真相・七尾恵美と神崎美奈代

 事件の日──



 七尾は、ひとり三階を歩いていた。

 徐々に目が慣れてきたが、それでも足元を見るのがやっとだ。明かりといえば、開いている窓から入って来る月の光くらいだ。

 こんな暗闇の中、どうやって箱とやらを探せばいい? そもそも、箱はどんな形をしている? などと思いながら、手探りで進んでいた時だった。

 突然、前方に人の気配を感じた。思わず声が出る。


「だ、誰かいるの?」


 すると、部屋から姿を現した者がいた。暗いため顔はよく見えないが、Tシャツにデニムパンツといういでたちのようだ。

 相手は無言のまま、すっと近づいてきた。七尾は、思わず後ずさる。顔がうっすら見えてきた。目の前にいる人物は女のようだが、誰かはわからない。いや、どこかで見たような気もする。誰だろうか。


「だ、誰あんた?」


 口走った言葉に、女はフッと笑う。


「やっぱり、誰も私のことを覚えてないんだね」


「だから、誰?」


 もう一度聞くと、その口から意外な言葉が飛び出した。


「私は、本物の木下美奈代だよ。今は神崎美奈代だけどね」


 唖然となった。本物? いったい、どういうことだろう。木下美奈代なら、さっき下で会っている。この女とは違う。


「えっ? 何言ってんの?」


「わかんないかな。下に来てた奴は偽者。私が、本物の木下美奈代だよ」


 偽物……想定外の言葉に、七尾は呆然となっていた。だが、ようやく己の置かれた状況を理解する。暗いためはっきりとはわからないが、目の前にいる女の顔には確かに見覚えがある。そう、記憶にある木下美奈代の面影が残っているのだ。

 どういうことだ? 七尾の体は震え出していた。わけがわからない。では、あの偽者は誰だ? なぜ、こんなことをした?


「ちょっと待ってよ。わかるわけないじゃん。あんた昔から影薄かったしさ。なんで、そんなわけわかんないことしてんの?」


 どうにか平静を装い尋ねたが、内心では目の前の女に恐怖を感じていた。美奈代は、明らかにおかしい。記憶にある美奈代は、常におどおどして人の顔色を窺うカッコ悪い奴……でしかなかった。

 ところが、今の美奈代は違う。妙な自信が感じられるのだ。気のせいではない。


「こっちにも、いろいろあってね」


 落ち着いた態度で、美奈代は答えた。七尾とは対照的だ。しかも、こちらに向ける目線からは、敵意が感じられるのだ……。


「いろいろって何?」


 顔を引き攣らせながら聞くと、美奈代の表情が変わった。


「今田勇治、この名前に聞き覚えあるでしょ?」


 途端に、七尾は思わず後ずさる。体の震えが、さらに激しくなった。なぜ、その名前が出る?


「な、なんであんたが、あいつを知ってるの……」


「あいつの本名は、神崎達俊。あたしの旦那だった男だよ」


「えっ……何それ?」


 混乱した七尾は、そう答えることしか出来なかった。あの今田は、作家・朝倉風太郎の知人だ。しかも、芸能界でもそれなりの発言権を持っている……そう思っていたからこそ、あの変態じみた要求にも我慢してきたのだ。

 まさか、こんな地味女の旦那だったとは──

 呆然となっている七尾とは対照的に、美奈代の方は凄まじい形相になっていた。


「なんで……なんでお前なんだよ!」


 突然、喚き出した。七尾はビクリとなり、思わず後ずさる。


「お前以外の女なら、あたしは許せた。なかったことには出来ないけど、それでも許すことは出来た」


 直後、美奈代は一歩進み出る。今になって気づいたが、その手には何か握られていた。開け放たれた窓から入って来る月や星の光を反射し、鈍く輝いている。

 七尾は、やっと理解した。あれは刃物だ──


「な、何それ? ちょっと待ってよ。あたしは何も知らない。あの、何とかいう作家にやらされたんだよ」


 必死に言い訳をする。そう、悪いのは朝倉だ。あの作家の指示に従い、今田……いや、美奈代の旦那と寝た。

 だが、美奈代はせせら笑う。


「はあ? 作家ぁ? 誰よそれ? 言ってみなよ」


 そう言われ、七尾は必死で思い出そうとする。だが、とっさに名前が出てこない。


「えっと、あの、何とかフウタロウとかいう奴だよ」


 そう、何とかフウタロウだ。ペンネームにしても、もう少しマシな名前を付ければいいのに……フウタロウだけはありえない、と思ったことを覚えていた。


「その何とかフウタロウって作家が、うちの旦那とあんたが寝るよう仕組んだ……そう言いたいの?」


 冷ややかな口調で、美奈代は聞いてきた。


「う、うん、そうそう、その通り。悪いのは、あの作家だから。あたしは悪くないんだよ。あの作家に、無理矢理やらされてただけだから」


 卑屈な態度で頷きながら、愛想笑いを浮かべる七尾。昔とは、完全に立場が逆転していた。中学生の時は、七尾が横柄な口調て命令し美奈代が卑屈な態度で応じていたのだ。

 そんな美奈代が、横柄な口調で七尾を追い詰めていく──


「あのさ、もうちょっとマシな嘘つきなよ」


「えっ?」


「その何とかフウタロウが、うちの旦那とあんたが寝るように仕向けて、何の得になるの? ねえ、誰がどんな得をするの? 聞かせてよ」


 言いながら、ナイフの切っ先を七尾に向ける。七尾はビクリと震え、両手を振る。美奈代は、よく覚えていた。これは、七尾がシラを切る時によく使っていたジェスチャーだ。何か悪さをして教師に問い詰められた時、七尾は「違いますよぅ。あたしじゃありません」などと言いながら、こうやって両手のひらを左右に振っていたものだ。男性の教師たちは、いつもこの仕草に騙されていた気がする。「そうか、わかった。俺はお前を信じる」とヘラヘラ笑いながら、七尾の罪を見逃していた──


「し、知らないよ。そういう趣味なんじゃないのかな」


 今も、七尾はこんなことを言いながら愛想笑いを浮かべている。笑ってごまかそう、というのだろうか。

 再び怒りが湧き上がってきた。これで逃れられる、と思っているのだろうか。


「ふざけるな!」


 もう止められなかった。喚くと同時に、突進する。

 手にしたナイフが、七尾の腹に深々と突き刺さった。

 にもかかわらず、七尾はきょとんとしていた。自身の腹に刃物が突き刺さってるのを、他人事のような目で見ている。自分の身に何が起きたのか、把握できていないのだ。

 その態度が、美奈代をさらなる凶行へと誘う。


「お前だけはダメだ! お前だけは許せない! なんで今頃になって、あたしの前に現れるんだ! なんで、あたしの人生をぶち壊したんだよ!」


 喚きながら、ナイフを引き抜いた。その途端、傷口から大量の血が流れる。

 しかし、美奈代はお構い無しだ。怒りに任せて、もう一度突き刺す。その瞬間、七尾は足がもつれた。突き飛ばされるような形で、後方に倒れる。

 己の、血に染まった腹部か目に入った。そこで、ようやく何が起きたかわかったらしい。


「ひ、ひいぃ! やめてえぇ!」


 叫びながら、立ち上がり逃れようとする。だが、美奈代にやめる気はない。さらにナイフを振り上げ、顔面に切り付ける──


「誰か助けてえぇ! 顔はやめて!」


 七尾は必死の形相で叫びながら、両手で顔を覆う。弾みで、またしても転倒した。にもかかわらず、まだ両手で顔を覆っている。この女、よほど顔を傷つけられるのが嫌なのか。

 ならば、その顔をめちゃくちゃにする。この女が、自分から何もかも奪い去ったように……美奈代は倒れた七尾に馬乗りになり、手当たり次第に刺し、切りまくる。いつのまにか、両手が返り血でべとべとになっていた。自身の顔にも、血が付いている。それでも、彼女にやめる気はない。


「お前は……お前だけは、絶対に許せない! あたしの人生を返せ!」


 喚きながら、なおも刺し続ける。そう、七尾恵美が自分の人生を目茶苦茶にしたのだ。ようやく平凡な幸せを掴もうとしていたのに、この女が突然しゃしゃり出てきた。結果、自分は何もかも失ってしまったのだ。

 この女さえいなければ、あんなことは起きなかった──

 七尾は、もはや動かなくなっていた。だが、美奈代はお構いなしに刺し続ける。己のうちに少しずつ育まれていた狂気が、彼女の心と体を完全に支配していたのだ。


「オラァ! 何とか言えよ!」


 狂ったように叫び、ナイフを振り下ろす。その時、ガキンという音が響いた。振り下ろしたナイフが顔を逸れ、床に当たり刃こぼれしたのだ。

 そこで、美奈代はやっと動きを止めた。七尾を、改めて己の敵を見下ろす。

 中学生時代から今に至るまで、大勢の男を魅了したであろう美しい顔。しかし今、その顔は目茶苦茶になっている。もはや、原型を留めていない。顔の皮膚や肉は切り裂かれ、ところどころ骨が見えている。目は潰れており、口は裂けたような状態だ。常人なら、吐き気を催すだろう有様である。

 だが、美奈代は冷静な顔で見下ろしていた。人を殺してしまったにもかかわらず、罪悪感はない。むしろ清々しい気分だ。ようやく解放されたような感覚をも同時に味わっていた。

 実のところ、彼女にとっては、これが初めての殺人ではなかったのだ──


 ・・・


 事件の半年ほど前、秋山薫と山田花子は神崎達俊に接触した。初めに山田が、達俊を籠絡する。

 山田は平凡な顔立ちだが、化粧によって様々なタイプに化けることが出来た。また、相手の好みのタイプを瞬時に見抜き、そのまんまの女を演じることも出来るのだ。カメレオンのごとく、何人ものキャラを演じわけられる女だった。話も上手く、相手に合わせ話題を使い分けられる。

 こんな女を相手に、恋愛経験がほとんど無い達俊が対抗できるはずもなかった。あっさりと落とされてしまう。

 ふたりが密かに逢い引きし、口づけを交わす……そこに現れたのが、秋山だった。


「神崎達俊さん、あなたは妻帯者ですよね? このことかバレたら、どうなるかわかりますよね」


 達俊は、あっさりと落ちた。秋山と山田のいいなりになる。

 しかも、このふたりが要求してきたのは……元グラビアアイドルの七尾恵美と寝ることだった。


「実はですね、七尾恵美には熱狂的なファンがいましてね、彼女があなたのような男性に抱かれるシーンを見たい……いわゆるネトラレ趣味、というヤツでしょうかね。どうです、やりますか?」


 達俊は、あっさりと承知した。いや、それどころか乗り気になっていた。もともと達俊は、七尾のファンである。むしろ、こちらからお願いしたいくらいだった。

 こうして達俊は、今田勇治と名乗り七尾と会っていた。ホテルには盗撮用のカメラを仕掛け、ふたりの濡れ場をきっちりと録画する。

 最初はおずおずとしていた達俊も、徐々に大胆な要求をするようになる。三ヶ月も経つと、達俊は七尾の肉体に夢中になっていた。しまいには、自らの意思で彼女を呼び出すようになっていたのだ。

 しかし、そんな蜜月期間にも終わりが訪れる。ある日、仕事から帰った達俊は、妻の美奈代に写真を突きつけられた。

 そこには、達俊と七尾がホテルに入っていく場面が撮影されていた。さらに、ふたりがコトに及ぶシーンも、きちんと撮影されていた。そう、秋山薫からの手紙に同封されていたものは、この写真だったのである。

 真っ青になる夫を、妻は凄まじい形相で罵った。その勢いは普通ではない。恐ろしい形相で、口汚く罵った。よりによって、なぜ七尾なのだ……その思いが、美奈代を突き動かしていた。

 最初はひたすら謝っていた達俊も、途中から我慢できなくなったらしい。顔を真っ赤にして言い返す。完全に開き直った態度であった。両者の言い合いは、どんどんヒートアップしていく。

 激しい罵り合いの挙げ句、最初に手を出したのは夫の方だった。平手で、妻の顔面を叩く。

 殴られた美奈代は床に倒れるが、すぐさま立ち上がった。これまで、達俊に叩かれたことなどない。興奮状態のため、痛みより殴られた怒りが上回っていたのだ。

 逆上した美奈代は、とっさにテーブルの上に置かれていた硬いものを掴んでいた。

 次の瞬間、達俊の顔面に叩きつける。右手に、異様な感触が走った。生まれて初めて味わう、人体を破壊する感覚。

 達俊は、顔から血液や折れた前歯などを吹き出しながら倒れた。弾みで、後頭部を椅子に打ち付ける。ゴツンという鈍い音が聞こえたのを、美奈代ははっきり覚えている。

 一瞬遅れて、床が血に染まっていった。直後、美奈代の手に持っていた小型電気ポットが、床に落ちる。どこの家庭にもある物が、夫に死をもたらした凶器となったのだ。

 美奈代は初め、何が起きたのかわからなかった。なぜ、夫は倒れたまま起き上がらないのか。なぜ、こんなに大量の血が出ているのか。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 その時、ドアが開いた。入ってきたのは、秋山薫と山田花子である。ドアには鍵をかけていたはずなのに、いとも簡単に入ってきた。

 まだ状況を把握できず、その場で硬直している美奈代。だが、ふたりは動いていた。まず山田が、倒れている達俊に近づいた。しゃがみ込むと、冷静に体をチェックする。

 やがて顔を上げ、首を横に振った。すると、秋山は固まっている美奈代の方を向く。


「十五年ぶりだね、木下さん。いや、今は神崎さんか。これで君は、ふたりの人間を殺してしまったね」


 その言葉に、美奈代はハッとなった。途端に、体がガタガタ震え出す。ようやく、事の重大さに気づいたのだ。


「嘘……違う。あたし、そんなつもりじゃ……」


 真っ青な顔でかぶりを振る美奈代だったが、秋山は冷たく言い放つ。


「いや、達俊さんは死んだよ。それに、君らのせいで僕の母は死んだ。覚えているよね」


 その言葉に、美奈代は下を向く。


「それは……あたしのせいじゃない。悪いのは、全部あいつらだよ」


「でも、君は止めなかった。まあ、止められはしなくても、何が起きたか言うことは出来た。なのに、君は言わなかった」


 そう、美奈代は知っていた。秋山の母・美登里が行方不明になっていたことも、三年後に白骨となって発見されたことも知っている。

 にもかかわらず、美奈代はずっと自分をごまかして生きてきた。悪いのは、あいつらだ……そう自分に言い聞かせて生きてきた。


「それだけじゃない。君はあの日、屋上で何があったか見ていたよね」


 美奈代は愕然となった。秋山の言う通りだ。あの日、屋上で何が起きたか見てしまった。

 だが、その光景にも目をつぶった。見て見ぬふりをして、その場を離れたのだ。


「そ、そんな……」


 わなわな震えている美奈代に、秋山は冷静な表情で言う。


「君に協力してもらいたいことがあるんだ。僕は、藤川ら四人をあの廃墟に呼び出す。そこで、ゲームをやってもらうのさ。協力してくれれば、君が達俊さんを殺したことは黙っているよ。それだけじゃない。彼の死体も、僕らが始末する」


「えっ……」


 唖然となっている美奈代に、秋山は自身の計画を全て語った。

 すると、美奈代の口から思わぬ提案が飛び出す。


「だったら、お願いがあるの。あたしに、あいつを……七尾を殺させて」


 思わぬ発言に、秋山の表情が変わる。


「僕は、ただ殺すのでは面白くないと思ってるんだけどね……本気なのかい? 本気で、七尾さんを殺したいと思っているの?」


「当たり前だよ。あいつさえいなければ、こんなことになってない。あいつを殺さなきゃ、気がすまない。あいつさえ殺せれば、刑務所くらい行ってもいいよ」


 即答する美奈代に、秋山はニヤリと笑う。


「だったら、ひとつゲームをしよう。当日、ここにいる山田さんが君のふりをして彼らと会う。もし彼らのうちひとりでも、山田さんを偽物と見抜いたなら、七尾さんは殺させない。だが、もし彼らが山田さんを君だと信じたなら……その時は、七尾さんを好きにして構わない。後のことは、僕と山田さんに任せるんだ」




 かくして、美奈代もふたりの計画に加わることとなった。当日は、山田が美奈代のふりをして四人に合流する。

 山田と美奈代……両者の顔は、全く似ていない。にもかかわらず、四人全員が彼女を木下美奈代だと信じた。

 暗い廃墟の中だった、という部分が大きかったのは間違いない。しかも、彼らは全員が自身の問題にかかりきりだった。

 もし、ちゃんとした明かりの下で会っていれば、木下美奈代を名乗る人物と会った瞬間に何かしらの違和感を抱いたかもしれない。

 だが、彼らは何の疑問もなく、山田の嘘をあっさりと受け入れる。山田の演技は完璧だった。今のリアルな美奈代に無理に似せようとせず、自然な形で「学生時代に地味だった女」を演じきった。態度も堂々としており、怪しげな点はない。少しくらいの違和感も、十五年会っていない……という事実によりかき消されてしまった。

 何より、本物の美奈代は……彼らにとって、あまりにも印象の薄い人物だった。グループ内でも目立ったことはしていない。彼女について覚えていることなど、ほとんどなかった。四人の内、もっとも記憶力がよく頭もキレるはずの藤川ですら、山田を木下美奈代として受け入れてしまう。

 その事実が、美奈代の心をさらに傷つける。殺意をますます強固なものにしてしまった。

 結果、惨劇の発端を彼女が作ってしまう──



 


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