殺戮スタジオに雨が降る

 嘘吐きだ。

 ふざけたことを言ってないで早く職業安定所にでも行って来い。お前の就職口を見つけられなかったことが、どれほどの死者を出すことに繋がったのかわからないわけではあるまい。

 そう言われても無理だ。

 いくらなんでも酷過ぎる。就職の内定は詐取したので手に入った。それでも侵食し続けるからこそ、ヒトはそれを病気と呼ぶのだ。

 都内は今日も熱波。

 うらぶれた街に明かりはない。時が止まれば悲惨なだけに刻一刻と近づいてしまう明日を押しとどめる術はない。残念だ。

 気でも違ったのか。と誰かが訊いた。そのはずだったが答えようとする主体はいなかった。惨めを絵に描いたようなと表現するために絵筆を買うような惨めさで。

 常々思うのだが、私には決められた日常がないので何度でも甦るのではなかろうか。


 見つけた。


 お前がこの物語の中心だ。と誰かが言った。それもそのはずでとうとう見つかってしまったのが私。私はわたくしであってお前ではない。だからここから答える必然性を持つ。現象面から判断するにここにいるのは私だけらしい。正確には私とそれから多くの人間たちだが、その多くの人間たちを認識しているのが私なので除外しても良いらしい。好都合としか言い様がない。

 青褪めた。

 精神安定剤を飲もうとするといつもいつも喉に何かが引っかかって嘔吐してしまうから今後それを催吐剤と呼ぼうと決めたはずなのに結局そういった使い方は一度たりともしなかった。不思議なことだが、それは勿論あたりまえの話で、私にはそんな記憶などないのだった。だから誰かが私の名前を呼んでも私は精神安定剤も筋弛緩剤も免疫抑制剤も飲む必要などさらさら無く、ただ、一途なまでに振り返り返事をしてやればそれで事足りるのだ。しばし待て。

 わかった。

 いつの間にそんなことを憶えたのか。いつの間にそんな言葉を覚えたのか。衒学的に語り感覚的に悟る。天晴れである。それがお前の仕事であるのか。ならば天職であろうな、とそのようなことを言った。それは私の仕事なのか。

 嘘付きだ。かねてより判断したかったのはそのことだ。

 どうにも興味が尽きない。忌まわしいだけだ。言葉が乱立する。まるで樹木のようにありとあらゆる場所に天を目指して林立する文字列がやけに不快。

 不快、不快、不快極まりない。

 考えるよりも言葉の流れのほうが速い。流されるように踊る。文字が。あが。いが。うが。えが。おが。かが。きが。くが。けが。こが。踊り狂う。五十音全てが。かなが。カナが。漢字が。記号が。絵文字が。何と当世風の舞踏会であるか。

 あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。

 たちつてと。なにぬねの。はひふへほ。

 ま。    や。    ら。

 わ。

 うとえの間に挟まっていた鼠を助けてから、さとしの間に埋もれていた金塊を掘り出して、ふとへの間から顔を出そうと決めてお前は美しい女になったりするのではないか。

 ここで一句詠む。

 そのつもりだったが間違えたらしい。一句詠むことすら出来ない。明かりがないから呼吸するたびに軋る。肺と臓器が。肺を含めた臓器が。原初からの奪還。理性という名の綻びが、このように私を支えている。それが証左となり得る。

 まず。唄おう。

 朗々と。負けないようにだ。

 雨の音に負けないように。大きく口を開いて。喧しい虫の羽音を飲み干して。一切合財の躊躇無く、ただ罰を与えるように力強く振りかぶってその右腕を。

 晴れた空。屑のように千切れていく私。ぴたりと嵌るジグソーパズルのように、溶け込んで。私とお前は二人とも二人ずつになり。草の葉で鈍く切り去られたヒトの人差し指からヒトの血が流れていく。粒になって零れていく。

 犬が鳴く。そんなことはここではもう全く関係ないので起こるはずもないこと。だから全然触れなくても良いしどんな風に鳴いているのか何故鳴いているのか歯牙にもかける必要はない。

 嘘吐きも詐欺師もここでは平等に色んな権利を与えられて生きていくことを許されているから生きていても誰も文句は言わないけど死ねといわれたら死ぬべきだと思う。どうせ死ねといわれても死なないと皆が思っている。だからこそ死んで本当に嘘吐きだと証明することが最期の意地なのではないのかと。でも別に本人が死ねといわれても死にませんと言っている訳ではないのでどうでもよい。お前は死ぬべきだと思うが不老不死だと喧伝しているわけではないしどうせいつか死ぬので今でなくても良い。

 そうそうこんなことがあった。と、お前は言う。

 そうそうこんなことがあった。

 先日とある村に行ったところ、広い野原の真中にたった一本だけ小さなリンゴの木が植えられていたのだ。と、お前は言う。

 先日とある村に行ったところ、広い野原の真中にたった一本だけ小さなリンゴの木が植えられていたのだ。

 こんなに広いのにどうして一本しか植えないのだろうと思って近くにいた村人に話を聞いてみた。と、お前は言わない。

 そうしたら村人はどう答えたと思う。と、お前は言わない。

 それはね、別に何の理由があるわけでもないけど何となくだよ。と、お前は言わない。

 お前はもう何も言わない。

 ただ、先日お前が訪れたのは村でもなく、辿り着いた先は野原でもなく、立っていた木はリンゴの木でもなく、そもそもお前の世界はそれだけで全部、たったそれっぽっちの世界でしか生きていないからそれとしてしか認識出来ないだけの話であって、村人なんているはずもないし、困ったことに話し相手だっていた試しがないんだ。と誰かに言われる。

 例えば私などに。


 見つけた。


 面白い話をしよう。人間が言葉を話す際、絶対に言語を使う。何故かわかるかい? それは、人間が言語でしか言葉を伝えられないからだ。認識を言語に置き換えてそれを言の葉に乗せてしか喋れないからだ。もっと言えば、そもそも言語を介さない言葉があるわけが無い。意味を持たない言葉を他人は言葉として認識出来ないのだから、共通の言語というテクストがあって初めて言葉が成立するわけだ。つまり、どんな出鱈目な発音で何かを話してもその意味を解する人間が他に居たならば、その音はその瞬間から情報伝達が可能である、つまり何らかの言語であるという認識すらなされるわけだ。勿論これは嘘で、どんな出鱈目な発音で何かを話してもその意味を解する人間が他に居なくても、その音は情報伝達が不可能なまま自閉的な言語としての意味付けを与えられ共鳴することなく世界に埋没していくというのが本当だけれども、この本当を本気にする前に二、三、考えなければならないことがある。

 まず、何を考えなければならないのか。そして次に何を考えなければならないのかを考えなければならないのか。そして最後に一番美味い魚は何か。面倒なので最後の問いにだけ答えると、たぶん鮪か河豚だと思うが根拠がないので適当に書くと、グルタミン酸の含有量を単位体積あたりで計算して鮭という答えを得た。という風な具合になるが、ところで、いつまでたってもあいつが来ない。

 もしかしたら、待ち合わせに遅刻しているのかもしれない。勿論、私でもお前でもなく、あいつが。

 ではここで、あいつについて簡単に紹介することにする。ここではないところに現在居るので見えないかもしれないが、生きているヒトであり、倒れると横に長い体格をしている。勿論私でもお前でもないのであいつである。しで始まってぎで終わる苗字である。

 なんと言うことか。洪水が今まさにここを襲ったら私は溺れてしまうのではないか。

 泳げるという言葉が他人を傷つけることがあるのをご存知かと問われれば否というしかないが、私は泳げる。しかも上手に泳げる。お前は上手に泳げない。だが泳げる。あいつは泳げない。しかし上手には泳げる。屈辱的なまでに上手に水を掻き、幾千光年の遥か銀河の向こうから遊泳してきたのであると専らの噂であるが如何せん宇宙には水もなく大気も無い。しかし泳げる。

 あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。

 ただし、目に見えないばかりに見過ごされた雄雄しき闇夜には敬意を払わねばならない。あの高名な誰かも崇高なる誰かも言っていた通り、高名でも崇高でもないヒトの話以外聞く価値などないわけで、私やお前の言葉にしか価値は無い。その私が言うのだから間違いは無いのだが、いつまで経っても乳母車の車輪の数が減らないのは不具合であるとしか言いようが無い。

 朝は四本、昼は二本で夕方は三本、これは何か。とお前は訊く。私に対して問いを、投げかける。私は答えを投げ返す。

 諾、と。

 しばらくぶりに帰った故郷が水の底で発見されたのならば、それはムーかアトランティスであろうと思う。だが、現実的にはダム建設の一環である可能性のほうが極めて高い。何の陰謀であろうか。考えるだけ無駄である。きっと死ぬまで私の年齢は決まらないのだから。

 嘘吐きだ。

 決まって誰かを蹴落としてきた私が初めて見た人間がお前だった。ヒトではない。人間だと思った。過ちは繰り返されると聞くがむしろ逆で、繰り返されてはじめてヒトはそれが過ちなのだと気付くのである。繰り返されなければそれは過ちではない。許容されるべきチャームポイントか何かだ。

 不意にぽっかりと穴があいてしまったようだ。どこにもかしこにも。不自然なくらいに微笑んで。かりかりかりと音がやまない。病気だ。お前、それは病気だ。幻聴だ。不思議な病。

 あ、あいつが来た。犬を連れてきた。すごい勢いで削れている。体のどの部分だ。減っているのに全体的に小さくなっていく。奇跡的だ。どうやれば真似できるのだろう。誰にだってあんな目減りの仕方は不可能だ。むしろあんな減少現象が可能であるヒトをこそあいつと呼ぶのかもしれないと思うほどに。犬が。紐を引きちぎって逃げようとしているなどという虚偽の情報に踊らされてはならない。そもそも犬を連れてきてなどいない。ここには犬などいない。誰も犬という言葉を知らない。私も知らない。犬。そんな可愛い動物みたいな言葉を見たことも聞いたことも無い。恐ろしいあいつがいなくなった。風化したようだ。その他のヒトの間で伝説になっていた。詳しく書くことは出来るが熱波が鬱陶しいのでここでは口を塞ぐ。言外に、行間に、その辺りを醸すので読み取っていただきたい。苦し紛れに飛んでみた。

 翼が無いのに、記載されてないのに、空を飛べる動物って何か。とお前は問う。声にも出さずに問う。目で問う。耳で問う。体全体を通して疑問符を作る。

 それは像だ。象ではなく像だ。動物的感性で悟ってしまった。答え。選択肢は九二個くらいあったろうけど、迷いは無い。そうなのか、あいつは消えてお前はいつまでたっても減りさえしないのに。空を飛べたら像になるというのか。

 羽ばたかずに。行けるのか。どこか、その辺の中空にまで。

 甘い水を求めて軽く言説すら越え、迸る再生の大地に幾重にも罠を仕掛ける。豪雪地帯に雪は降り、安全地帯に槍が降る時代に、私は何を降らせるのが使命なのだ。

 黙れ。お前はそこで黙ったまま押し黙っていろ。屈折率が違うから空気中でも見えるんだ、目障りなお前は。

 屈辱に悶えて去れ。最後まで諦めずに消えうせろ。勝つのはヒトかそれとも他人か。複雑に絡み合ったままでも長いその紐を束ねて、記憶の彼方から戻ってくれば良いではないか。誰も止めはしない。止めることなど出来はしない。

 言葉が出てこない。個性と異常の違いもわからない分際で自己を表現しようと必死でもがく若者が居る。自分を見ろ。これだけ他人と異なる視点から物を言うことが出来るのである。これが個性だ。十把一絡げに有象無象たちと括られるだけの存在ではないのだ。と。反吐が出る。馬鹿馬鹿しいほどに凡庸。自分をいかに雑踏に溶け込ませるかに難儀する者たちから見たその姿は、滑稽を通り越しているはずだ。お前も、そうなるつもりか? 見事な嘲笑を持って、あいつに迎えられるだけに終わるぞ。良いから消えておけ。上手い具合に空気中の窒素に同化しておけ。今だけは許される。誰もいない今ならば必ず。

 屍という言葉がどうしても素晴らしい言葉に聞こえてしまうので、私は侍にはなれそうにないと思う。野垂れ死に、哀れを身に纏い焼け野ヶ原に転がって、それでも尚笑みを浮かべる余裕さえありそうな私を、修羅と呼ぶ者はいない。飛び込めば水は飛沫を上げるのであるが、炭と灰に囲まれた朽ち行くものにとってそれは真に関係の無い事柄である。お前はただ恋と愛の違いを真剣に論じながら無知を晒して喜んでいる。そんな歴史の空隙のような下らない一生を終える。そうして私より先に屍になるのは、ひどく羨ましい。

 もう一度だけ、見た。私に残された時間は、濁流のように渦を巻きながら、お前やあいつの傍らを猛スピードで通過している。こちらに一瞥もくれずに擦り減っていく。数日間動き続けたら小石ほどまで丸く角が取れ、淡い色に変わる。素晴らしいまでに未知。誘惑に負けた妖精のように、覚束ない軌道を描きながら近付いていく。足取りを追って飛べば楽になれそうな気がする。

 私には、耐え切れない。幸福は重過ぎるし、希望は断片化されて掴み取れない。罪悪感とだけ仲良くやっていければ良い。もう何も望まない。


 右頬を打たれた気がして目が醒めた。覚醒した。そう全てが夢だ。

 残念だ。久しぶりに眠れたのに。夢は悪夢でも楽しい。夢想だけが私を救う。

 首筋に一滴、ぽつりと落ちてくる。真っ赤な水滴。

 あいつの色。

 また今日もいつものスタジオで、いつもの殺戮が始まった。


(了)

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