快適な我が家の惨劇

 世界の全てが煙たかったので、只管に目を閉じて過ごした。冷戦のような風音を聞いては、いつまでも飾られない孤高の魂を気取って笑っていた。どうしようもなく上手くいかない日々には名前をつけ、良い加減にかわして歩いた。

 それが青春だと思っていた。


 一人の男が死んだのは、八月のある寒い朝だった。当日の曜日までは覚えていないが、日曜日の次の日だったことだけは確かだ。僕の家の前には国道よりも大きな道路があって、滅多に人が通らないことで有名なのに、その日に限って二台のダンプカーと一台の軽自動車がほぼ同時刻に偶然通りかかってしまったというのが事故の真相で、別段何かと何かが正面衝突したとか、オフセット衝突したとか、そういったバイオレントな事象は一つたりとも起こっていなかった。ただ、カーヴになっている我が家の塀の前で、二台のダンプカーを追い抜こうとした軽自動車が静かに静かにスピードを落としていき、丁度タクシーを呼んだ時みたいに玄関前に横付けして止まった。勿論、ダンプカーは追い抜かれることなくそのままどこかに走り去っていって、いつかスクラップになる日まで使用される運命だ。別段、その運命についてはとやかく言う気はない。異論もない。

 その事故は、事故というにはあまりにも静か過ぎて、誰も何も言わなければ日常の一コマでしかないはずだったに違いない。軽自動車の助手席から一人の女が降りてきて、真っ赤な洋服の中で悲鳴をあげた。軽自動車も大体そのような色をしていた。

 ああ、そして僕はどうしてその時、その朝、あんな風に家の中で退屈していたのだろう。聞こえてきた悲鳴に吃驚した僕は、暇に飽かせて家を飛び出した。靴箱の中の靴は、どれもこれも湿っていたので、サンダルを突っ掛けて行った。その年の集中豪雨は、水はけの悪い家には酷なまでの試練だったのだ。

「どうかしたんですか? 誉さん」

 誉というのはその女の苗字であったが、女は自分の名が呼ばれたことにさえ気付かないように悲鳴を上げ続けた。まるで、頭のネジが一本外れたようだった。前年の同じ頃、高校の同級生が大体同じような症状を呈した後学校に来なくなって、後になって大麻の栽培で捕まったのを思い出した。

「ねえ、誉さん」

 家の前の軽自動車は今にも動き出しそうだ。サイドブレーキをかけた形跡はおろか、フットブレーキすら踏んだ形跡がない。マニュアル自動車がクラッチを外した状態で転がっているに過ぎず、多少傾斜しているこの家の前で、静止しているのが不思議なくらいだ。

「何、塩野義君」

 誉はどうしても話そうとしなかったので、僕はその隣に捨てられていた誉の理性を拾い上げて会話の対象とした。これだから、受肉した人間は困る。僕が会話の対象を選べない人間だったら、どうしてこの事態が収集出来たろう。

「一体何故、君の本質部分で出来ているこっちの人は叫び続けているのだろうか」

 塩野義は、僕の苗字だ。だから返事をしたというわけだが、もしかしたら、それは僕のことではなかったのかもしれないと後になって思うことになる。後になって、と言っても、すぐにそう思う。

「それは勿論」

 誉の理性は、大きな口を三つに増やして笑った。あああああ。ああ、あああああ。誉の叫び声は、鬱陶しかったが、僕の耳には届いてこなかったので、誉がどうしているのかは視覚でしか捉えていなかったと言って良い。

「運転席で人が死んでいるからよ」

「ほう、そうかい」

 塩野義は僕の苗字で、塩野義がひょいと赤い軽自動車の中を覗き込むと、確かに運転席で一人の男が血を流して死んでいた。どこから血を流しているのかわからなかったが、頭ではないことだけは確かだ。首が半分以上切られていてもげ落ちそうだったから、もしかしたらそこかもしれない。フロントガラスは大部分が赤く汚れていたが、対向車の運転手が盲目だったならば気付かないだろう範囲に過ぎなかった。

「おや、こいつは不愉快だな」

 僕の苗字は塩野義だった。生まれて一八年も経つのに、進化の片鱗も見せないその苗字と付き合い続けた僕には、それ以外の苗字など思いもつかなかった。だから、すぐにわかった。その運転席の男の苗字も塩野義という。

「これは、僕じゃないか」

 別に、僕が二人いるとか、そんな非科学的なことを言うつもりはないが、昔から僕は確実に二人以上いたのだ。一人目を目撃したのは五歳の頃で、両隣の家が不審火で全焼した時、煽りを食って同じように全焼してしまった僕の家の中で、炎に巻かれた一人の男の子が僕だった。早く逃げろ、と泣き叫んでいた僕は、早く逃げろ、と僕に泣き叫ばれながら必死で逃げて逃げ遅れ、炎の中で一夜を過ごした。次の日消し炭のようになった僕を発見したのが僕で、苗字は勿論塩野義といった。

「そうね、あなたよ」

 いつの間にか、理性を拾い上げた誉本人がゆっくりと言った。右手に持っているのは、芝刈りなどに使う鎌だと思うが、何に使ったのかよくわからない。赤いのは返り血だろうが。滴り落ちる血液は、アスファルトにぶつかって砕けたりした。あるいは、空気に溶けた。寒いくせにやけに夏の匂いのする朝だった。

「どうして死んだのか」

 誉は、真っ赤な笑顔で赤く笑った。にこり。

「死んでないわ。まだ息がないって確認してないもの」

「そうか。じゃあ、もうすぐ死ぬ。僕が確かめる」

 震える指先には爪がついている。剥がれたりせずに、しっかりと定着している。誉が開けたドアから身を乗り出して、塩野義の呼吸があるかどうか確認する。案の定止まっていて、丁度その時、僕の後ろで鎌を振り下ろそうとしていた誉から理性がまた転げ落ちる。

「ああ、ちょっと待って」

 僕は、三分間だけ巨大化して戦えるが、人間相手にそうするのはフェアでないので、ゆっくりと振り返り、振り下ろされた鎌を素手で掴み取って相手の左腕ごともぎ取った。

「返して」

「うん」

 そっくりそのまま返してから、誉の理性を拾い上げる。

「もしかして、違っているかもしれないんだけれども――」

 前置きの科白の段階で、僕の家の中から三五人の殺人鬼が登場する。再び悲鳴を上げ出した誉を気絶させて黙らせてから巨大化し、三五人のうち三四人を踏み潰し、ついでに我が家を踏み倒して、CDラックの中に血の繋がっていない友達から借り受けたCDがまだ入っていたままなのを思い出して後悔し、腹いせに三五人目を踏み千切った。踏み潰したくらいで死なない殺人鬼は、わらわらとこぞって街へ続く道を走り出し、僕はそれを見送ってやる。

「――この僕を殺したのは、茅ヶ崎弥生?」

 その名に聞き覚えはなかったが、万が一と言うこともある。丁度小腹が減ってきたところなので、そんな名前が妥当だと思った。

「そうよ」

 誉は即答した。いつの間に意識を取り戻したのか。

「じゃあ、嘘だ」

「そうよ、嘘」

 ならば問題ない。僕の庭は芝生で、青い。

「その車、燃費良い方?」

「たぶん」

「焼却炉までは走れる?」

「焼却炉?」

「そう。そこの山道登っていけば歩いて五分で着く」

「無理。道がないから」

「そうか、じゃあいいや。歩いて行ってきて」

 あくびを噛み殺した。眠いのだと思う。運転席で死んでいる方の僕は、じっとこちらを見ていた。僕よりも虚ろな目が、何よりも気に食わない。

「燃やすの? この人死んでるんだよ?」

「ああ、違う違う。焼却炉の中に、もう二人分隠してあるんだ」

「死体?」

「ううん。僕」

「そっか、それと交換すればいいのか」

「違うって。せっかくだからそいつらを解き放ってみようと思って」

「何で?」

「もしかしたら、皆、僕よりも早く死ぬかもしれないから。同じ僕なのに」

 同じ僕、と言っても、違う自分なので、嘘もいいところだが、別に相手が誉なのだから何を言っても構わないと思った。潰された家の中から、母が朝食の用意が出来たと僕を呼んだ。勿論、母も縦に潰れていた。

「私は、どうすればいいの?」

「知らないよ。誉さん。そもそも、あんた誰なのさ?」

「誉よ」

「知ってますよ。誉さん」

「ふうん。じゃあ死んで」

「喜んで」

 命を粗末にしてはいけないと。そんな風に。僕を育ててくれたのは。誰だったっけ。

 今から僕は生きていこう。そう思えた。

「気が向いたら、また来て。その軽自動車はそこに置いていって。きっと良い餌場になる」

 まるで深海に船を沈めたようなことを言って、僕は、塩野義という苗字なのだが、背を向けた。その国道よりも大きな道路と、赤い軽自動車に。

「あなたのことは、きっと忘れないわ」

 僕の見えないところで、誉は軽自動車に乗り込んだ。僕の見えないところでエンジンをかけ、運転席に死体を乗せたまま走り出した。僕の見えないところで行われたので、どうやったのかは最後までわからない。

 僕の部屋は潰された。犯人は塩野義であるが、恨む気にもなれない。きっと、馬鹿みたいに巨大になって、何も考えずに踏み潰しやがったのだ。これから、どこに篭れば良いのだろう。

「ここがあるわ」

 誰だ、お前は。


 それが、誉絲子との出逢いだったら良かった。でも違った。だから、どうでも良い。


 あと、その日僕は、塩野義という苗字なのだが、生きていた。

 綺麗な朝日が、どうしようもなく綺麗だったが、綺麗でないわけないので、皆同じことを言う。綺麗だ、と。矢張りそれは、本当のことだと僕は思うし、だからこそ出会えたのだ。その女と。その、誉絲子という女と。

「やあ、誉さん。初めまして」

「そして、さようなら、ね」


 僕の家は今、小さな赤い軽自動車だ。勿論、良い餌場でもある。


(了)

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