狂気

 藤川は、必死で階段を昇っていく。

 上の階に行けば、逃げ場はそれだけ少なくなるのだが……今の彼には、理性的な判断など出来ない。ただ村本、そして下にいる何者かから一刻も早く逃れたかったのだ。黒い目出し帽を被り、黒い服を着た男……あれは、村本よりも異様だ。少しでも距離を離したい、その一心で上の階に移動した。

 どうにか三階に着いた藤川は、必死の形相で辺りを見回した。身を隠せる場所を見つけなくてはならない。

 だが、その目に飛び込んできたのは、またしても死体だった。

 廊下に、誰かが倒れている。暗いため顔は見えないが、おそらく女だ。となると、七尾だろうか。

 しかも、床は液体でべっとり濡れている。これは、血ではないのか。つまり、死体から流れ出た血液──


「う、うわあぁ!」


 思わず悲鳴を上げる。予想はしていたが、本物の死体を間近で見るのは別物だ。七尾を殺したのも、村本ではないのか。あるいは、下にいた目出し帽の人物か。

 そうなると、残るは藤川と村本しかいない。ならば、藤川を殺せばゲームクリアとなる……村本はそう考えているはずだ。

 藤川は、恐怖のあまり体が硬直する。足がすくみ、動くことが出来ない。どうすればいいのた? どう考えても、素手での闘いでは勝ち目はない。何せ、村本の強さは尋常ではなかった。中学生の時は、誰も逆らうことが出来なかったのだ。数人をひとりで叩きのめし敗走させたこともあったと聞く。しかも、その後はプロの格闘家として毎日ハードなトレーニングを積んでいる。藤川とて、スポーツジムで体を鍛えてはいた。だが、やっていることのレベルが違う。勝てる可能性は、ほとんどないだろう。

 その時、下から声が聞こえてきた。


「藤川ぁ、いい加減に観念しろって。こっちはプロの格闘家だぜ。毎日五キロのランニングと五本の坂道ダッシュしてんだ。お前とは、鍛え方が違うんだよ。逃げられるわけねえだろ。だいたい、上に逃げてどうすんだよ。これじゃ、逃げられねえだろうが。お前、思ったよりバカなんだな」


 間違いなく村本の声だ。同時に、階段を上がってくる足音も聞こえる。しかし、藤川は動けなかった。逃げようと試みたが、足がガタガタ震え力が入らない。壁に背中をつけた状態で、どうにか立っていた。

 このまだと、確実に殺される。どうすればいい? 藤川は必死で考えた。今のあいつとは、話し合いは出来ない。聞く耳を持たないだろう。ならば……。

 その時になって、ようやく思い出したことがあった。用心のため、ポケットに入れていたものがある。ここに来てから、予想外の出来事が立て続けに起きたため、その存在すら忘れていた。

 これなら、プロの格闘家が相手でも効くはずだ。こいつがあれば勝てる。

 足音が近くなってきた。階段を上がってくる音が、さらに大きく響き渡る。やがて、村本が姿を現した。暗いため、顔は見えない。だが、輪郭だけでわかる。


「おお藤川、やっと観念したか。まあ、一思いに殺してやるから安心しろ」


 その声は、明らかに異常だった。先ほどとは、何かが違っている。

 村本は、精神的におかしくなっているようだ。何が彼を狂わせたのだろう。このゲームだけが原因ではない。他に理由があるのではないか。

 だが今は、そんなことを考えている場合ではない。奴がおかしくなっているのなら、戦うしかない。藤川は、ポケットに入っているものを取りだした。村本に向け構える。

 次の瞬間、ボタンを押す。これで、どうにかなる……はずだった。

 しかし、何も起きなかった──


 そんなバカな……確かに、もらった直後に部下に試したのだ。その部下は、両目を押さえ苦悶の呻き声をあげていた。あの時は大変だった。あとで、その部下を高級キャバクラに連れていき機嫌を直してもらったのだ。

 そう、これは催涙スプレーである。数年前に、知り合いからもらった。部下相手に試し撃ちした後は会社の机に入れたきりだったが、今夜は用心のため持ってきていたのだ。

 今も、部下に試した時と同じように、安全装置を外し噴射口を村本に向けボタンを押したのだ。しかし、肝心の催涙ガスが噴射されない。もう一度押したが、何も出なかった──

 藤川は知らなかった。催涙スプレーは三年以上経つと、ガスが抜け使えなくなることがあるのだ。常人の大半は知らないし、知らなくても生活に影響のない知識である。だが、この場では命取りだ。ガスの抜けた催涙スプレーは、弾丸のなくなったピストルと同じだ。

 もっとも、弾丸の切れたピストルは、その見た目で脅しには使える。弾丸が入っているように見せかければ、ハッタリにはなる。ところが、ガスが噴射されない催涙スプレーは何の役にも立たない。事実、村本は怯まず近づいて来る。

 

「はあ? 何だそりゃ? 何をやってんだバカ」


 言うと同時に、村本の左足が動く。あまりに早く、藤川は反応できなかった。

 左ミドルキックが、藤川の脇腹に炸裂する──


「うぐぅ!」


 悲鳴とも呻き声ともつかぬ声をあげ、藤川は崩れ落ちた。弾みで、催涙スプレーが手から離れ飛んでいく。

 藤川の人生において、これまで受けたことのない強烈な一撃だった。野球選手に、金属バットでフルスイングされたような衝撃である。肋骨も折れたようだ。藤川に耐えられるはずもない。


「おいおい、もう終わりか。ダッセー奴だな。中学ん時から、お前はそうだったよ。口ばっかりで、いざとなったら何も出来やしねえ。そのくせ、おいしいところは全部ひとり占めだ」


 せせら笑いながら、村本は彼を見下ろす。その目には、異様な光が宿っていた。興奮状態にあるためか、瞳孔が大きくなっている。

 激痛に耐えながら、藤川は顔を上げる。このまだと、確実に殺されるだろう。何とか説得しなくては──


「ちょっと待て。なあ、頼む。許してくれ。俺に出来ることなら、何でもするから」


 顔を上げ懇願する。しかし、村本は首を横に振った。


「はあ? 冗談じゃねえよ。お前を殺さなきゃ、俺の秘密をバラされるんだぜ。それに、もう三人死んでるんだよ。残るは、お前だけだ。ここで終わりにゃ出来ないだろ」


 言った後、クスクス笑出した。この状況で笑える神経は異常だ。完全にまともではない。やはり、この男は狂ってしまったのだ。三人殺したことにより、裡に秘めた何かが目覚めたのかもしれない。そう、この男は昔から残酷だった。人を殴ることに、喜びを感じているような部分があった。秋山のことも、執拗にいたぶっていた。

 そんなことを考えながら、藤川は喋り続ける。まだ死にたくない。頭を働かせ、次の手を見つけるのだ。


「待ってくれよ。なあ、考えてみろ。秋山が約束を守るって保証はないんだ。下手すりゃ、今ごろ警察に通報してるかもしれないんだぞ。そしたら、お前は終わりなんだよ。お前、捕まったら死刑だぞ」


 なおも説得を試みる。すると、笑い声が止んだ。もしかして、自分の言葉が効いているのか。

 ひょっとしたら、説得できるかもしれない。とにかく、今は喋り続けよう……藤川は、さらに語りかける。


「村本、頼むよ。よく考えてくれ。秋山は異常だ。こんなわけのわからないことを強制するような奴が、約束を守ると思うか? 仮に今は約束を守っても、この先はわからないんだぞ」


 その時、村本が口を開いた。


「だったら、俺はどうすればいいんだ? もう、人を殺しちまってるんだよ」


 冷めきった声だ。こちらの言葉に、心を動かされた気配はない。

 藤川は何も返せず、言葉につまる。確かにその通りだ。この男は、既に人殺しである。それも、三人を殺害しているのだ。捕まれば、死刑になる可能性が極めて高い。村本がいかにバカとはいえ、それくらいはわかっているだろう。

 その時、リュックに入っているものの存在を思い出した。これなら、何とかなるかもしれない。


「このリュックの中には、一千万円入ってる。さっきも見たろ。あれを全部やるよ。とりあえずは、これ持って逃げろ」


 言いながら、藤川はリュックを下ろした。中に入っている札束を見せながら、村本の前に置く。今は、これしかない。

 

「なあ、これだけあればしばらくは逃げられる。そうだ! 海外だよ! 海外に逃げればいい! 俺が何とかするよ! 物価の安い国なら、十年はもつぞ!」


 すると、村本は手のひらを前に突き出す。


「わかったわかった。ちょっと待てや。こっちにも喋らせろ。お前の言う通り、海外に逃げたとして……その後、俺はどうやって生きればいいんだ?」


「大丈夫だよ。俺が何とかする。俺には金があるし、コネもある。海外に逃げた後も、俺が援助するよ。親友のためなら、それくらいはお安い御用だ」


 藤川は喋り続けた。何とかして、こいつを説得しなければはらない。

 もちろん、村本を助ける気などない。ここを乗り切れれば、後は警察に売る。こんなバカのために、危ない橋を渡るなどごめんだ。しかし、そんな考えはおくびにも出さない。藤川は、さらに言葉を搾り出す。


「だがな、ここで俺を殺したら終わりだ。お前は逃げることも出来ず、警察に逮捕されるんだぞ。どっちが得かぐらい、わかるだろうが」


 村本は無言のまま、藤川の話を聞いている。藤川は立ち上がり、笑みを浮かべた。


「ここまでにしよう。秋山は、俺たち全員を恨んでいる。あいつは異常者だ。絶対に俺たちを許さない。ここでお前が俺を殺したら、秋山の思う壷なんだよ。こんな手の込んだことをするような奴が、素直に死体を始末し復讐を忘れると思うか? ありえないよ。もう一度言うぞ、秋山は狂ってるんだ」


 そこまで言った時だった。いきなり村本が動く。左の拳が、藤川めがけ放たれた。

 鋭い左ジャブが、まともに顔面に当たる。軽いパンチのはずだが、その威力は凄まじいものだった。藤川は、痛みのあまり膝を着く。顔面を両手で押さえた。

 直後、口の中に違和感を覚えた。何か硬いものが口の中にある。吐き出すと、それは血と折れた前歯だった──


「おいコラ藤川、この際だ。お前に、はっきり言っておくことがある」


 村本の声は冷たいものだった。顔を覆いうずくまる藤川に向かい、なおも語り続ける。


「俺はな、前からお前を殺したいと思ってたんだよ。調子こきやがって、何なんだてめえは、ベラベラとよお……お前、俺のことをバカだと思ってんだろ」


「違う。そんなこと思ってない」


 藤川が、どうにか言葉を返した。その途端、蹴りが飛んでくる。顔面を狙ったつま先蹴りだ。まともに当たったら、顔の骨が陥没していただろう。とっさに両腕で顔をガードしたが、それでも腕が折れそうな衝撃だ。


「嘘つくんじゃねえよ! お前は中学の時から、俺をバカにしてたろうが! 陰で、俺のことをバカだの何だの言ってたろうが! 知ってんだぞ!」


 何かに憑かれたかのような表情で、村本は喋り続けた。


「俺のことを、バカだと思ってナメてんだろ。お前は家に帰ったら、すぐに警察にチクるだろうが。村本が全部やりました、なんて言ってな。俺がわからねえとでも思ったのかよ」


「お、落ち着け! 俺は、絶対にお前のことは言わない! 約束する!」


 泣きそうな顔で懇願するが、村本は聞く耳もたない。冷たい口調で言い返す。


「お前の約束なんか、当てにならねえんだよ。お前は、平気で友達を売る男だ。俺にはわかっているんだよ。お前よりは、秋山の方がまだ信用できる」


 その言葉を聞き、藤川は悟った。もう無理だ。このままだと殺される。

 恐怖に駆られ、藤川は逃げようとした。四つん這いになり、その場から少しでも離れようとする。

 その無様な姿を見て、村本は笑っていた。


「本当にダセー奴だなあ……ナメてんじゃねえぞゴラァ!」


 直後、村本の蹴りが飛んだ。四つん這いになっていた藤川の尻に、まともにヒットする。


「オラオラ、どうした? 気合い入れて逃げてみろよ」


 言いながら、またしても蹴りを入れる。すると、藤川は向きを変えた。恥も外聞もなく土下座する。


「お願いです。何でもしますから、命だけは助けてください」


「ほう、何でもするのか。だったら、さっさと死ねや」


 そう言った時だった。突然、村本の背後に現れた者がいた。黒い目出し帽を被り、黒のトレーナーと黒のパンツ姿である。まるで忍者のような格好だ。先ほど、一階に通じる階段の踊り場で藤川を見上げていた者である。かなり小柄で、体型は細い。

 忍者のような格好の男は、村本の背中にぱっと飛びついた。その手には、キラキラ光る何かが握られていた。格闘家の村本も、とっさのことに何が起きたか把握できていない。

 次の瞬間、光る何かが村本の喉元に当てられた。一瞬で、横に動かされる──

 村本の喉はぱっくり開いた。直後、大量の血が吹き出る。暗闇の中でも、はっきりと見えた。

 ようやく、自身の体に何が起きたか悟ったらしい。村本は、必死でもがいた。背中にいる者を振り落とそうと暴れる。だが、忍者はその前に飛び降りていた。ぱっと後退し、村本と一定の間合いを保ちつつ刃物を構えている。

 だが、村本にそんな者を構う余裕などなかった。大量の血がごぼごぼ流れていき、それを止める手だてがない。叫ぼうと口を開けるが、声も出なかった。

 やがて、村本は両膝を着いた。目の前にいる藤川に、右手を伸ばす。助けてくれ、とでも言っているかのようだった。

 その瞬間、藤川の中に湧き上がってきたものがある。それは、怒りだった──


「この野郎! ふざけやがって!」


 喚くと同時に、近づいてくる村本を蹴飛ばした。

 為す術なく倒れた村本を見て、藤川はさらに猛り狂った。立ち上がると、かつての友人を蹴りまくる──


「てめえは、どこまでバカなんだよ! なんでこんなことした! お前のせいで、俺は終わるかもしれねえんだよ!」


 叫び、さらに蹴りつける。だが次の瞬間、全身に激痛が走った。立っていられなくなり、その場で仰向けに倒れる。

 今になって、村本に痛め付けられた部分か痛み出してきた。今までは、激発的な怒りによりアドレナリンが出ていたため、痛みを忘れていたのである。

 足が痛いし、脇腹も苦しい。力が入らず、立ち上がることが出来ない。藤川は、どうにか上体だけ起こした。顔も痛む。前歯がへし折れた上に唇も切れており、さっきから血が止まらない。

 鼻も折れたかもしれない。鼻血が止まらず、今も流れて来ている。

 右手で、垂れてくる鼻血を拭った。その時になって、まだ終わりでないことを思い出す。

 顔を上げると、先ほど村本を殺した忍者がいた。黒ずくめの異様な姿で、こちらを見下ろしている。


「お、お前、もしかして秋山なのか?」


 震える声で、藤川は尋ねる。すると、目出し帽を被った顔が揺れる。頷いたのだ。

 やはり、こいつは秋山だ……と思った瞬間、奴はこちらに近づいて来た。その手には、刃物が握られている。

 藤川は悟る。次は、自分の番だ──


「ま、待ってくれ。頼むよ、何でもするから許してくれ」


 言いながら、藤川は必死で後ずさろうとした。しかし、足に力が入らない。脇腹も痛み、上手く動けない──

 藤川は、とっさに向きを変えた。四つん這いで、何とか逃げようと試みる。

 その時、秋山が背中に覆いかぶさってきた。男にしては、肌の質感が妙に柔らかい……気がした。

 次の瞬間、細い腕が首に巻き付いてきた。藤川は必死でもがく。だが、外すことは出来ない。腕が容赦なく首を絞め上げる。気道と動脈を絞められ、意識が遠のいていく。もはや、抵抗すら出来ない。

 藤川の意識は、闇に沈んでいった──





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