生活

 誰一人として信じてくれないので、あまり現実的でない事柄なのだろうと思うが、俺は昔――正確には一五歳から一八歳までの間――、馬鹿みたいに広い屋敷で監禁生活を送っていた経験がある。

「へえ、そうなんだ、凄いわね」

 と、これはもう全くもって俺の言うことを信じてくれていないだろう粕谷翠が、無闇と納得したような素振りで煙草の煙と一緒に吐き出した科白であるが、確かにこの体験は、一般人にとっては凄いことなのかもしれない。まあ全て、もしも本当だったら、というレベルでの話だ。

「で、どんな感じだったの? 監禁生活」

「うん? えーと、実はあんまりよく憶えてないんだ」

 翠は、一九歳の時に米国で博士号を取得したその才媛ぶりを全く感じさせない口調と風貌であったので、こんな俺でも普段は気軽に口を利くことが出来た。翠にこの話を聞かせた時、俺は三十路に手が届こうかという年齢で、にも関わらず定職にも就かず、日給ウン千円のバイトを探しては数日間の食い扶持を稼ぐといったような、本当に刹那的でどうしようもない人生を送っていた。彼女に対するコンプレックスは、気をつけていないと敬語で喋ってしまうという情けない癖となって、就職し、あまつさえ結婚した今でも尾を引いている。尻に敷かれているわけではないのだが。

「は? 憶えてないんじゃ全然意味ないじゃん」

 屈託なく笑いながら言い捨てた翠は、正直あまりこのことに興味がないようだった。

 三年間の監禁生活が自分にとってどのような意味があったのか。それを真剣に考えたことは無かったが、その体験は話のタネにしかならないとでも言いたげな、彼女のその言葉には承服しかねるものがあった。思わず舌打ちしてから、それを咳払いで誤魔化す。反論を試みようかとも思ったが、論理学の申し子に何を言っても無駄のような気がして、この時はうやむやのまま終わらせることにした。


 本当のところ、俺は監禁時のことをその細部に至るまでほぼ完璧に記憶していた。

 ただ単純に、それを翠に聞かせるのが憚られたというだけの話だ。まあ、そういう意味ではこれは、話のタネにすらならない代物ということになる。


 監禁生活の最初、俺は猟奇殺人を扱った映画ばかりを何百本も見させられた。肉色と赤色に染められた、酷く倒錯的な世界が一年以上続いてそれから最後――

 殺人鬼に、俺は成る。


 そんな話の詳細を語るなど、出来るはずがないのだ。

 惚れた女相手には勿論、他の誰にだって。



「やあ、どうもはじめまして。今日から君はここで暮らすことになった『九一番』だよ。君が聞きたいことは色々あるだろうが、説明するのも面倒なので全て省略する。僕の名は塩野義。それ以上の名は持たない。そしてそれだけできっと十分だろう。皆と仲良くやりたまえ。何か質問は? あっても説明する気はないが」

 その男は、何故だかやたらと年齢がわかりにくかった。中肉中背の、特徴がないことが唯一の特徴とでも言える男で、歯並びが非常に良かったような印象があるが、そこだけはもしかすると憶え違いかもしれない。髪型にしろ目鼻立ちにしろ服装にしろ、『一般的な』と評するに足る非常にステレオタイプな外見をしている。不思議なことに彼は、それ以上の言葉で人となりを把握するのを自然に諦めさせてしまうような、精神的な斥力を常に身に纏っているのだ。誰も彼も、その男を塩野義という名でしか把握しておらず、だがその男を把握していない者もおらず、存在感があるくせに実体が極めて曖昧な、突き詰めて考えれば空想上の生物みたいな奴だった。

「何言ってんだ、てめえ。何なんだよ、これはよ」

 九一番。つまり、番号で呼ばれていた頃の俺は、当然反発した。塩野義の言葉で全てを納得できる者がいるのなら、一度で良いからお目にかかりたい。一五歳と言えば、悪いことに思春期のど真ん中で、世間を舐め腐っていて、半端に尖っている頃だから、上から抑え付けようとする人間に対してはやたらと噛み付こうとする。がぶり。喧嘩は相手を選んでするものだ、とそれくらいは学んでおくべきだったと思う。子供が出来たら一番最初にそれを教えるつもりだ。一五歳の誕生日に、その小高い丘にぽつんと建っている屋敷に連れて来られた新入りの殺人鬼候補つまり俺は、不条理に耐え切れず暴れるたびに左右を固める無表情な警備員に殴打され、黙ったまま扉をくぐるしかなかったのだった。

 屋敷の中は、馬鹿じゃないのかと思うくらい広くて、灯りが殆どないからほの暗いし、何故か吐き気がするほどじめじめしているしで、人間の住むような環境ではなかった。不思議なことに、塩野義も俺たちと同じこの屋敷に住んでいたのだが、不快でなかったのだろうか。窓という窓が全て塞がれていて、ヴァンパイアでも暮らしているのかと疑ってみたものの、警備員も使用人も管理人も教師も、とりあえず出入りしている奴らはみんな日光を浴びても灰になるような様子はなかった。廊下の端から端までが遠すぎて見えないだけでなく、横幅ですら、広過ぎるのと暗過ぎるので端から端まで見えない家など、おそらく想像だに出来ないと思うが、実際目の当たりにしても現実感などない。皆無である。ぼうっと、夢でも見ているような空ろな気分で、徘徊という言葉がぴったりな散歩を、後になって毎日楽しむ羽目になるのだが、そんなことはその時は知る由もない。最初に入った時は、両側をがっちりと警備員に抑えられていたから、番組のラストで引っ立てられていく刑事ドラマの犯人役みたいな感じだったが、自分を置いて猛スピードで展開するふざけた世界観に、俺はただ戸惑うことしか出来ず、徐々に強がりを口にする余裕さえ失っていった。顔は引き攣り強張るし、この先どうなるのか本当にわからないという不安で胸がいっぱいだった。もう少し幼かったら、絶対に泣いていた。絨毯というより苔みたいな感触の廊下を足音も立てずにもさもさと数十分歩かされ、ねえ、ここどこなんですか、俺、どこに連れて行かれてるんですか、と口の利き方も弁えた頃にようやく、その扉に行き当たった。廊下をただ真っ直ぐ歩いてきただけで、異世界への門は開くのだな、と一目見ただけで直感的に悟った。ゲームなんかで、最後のボスがふんぞり返っている部屋の、そこに入る唯一の入り口みたいな感じだった。いかにも重厚そうな造りで、金属特有の冷たさが、人の来るのを拒絶しているようだった。見上げるほどに大きく、レリーフというのか、何だかごちゃごちゃした飾りみたいなのが、両開きの扉のそれぞれ真ん中辺りに掘り込んであるのだが、あまりにも大きな扉のその真ん中であるため、近付いた時に視界に入るのはのっぺりした金属表面でしかない。扉の合わせ目は、ぴたりと真っ直ぐに閉じていて、押しても引いても開くようになっているのだろうが、そもそも押せるほどの重さではない。右側にいた警備員が何かのスイッチを押したのと同時に、俺を迎え入れるように扉が内側へと開いていったのだが、これだけ大掛かりな仕掛けがどうして、と疑問に思うほど無音だった。

「入れ。後の指示は中で仰げ」

 左側の警備員は、無表情でそれだけ言った。嫌がる俺をぐいぐい押し込むようにして中へ追いやると、そいつはさりげなく俺の右手に飴玉を握らせてくれた。

「挟まれると死ぬぞ」

 俺は、その飴玉で止めを刺された気分だった。泣きそうになりながら、礼を言うことも悪態を吐くことも出来ず、目の前で閉ざされて行く巨大な分厚い鉄の扉を呆然と見送った。小動物みたく震えていた。元より暗かった上に扉の動く音がしないので、扉が閉ざされた瞬間がいつなのか、判断できなかった。ぽつん、と世界にたった一人残されたような気分で、阿呆のように本当にただ指示を待った。真っ暗闇というほど暗くないのだが、弱弱しい光源は遥か頭上にあり、光のある方へとにかく進もう、と言ったようなポジティブな発想は全くもって不可能だった。右手に握った飴玉が、包み紙の中で溶けていくのを感じた。右も左もわからない中で、自分の存在だけが宙ぶらりんに浮いている。呼吸をすることを忘れそうになって、慌てて息を吸った。湿っぽい空気に、草の匂いが混じった。あり得ないその刺激に、俺は思わず笑った。その瞬間、ここが屋内に思えなくなった。だだっ広い草原の真ん中で、星を見るために仰向けになっている。そんな気分になる。絶望的なまでに日常と隔絶した薄暗い真昼間に、俺は扉の形をした夜空を見たのだ。俺は、生きていることの素晴らしさを説いた誰かさんのことを、生まれて初めて偉いと思った。死ぬことよりも恐ろしい生があるのに、それでも素晴らしいと言えるのだから、きっとその人達は本物なのだろうと思った。自分という存在そのものを賭けても、この状況を上手く生き抜くことは出来ないに違いなかった。まだ足りないのだ。自分だけでは、生きるのに全然足りないのだ。その足りない何かを、生きることが素晴らしいと思える人間は、手に入れているはずなのだ。そうでなくては、この扉を見てもなお、生きていることの素晴らしさを口にすることなど絶対に出来ないはずだ。俺は死にたいとも思えない、気の触れそうなそれを見つめるしかなかった。扉は、夜空と違って星なんて張り付いてなかった。ただ、いつのものかわからない乾いた血の跡が、べったりと擦り付けられるように縦横無尽にのたくっていた。ぼんやりと、儚い明かりの中に浮かぶ。そこだけやけに綺麗な、書道のような筆致で綴られた、誰かからのメッセージ。


『あなたも、最高ですか?』


 最高です。俺も、最高です。最高に最低です。こんなの初めて。こんなに不快なの、初めて。思わず飴玉を頬張った。包み紙ごと噛み砕いた。ばりばりと頭蓋の中で音を立てて、飴玉と理性が壊れていく。もしもこれがダイイングメッセージだったら、犯人は誰になるんだろうか。暗号を解くのは昔から好きだった。今なら俺でも名探偵になれる。確実になれるはずだった。どうせ俺が全てでっち上げるんだから。犯人はあれだ、彩子さんでいいや。最高だけに。

 良く見ると、小さな文字で下の方に続きが書かれている。続きは、途中から読めなくなっている。上から塗りつぶされるように、赤がばら撒かれているせいだ。血飛沫がはねているためだ。

『私は最高です。だってこんなにも素敵な力を手にいれたんですから全くそうですよほんとうにあなたもきっとさいこうにちがいないですよねたのしいですよほんとうにただ一つきをつけなくてはならないのはしおのぎが――』

 もう、本当にろくでもないところで読めなくなっている。飴玉の包み紙が不味くて感謝したのは、後にも先にもこの時が初めてだった。もしも、何かの間違いでそんなものを美味いと感じていたならば、自ら発狂したものと決め付けて、一足早くそちら側に行けたかもしれなかった。

 唯一つ、気をつけなくてはならないのは、塩野義が

 何だというのか。ここまで来て、気をつけるも糸瓜も無い気がするが、この状況を最高です、と断じるような手合いですら気をつけなくてはいけない、と注意を喚起している点から考えても、余程の事態だろうと思われた。

 正直なところ、監禁生活を抜け出した今でも、あのメッセージが何を言いたかったのかはわからない。もしかしたら、演出の一部であって意味なんて無かったのかもしれない。

 あれを書いたのは、三五番だと、それだけはっきりとした情報を後で得ることになるのだが、別に、俺は直接顔をあわせたことなどないし、そいつの背景なんかも全く知らないから、それ以上の情報については一切わからない。

 唯一つだけ、わかることがある。


 私は、最高です。


 それだけは、違う。


 お前は、サイコです。

 そして、俺も。


 この後何があったのか、そんなのはもう、ここに書くまでもない。奥から現れた黒幕の人に、ようこそ、とか言われて歓迎されて、これからはここのルールに従いながら暮らしてもらうことになるよ、と数々のスプラッタ映画を見せられて、三食昼寝付きの昼寝を抜いた生活を強いられるだけだ。脱走を企てた一人が腰から分断された二人になって帰ってきた辺りで笑顔の使い方を忘れたし、右目を潰された美少女が新入りとして入ってきた辺りで言葉の使い方も忘れかけた。まさに全てが理不尽。新鮮であることだけが救いの毎日が続き、日常が日常として成立しなかった。


 御託は良いか。きっと全てが嘘だとバレてしまっているわけだし。

 いや、そりゃそうだろう。こんな話、本当のわけがない。普通に考えればわかるだろう? 俺がお前だったら信じない。そんな生活、あるはずないから。

 全く、とにかく気持ち悪い。殺人鬼になった俺が最初に殺した相手は勿論人間であったのだが、そいつの最期の言葉は当然のように、最高ですか、とかそんな内容だった。

 どうでも良いか。

 勿論どうでも良い。


 十八歳の誕生日に解放された。

 その日のうちに、二人くらい殺した。勿論、女の方には酷い仕打ちもした。鬱屈した三年間をそのままぶつけてしまったのだ。下界に降りて来て最初。狂っていたんだから仕方ないだろう?

 そんなわけない。懲役刑でも何でも受けるさ。罰として。

 殺した一人の名前が、粕谷翠だったりするのは俺の記憶違いだと思うが、でないと、ここにいるこいつは誰なんだって話になってくるし、いやいや、どうでも良い。

 まあ、あれだ。

 殺人鬼に、俺はなった。無事、合格。そうさ、やったぜ。

 やっぱり本当だったんだ。俺は狂ってしまった。だからここにいるんだろう?


 最高だぜ、俺は。イカした野郎だ。いかれた野郎だ。


 ごめんなさい。

 あの飴玉は、おいしかったのですが。

 ただ。

 あの時砕け散ったものは、飴玉だけでなくて。

 それが最後まで響いた。間違いなく場違いな。


 とにかく、これでおしまい。

 論理的に考えて、こんな話あるわけないし。何、信じそうになってやがんだ、お前?

 つうか、誰、お前?

 俺? 俺は塩野義。

 今日もこの屋敷の地下でお前たちを待っているんだ。

 ああ、たぶんそれだけで俺が本物になれる予感がする。

 泣きたくなったら、どうすれば良い? 翠。


「就職すればいいのよ」


 リクルートスーツを買っておいてよかった。

 行ってくる。

 今日も街まで。

 いつものように。


 まともな生活はまだまだ出来そうもない。


(了)

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