ゲーム開始
「木下、まずはここから探してみよう」
「うん」
木下は頷いた。
ふたりがいるのは、一階である。部屋は、全部で四つだ。うち一号室から三号室までが患者を収容していた部屋で、残るひとつは職員の休憩所だったらしい。上の階に行くための階段はふたつあり、廊下の両端に設置されている。今しがた、村本と山口が二階に、七尾が三階へと向かったところだ。
藤川らは、まず端にある一号室から探すことにした。懐中電灯をつけ、部屋の中を照らしてみる。
部屋は、六畳ほどの広さだ。窓には錆びた鉄格子が付いており、壁には汚れた鏡が埋め込まれていた。床は汚く、得体の知れない何かが散らばっている。時おり、カサカサという音が聞こえてきた。虫の立てる音だろう。
藤川が慎重に部屋の隅々を見ていた時、不意に声が聞こえてきた。
「あのさ、藤川は本当に凄いよね。あたし、あんたは絶対に大物になるって思ってたよ。中学の時、あたしがそう言ったの覚えてる?」
秋山の声ではない。後ろにいる木下が話しかけてきたのだ。こんな状況だというのに、同窓会のごとき呑気な口調である。思わず舌打ちしそうになったが、どうにか堪えた。今は、彼女の機嫌を損ねてはならない。万が一、この女が秋山薫の事件をマスコミにリークしたら……確実に、自分は終わりなのだ。
「ああ、そんな話したこともあったな。でもな、俺なんかまだまだだよ。この業界、上には上がいるしな。本当、冗談ぬきで俺なんかペーペーだよ」
平静さを装い言葉を返した藤川だったが、話は終わらなかった。
「村本も七尾も、華やかな世界にいる。たまにテレビなんかで観ると、うらやましくなるね。みんなに比べると、あたしは本当につまんない人生を歩んでるなあって思うよ。平凡で、退屈な主婦。みんなは、ずいぶん遠くに行っちゃったなあ、って感じだよ。まあ、あたしには藤川みたいな生き方は絶対に無理だけどね」
お前のつまらん人生論なんかに興味ないんだよ、だから黙ってろ……と言い返したかった。だが、それを言っても得なことはない。仕方なく、フォローの言葉をかけてやる。
「なに言ってんだよ。俺も村本も七尾も、けっこう大変なんだぜ。それにさ、お前だって、この歳で結婚して家庭持ってんだろ。今の時代、俺らの年代でそこをクリア出来てれば勝ち組ラインだよ。それは、誇っていいと思うぜ」
前半の部分だけは本音だった。この地位に上り詰めるまで、大変な思いをしてきた。これだけは断言できるが、この五人の中で一番苦労したのは自分だ。表の世界の人間だけでなく、裏の世界の連中とも上手く付き合い、神経を擦り減らすような思いをして仕事をしてきた。結果、成功を手にしたのだ。お前みたいなお気楽主婦に、この苦労がわかってたまるか……という思いはある。
だが、続いて木下の口から出た言葉は想定外のものだった。
「それがさ、近々別れることになりそうだよ。うちの旦那ったら、若い女と浮気してんだよ。色気づいて香水つけたり、小洒落たパンツ履いたり、スポーツジムに通って筋トレしちゃったりしててさ。情けないったら、ありゃしないよ」
吐き捨てるような口調だった。藤川はギクリとなり、手を止めて顔をあげる。
「おい、それ本当なのか?」
思わず聞き返していた。藤川など、客観的に見れば浮気などというレベルではない。
もちろん、妻と子供のことは愛している。だが、それと女たちとは話が別だ。はっきり言うなら、藤川は自分のしていたことを浮気とは思っていない。ほんの気晴らしだ。自分の仕事には、大きなプレッシャーが付き物である。常人には、想像もつかないレベルのものだ。そのプレッシャーに耐えるためには、あれが必要だった──
いや、それだけではない。当時は、やることなすこと上手くいっていた。女も、自分から求めたのではない。女の方から求めてきたのだ。
そう、しょせん遊びである。アプリゲームと、大して変わりない。現に、恋愛ゲームなるものもある。浮気と定義されるようなものではないはずだ。
「そうだよ。化粧が濃くて、嘘つくのが得意で、体のあちこちいじってて、男に媚びるのが得意なバカ女とちょくちょく会ってるみたい。本人はバレてないつもりなんだけどね。本当、みっともない話だよ」
藤川の気持ちをよそに、木下は一方的に喋り続けていた。その言葉のひとつひとつが、彼の心をチクチク突き刺してくる。
もし、バレてないと思っているのが自分だけだったら……不意に、そんな考えが頭を掠めた。
「で、でも、それはたぶん一時の気の迷いだよ。男なんか、本当にバカな生き物だからさ。たった一度の過ちで別れるのは、ちょっと性急すぎないか? 旦那にも、やり直すチャンスをあげてもいいんじゃないかと思うぜ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。もちろん、木下が旦那とどうなろうが知ったことではない。自分のしてきた行動に対する言い訳……そんな気分から発せられたものである。
しかし、木下は聞く耳を持たないようだった。憎しみを込めた声で語り続ける。
「一度やったら、もう信用できないよ。それにさ、やるならバレないようにやれっつーの。うちのは悪さ慣れしてないから、隠すの下手くそなんだよね。バレないようにやる、ってのが出来ないんだよ」
もはや、愚痴というレベルではない。木下は、夫と別れると固く決意してしまった。その声からは、本気の憎悪が感じられた。こうなると、どう足掻いても修復は不可能だろう。しかも、旦那はその事実に気づいていないらしい。
自分は、絶対にこんな風にはなりたくない──
「なあ、ふたりで同じ部屋を探すより、手分けして別々の部屋を探した方が合理的だろう。木下は、向こうの部屋を探してくれよ」
気がつくと、そんな言葉を口にしていた。
実のところ合理的だから……という理由ばかりでもなかった。同じ部屋にいたら、木下は延々と自分たち夫婦の別れる原因を喋り続けるだろう。この女は、藤川に聞いて欲しいのだ。
言うまでもなく、藤川は彼女の話を聞きたくなかった。他人の愚痴は、聞いていていい気分になるものではない。それに、自分にもこんな未来が待っていそうで怖かった。
離婚など、絶対に嫌だ。自分は妻を愛している。ただ、女たちとのことは別物だ──
「それもそうだね。じゃあ、気をつけて」
あっさりと承知した木下は、すぐに部屋を出ようとした。だが、足を止め振り返る。
「ところで藤川、あんた私のことを全然覚えてないみたいだね。まあ、予想通りだけどさ」
いきなりそんなことを言われ、藤川はドキリとなり言葉に詰まった。確かに、この女に関する記憶はほとんどない。派手目のグループに属する自分たちに媚びを売っているカッコ悪い奴……くらいにしか認識していない。正直に言うなら、どんな顔かもよく覚えていなかった。
しかし、それを正直に言うわけにはいかない。
「何を言ってんだよ。ちゃんと覚えてっから。さっきだって、会った瞬間にすぐわかったよ」
答えた時、プッと吹き出す音が聞こえた。笑ったらしい。
「何言ってんだか。まあ、いいや。なんか見つけたら呼ぶから」
そう言うと、木下は部屋を出て行った。
残された藤川の裡には、説明の出来ない何かが生まれていた。今の木下の言葉に、違和感を覚えたのだ。そもそも、木下はあんな喋り方をする人間だっただろうか。しかし、思い出せない。
まあ、いい。十年以上会っていなければ、人間は変わる。木下にも、いろいろあったのだろう。旦那と出会い、結婚し、浮気され……否応なしに、変わらざるを得なかったのだ。
それに、今は木下の変化に思いをはせている場合ではないのだ。他に、やらなければならないことがある。
藤川は懐中電灯をつけ、慎重に中を捜索していく。壁には、これまで侵入した者たちの落書きが書かれていた。念のため、そちらもチェックする。
箱らしきものは見つからない。どうやら、この部屋には何もないらしい。となると、残りふたつの内のひとつだ。
その時、壁に書かれている落書きのひとつに目が留まった。秋山薫、と書かれている。秋山は律儀に、部屋のひとつひとつに名前を書いていったらしい。なのに、あの日の自分たちは奴のことを忘れていた。
僅かではあるが、心の痛みを感じた。同時に、ある考えが浮かぶ。もし、木下が先にあの写真を見つけたら?
考えるまでもないだろう。確実にマズい事態になる。木下は、それをネタにゆすってくるかもしれない。あるいは、もっとタチの悪いことをするかもしれないのだ。
先ほどの話によれば、木下の夫は若い女と浮気中だという。それが許せず、離婚を決意した。ならば、同じく若い女と浮気を繰り返している自分に対し、どんな気持ちを抱くか……考えるまでもないだろう。しかも自分の場合、相手がひとりやふたりではないのだ。木下の嫌悪感は、さらに強いものになるはず。
下手すると、妻に密告しかねない──
藤川は、ぱっと立ち上がった。すぐに部屋を出て、廊下で声を出す。
「木下、ごめんな。さっきはああいったけど、やっぱり、ふたりで行動した方がいいと思うんだよ。ここ、何があるかわからないからさ。ちょっと出てこいよ」
軽い口調だった。中学生の時、友人に語りかけていた時と同じように、親しみを込めたつもりだ。とにかく、今は木下と仲良くしておかねばならないのだ。
しかし、出てくる気配がない。そもそも、人の気配が感じられないのだ。辺りはしんと静まりかえっており、何の音も聞こえない。
藤川は顔をしかめる。奴は何をしているのだ?
「おい木下、聞いてんのか? なあ、ひとりじゃ危ないかもしれないからさ、ふたりで一緒に行動しようぜ」
言いながら、隣の二号室に入っていく。
だが、木下の姿はなかった。懐中電灯で辺りを照らしてみたが、どこにも見当たらない。
「おーい木下、どこ行ったんだ? 返事しろ」
廊下に出て、もう一度声を出してみた。だが、返事はない。ひょっとしたら、どこかに用足しにでも行ったのかもしれない。
「だったら、一言くらい言ってけよ」
ブツブツ言いながら、藤川は二号室に入り中を見回した。こちらも、一号室と同じ有様だ。落書きだらけの壁に、得体の知れない残骸か散らばる床。とりあえず、箱らしきものは見当たらない。
とにかく、あれを木下に見られたらマズい。今の時代、スマホで一瞬にして拡散可能なのだ。もし、あれを拡散されたら……ここまで来たことが、全て無駄になる。木下とは、一緒に行動した方がいい。
そんなことを考えていた時だった。突然、異様な声が聞こえてきた──
藤川は、思わず立ち上がっていた。今のは何事だ? 悲鳴か?
一秒も経たないうちに、またしても声が聞こえてきた。悲鳴、そして罵声。悲鳴の方は女だ。罵声の方も女……だった気がする。
続いて、また別の声。今度は男のものだ。同時に、バタバタという音がする。足音のようだ。しかも、すぐ上から聞こえてくる──
藤川は、反射的にしゃがみこむ。懐中電灯を消し、ひたすら身を縮めた。今、とんでもないことが起きているのは間違いない。とにかく、今は様子見だ。
どのくらい経ったのだろうか。やがて、声が聞こえてきた。言い争うような感じのものだ。何が起こっているのだろう。藤川は、反射的に身を固くしていた。
続いて聞こえてきたのは、男の罵声だ。耳をすませたが、内容までは聴こえない。誰の声かもわからない。村本か、山口か。
あるいは、秋山の声かもしれない──
そのことに思い当たった時、藤川はぞっとなった。もしかすると、今になって秋山が姿を現したのかもしれない。そして、誰かを殺した──
しかも今、木下の姿は見えない。ひょっとしたら、殺されたのは木下かもしれない。
とにかく、ここにいては危険だ。身を隠すものがない。藤川は、そっと部屋を出る。音を立てないよう、慎重に歩いていった。
すると、またしても足音が聞こえてきた。しかも、こちらに向かっているらしい。階段を降りているらしい音が響き渡る。
考える前に、体が動いていた。藤川は、反対側の階段へと走る。壁に身を隠し、降りてくる者が誰なのかを見る。
やがて、一階に降りてきた者がいた。ようやく目が暗闇に慣れてきたとはいえ、顔は見えない。もっとも、体格はガッチリしている。誰であるかは一目瞭然だ。間違いなく村本であろう。藤川は、声を出そうとした。
だが、すぐに口を閉じる──
「おーい藤川、どこに行ったんだ? 出てこいよ。遊ぼうぜ」
男は、そう言った。間違いなく村本の声だ。しかし、様子が変だ。何かおかしい。
上で何があった? なぜひとりで降りてきた? 山口が一緒でない理由は? 様々な疑問が頭に浮かんでくる。
「藤川、出てこいよ。あとは、お前だけだぞ」
お前だけ? 何を言っているのだ……だが次の瞬間、その言葉の意味するところに思い当たる。
村本は、他の者を全員殺してしまったのではないか?
「さっさと出てこいよ。全く、てめえは昔からそうだった。喧嘩になるとビビって隠れたりバックレたりするくせに、いつのまにか俺たちのことを仕切ってやがったもんな。口ばっかりだったよ」
村本の口調は、どんどん変わってきていた。その声からは、憎しみが感じられる。
藤川は恐怖に突き動かされ、そっと階段を上がっていく。村本から、少しでも遠ざかりたかったのだ。あの男は、もはや狂っているとしか思えない。
そう、村本には守るべきものがあるはずだった。プロのキックボクサーであり、タレント活動もして名前を知られている。CMのイメージキャラクターまで務めているのだ。いくら秘密を知られたくないとはいえ、人殺しはあまりにもリスクが大きい。
だが、ある考えが閃く。村本の秘密というのが、人を殺してでも守らねばならないものだとしたら?
しかも、秋山は言っていたのだ。
(死体は、確実に処理します)
(死体が見つからなければ、それは行方不明として扱われます。警察も、いちいち人員を割いて捜索したりしません)
確かに、死体が見つからなければ……という部分は間違いではないのだろう。だが、秋山の言葉には穴がある。
奴が確実に死体を始末してくれる、という保証はないのだ。死体を放置して警察に通報すれば、村本は殺人犯として逮捕される。自分は、重要参考人として洗いざらい調べられる。結果、あの写真が世間に公表される──
それが秋山の狙いか?
思い当たった瞬間、藤川はぞっとなった。だとすれば、今の状況は全て秋山の計算通りだ。
「コラ藤川、逃げんなよ。お前だって、今までいい思いしてきたんだろうが。ここらで死んでもいいんじゃねえか」
村本の声が聞こえてきた。やはり、奴は狂っている。藤川は、必死で二階へと上がった。本能的に、少しでもあの男から遠ざかりたかったのだ。
二階に着いた途端、藤川は反対側の階段に走る。村本とは別の階段を使い、一階に降りなくてはならない。そうすれば、スマホで警察に連絡できる。
だが走り出した途端、何かにつまづき転ぶ。何かと思い懐中電灯で照らす。
そこには、誰かが倒れていた。思いきりぶつかったのに、反応がない。もしや、死んでいるのではないのか──
「う、うわあぁ!」
思わず叫んでいた。すると、下から声が聞こえてきた
「おい藤川、逃げんなよ。苦しまないよう、一発で殺してやるからよ」
直後、笑い声が聞こえてきた。続いて、階段を上がってくる足音。藤川は恐怖に駆られ、這うようにして進んでいく。一刻も早く、反対側の階段に行かねば──
その時、またしても何かにぶつかる。柔らかい何か。人体の感触だ。
全身の毛が逆立つ。村本は、ここでふたり殺したのだ。
藤川は、反射的に飛びのいていた。暗闇でよくわからないが、こちらは男だ。では、山口か。
もう逃げるしかない。秘密など、どうでもいい。村本は、完全に狂ってしまった。以前から、この男がバカなのは知っている。だが、人殺しまでするとは──
藤川は、這うようにしてその場を離れた。ようやく階段にたどり着き、すぐさま降りようとした。
だが、その動きは止まる。下の踊り場に、何者かが立っていた。小柄な体つきで目出し帽を被り、黒い服を着ている。一階に続く踊り場に立ち、こちらをじっと見上げている。
あれは村本ではない。では、誰か──
「う、うわあぁ!」
藤川は悲鳴を上げた。間違いない、秋山が姿を現したのだ。半ば本能的に、階段を上がっていく。少しでも遠ざかりたかったのだ。
それは、逃げ道から遠ざかる行動でもあった──
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