え切れなかったイェレから、歓喜かんきの言葉があふれ出た。

 魔王が敗れるなど、どんなに信じられなかった事か。そして、その帰還きかんをどんなに待ち望んだ事か。口にせずとも、涙をこらえて震えるその様子からありありとそれが読み取れる。

 男それにただ一言、告げただけだった。


「皆には迷惑をかけたな。今、戻ったぞ――」



 それからしばらく、その部屋からは誰の声も聞こえず。そのかわりに、何かをこらえるようなかすかな息づかいだけが、その場には響いていた。

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