十五年前に起きたこと

 秋山薫は転校生だった。

 新学期の始まる四月、藤川らの通っていた滝田中学校の三年A組へと転入してくる。両親が離婚したことにより、母親と共に滝田市へと引っ越してきたのだという。

 小柄な体つきで、気弱そうだが顔立ちは中性的で可愛らしい。性格もおとなしく控えめで、空気も読めるし他人に気遣いも出来る。

 そう、秋山はA組の生徒たちに不快な気持ちを起こさせるタイプではなかった。事実、最初のうちはクラス内でもうまくやっていたのだ。

 しかし、ある日を境に状況は一変する──




 きっかけは、藤川らのグループだった。放課後、校門前で彼らがたむろしていると、たまたま秋山が通りかかる。藤川らとは目を合わせようとせず、さっと通り過ぎようとした。

 その時、村本が動いた。ぱっと秋山の前に立ちはだかる。


「ねえ薫ちゃん、これから何すんの?」


 からかうような口調だ。秋山とは、それまで喋ったことすらない。にもかかわらず、馴れ馴れしい態度で話しかけていた。


「えっ、何?」


 戸惑う秋山に、村本はなおも尋ねる。


「これから何すんの? 何か予定あんの?」


「あの、これから帰るところ……だけど」


 秋山の方は、目が泳いでいた。これまで全く接点のなかった同級生が、いきなり話しかけて来られたのだ。口ごもりながらも、どうにか答えるのがやっとだった。転校してきたばかりとはいえ、目の前にいる生徒がどんな人種かはわかる。出来ることなら、かかわりたくないタイプだ。かといって、無視するのもマズい。どうにか上手くやり過ごし、この場を早く離れたかった。

 しかし、次に村本の口から放たれた言葉は、秋山をさらに戸惑わせるものだった。


「ねえ、何も予定がないんだったら、俺らと遊ばね?」


 秋山は完全に混乱していた。何を言っているんだ…などと思いつつ言葉を返す。


「いや、あの、僕は早く帰らなきゃならないから……」


 その言葉に、藤川らがくすくす笑った。

 秋山はというと、明らかに困っていた。本音を言うなら、こんな奴らとは遊びたくない。だが、それを口にしたら確実に怒らせることになる。結果、どうにか今の返事を搾り出したのだ。

 ところが、それでは終わらない。


「なんで帰らなきゃなんないの? 何か、用事でもあるの?」


 村本は、その回答では満足してくれなかった。さらに聞いてくる。周りにいる藤川たちも、ニヤニヤしながら両者のやり取りを見ていた。七尾や山口は、獲物をいたぶる肉食獣のごとき表情になっている。


「それは、その……あの……」


 答えに窮する秋山に、村本は追撃してくる。


「ひょっとして、俺らのこと嫌いなの? 俺らとは遊びたくないっての? ねえ、正直に言いなよ」


「ち、違うよ。そんなことない」


 そう言うしかなかった。はっきり言うなら、遊びたくはない。しかし、正直に己の気持ちを言えば、何をされるかわからないのだ。

 しかも、村本はさらに追及してくる。


「じゃあさあ、なんで俺らと遊んでくんないのかな?」


「あの、ママが、いや母さんが……」


 思わず出てしまった、恥ずかしい単語。そう、秋山は中学生三年生だが、家では母親をママと呼んでいたのだ。もっとも、同級生の前でそんなことを言ったことはない。

 すぐに言い直したが、遅かった。その場にいる全員に聞かれてしまったのだ。


「ねえ聞いた? 今こいつ、ママって言ったよ!」


 まず七尾が笑った。次いで、藤川が煽った。


「なんだお前、家でママって言ってんのかよ!」


「ママぁ、ママぁ、僕、おっぱい飲みたい」


 山口が冷やかし、皆がゲラゲラ笑う。

 すると、秋山の顔がみるみるうちに赤くなっていく。ムッとした表情で、足早に歩き出した。

 だが、村本が追いかける。すぐに追いつき、声をかけた。


「おい、ちょっと待てよ。なあ、そんなに怒るなよ。冗談だろうが」


 しかし、秋山は無視して歩き続ける。思春期の少年にとって、笑い者にされるのはたまらない屈辱である。もう、こいつらとは口をきかない……そう心に決めたのだ。

 秋山は知らなかった。この手の手合いは、自分より下と判断した者の無礼な態度を極端に嫌う。俺はどんなに無礼な態度をとってもいい。だが、お前が俺に無礼な態度をとるのは許さん……という論理である。

 自分よりも、明らかに弱い少年の反抗的な態度に、村本の表情が変わった。秋山の肩を掴み、力ずくで止める。


「待てって言ってんだろうが! 無視すんじゃねえ!」


 怒鳴ったが、秋山はぷいと横を向く。お前とは話したくない、とでも言わんばかりだ。

 その態度が、村本を完全に怒らせてしまった。


「お前、俺のことナメてんな」


 低い声で凄んだ。直後、腹に拳を叩き込む──

 一撃で、秋山は崩れ落ちた。口からは、呻き声が漏れる。端正な顔を歪め、腹を押さえていた。

 そんな秋山を見て、村本はさらに凶暴な顔つきになる。小柄な少年を、力ずくで立ち上がらせた。


「ナメてんな、おい! コラ! なんとか言えやぁ!」


 吠えると同時に、なおも腹へ拳を打ち込む。がはっという声と共に、秋山はまた崩れ落ちた。

 この村本、滝田中学でもっとも腕力が強い。特に鍛えているわけでもないのに、体育会系の部に所属する者たちと腕相撲をして勝ってしまうのだ。まさに天性の才能であろう。もっとも、その天が授けた腕力は、もっぱら喧嘩にのみ活かされている。

 そんな男のパンチを、まともに腹にくらったのだ。五十キロあるかないかという華奢な体の少年には、耐えられるはずもなかった。しかも秋山は、もともと殴り合いなどしたこともないタイプだ。初めての拳の痛みに、地獄の苦しみを味わっていた。

 しかし、村本は容赦しない。首根っこを掴み、力ずくで無理やり立たせたのだ。

 直後、さらに腹を殴る──


「調子こいてんじゃねえぞコラ!」


 怒鳴った時、藤川が村本の肩を叩いた。


「村本、そこまでにしとこうよ。そいつ死んじまうぜ」


 言った時だった。突然、秋山の口から何かが大量にこぼれ落ちる。見ている者たちは、思わず顔をしかめた。そう、殴られた衝撃で胃の内容物を戻してしまったのだ。

 直後、嫌な匂いが周囲に漂う。


「うわ、こいつゲロ吐きやがった。きったねえの」


 七尾が、嫌悪感もあらわに声を出す。村本はというと、秋山の首根っこを掴み睨みつけた。


「おい、無視してすみませんでしたって謝れ」


 そう言ったが、秋山は無言のままだ。腹を殴られたダメージがひどく、声も出せないのだ。無視したわけではなかった。

 しかし、その態度が村本をさらに怒らせることとなった。


「謝れって言ってんだろうが! 聞いてんのかゴラァ!」


 怒鳴った直後、秋山の顔を地面の汚物に押し付ける。

 己の吐いた汚物にまみれた顔で、秋山はようやく口を開いた。


「もうやめて……許して……」


「だったら謝れや!」


 あまりにも理不尽な要求である。だが、秋山に抵抗することなど出来ない。


「すみませんでした……もう、許してください」




 以来、秋山は藤川らのグループへと入る。本人が望んでいたわけではなく、ほとんど強制だった。

 しかも、グループ内での秋山の扱いはひどいものだった。藤川らのオモチャとしかいいようのないものである。

 最初のうちは、ジュースやパンを買いに行かせる……などといった他愛ないものだった。しかし、この年頃の少年少女は、ほどほどという言葉を知らない。やることは、次第にエスカレートしていく。

 特にひどかったのは村本だ。何かにつけ秋山を呼び、くだらないことをさせた。トレーニングと称して学校の階段を一階から屋上まで走らせたり、バンジーと称して足にロープを結び三階の窓から吊したりしたのだ。

 要求に逆らえば、腹や肩などを殴る。時には、何もしていないのに殴ることもあった。殴られ、泣きながら許しを乞う姿を見て、村本はニヤニヤ笑っていたのである。その姿に、周囲の者は異様な何かを感じ取っていた。だからといって、止められるわけがない。

 教師もまた、見て見ぬ振りだった。藤川たちは、筋金入りの問題児である。下手にかかわりあってクラス全体をめちゃくちゃにされるよりは、被害者を秋山ひとりに留める方がいい……それが、担任教師のやり方であった。

 しばらくすると、秋山は学校に来なくなった。半年以上も不登校のまま、卒業式を迎える。




 卒業式の後、藤川らは帰り道を歩いていた。式が終わった後も長時間喋っていたせいで、昼過ぎになっていたのだ。

 この頃になると、藤川たちは秋山の存在すら忘れかけていた。だが、村本はそうではなかったらしい。


「おい、これ秋山の卒業証書だぜ」


 言いながら、村本は紙製の筒を振ってみせる。担任の教師から、半ば強引に預かってきたのだ。

 この男は、グループの中でただひとり進路が未定なのである。受けた高校すべて落ちていた。かといって、就職先も決まっていない。その事実が、彼を苛立たせていたのだ。


「それ、どうすんだ?」


 藤川が聞くと、村本はニヤニヤ笑った。


「薫ちゃんにもよ、お別れを言ってやらねえとな。俺たちに一言の挨拶もなく、逃げられると思ってんのが許せねえ。最後に一発、きっついのカマしてやらねえとな」


「そうか。まあ、薫ちゃんには世話になったからな」


 藤川の言葉に、皆が頷く。まあ、最後に軽くいじめてやるか……そんな気分だった。




 秋山の家は団地のようだった。筑ウン十年という雰囲気の建物である。自宅の住所は知っていたが、来るのは初めてだった。

 入口でドアホンを鳴らすと、扉が開く。顔を出したのは女だった。秋山の母親らしい。藤川は、真面目くさった顔で頭を下げる。


「すみません。僕たち、薫くんの同級生です。あの、薫くんに卒業証書を持ってきたんですよ。あと、元気でいるかなって……心配してたんですよ」


 そういうと、母親がすまなそうな顔で口を開く。


「それが、学校には行きたくないって……理由も言ってくれないのよ」


「そうですか。実は、薫くんイジメに遭ってたんですよ」


 藤川がそう言うと、母親は表情を歪める。予想していたらしい。


「やっぱり……」


「ええ。だから、僕たちがそいつらに言い聞かせてやったんですよ。もうイジメはするなって。ほら、卒業証書も持ってきたんですよ」


 すました顔で、真っ赤な嘘をつく藤川。しかし、母親は信用したらしい。今にも泣き出しそうな顔で、頭を下げた。


「ありがとう……さあ、入って」


 母親は、息子を不登校にした元凶である藤川らを、嬉しそうに家に招き入れる。奥にある閉められた襖戸ふすまと に向かい声をかけた。


「ねえ薫、友達が来てくれたよ」


 すると、襖戸が開いた。怪訝な顔の秋山が顔を出す。

 そこにいたのは藤川たちだった。秋山の表情が、一瞬で強張る。

 直後、声をあげようとした。こいつらのせいで学校に行けなくなったのだ、と。だが、言葉が出てこなかった。彼らに植え付けられた恐怖のためだ。


「薫ちゃん、久しぶりだな。いろいろお話しようぜ」


 そんなことを言いながら、ずかずか部屋に入っていったのは村本だ。藤川らも続いて入っていき、そっと襖戸を閉める。


「おいコラ、ママには何も言ってねえようだな。まあ、下手なこと言ったら、いろいろヤバいことになるからな。正解だよ」


 村本が秋山の肩に腕を回して囁く。秋山は、泣きそうな顔で答えた。


「お願いだから、もう許して」


 すると、見ていた藤川が口を開いた。


「そうか。そんなに俺たちとお別れしたいのか。だったらよ、ひとつゲームしようぜ」


「な、なに?」


「なあに、ちょっとした罰ゲームだ。昔、俺たちの先輩たちがやってたらしいぜ。そいつをお前がやれたら、俺たちは二度とお前とはかかわらない。やってみるか?」


 藤川はニヤリと笑った。秋山に、選択の余地などあるはずがない。


「わ、わかった……」




 こうして六人は、かつて閉鎖病棟だった廃墟へとやって来た。藤川たち五人はたびたび廃墟に出入りしていたが、秋山は初めてである。不安そうに、辺りを見回していた。

 すると、藤川が口を開く。


「この建物にある部屋を、ひとつひとつチェックする。で、部屋の壁に名前を書き込む。全部の階を回り、最後に屋上に行けば終わりだ。簡単だろ?」


「う、うん」


 震えながら頷く秋山を見て、藤川は考えた。それだけでは面白くない。それに、この少年は途中で逃げるかもしれないのだ。

 逃げないようにするには? と考えた時、ひとつのアイデアを思いつく。


「ただな、お前は途中で逃げるかもしれない。そこでだ、逃げられないよう服は全部脱いでもらうぜ」


 藤川が言った途端、七尾がゲラゲラ笑った。山口も、奇声をあげ囃し立てる。木下は顔を歪めるが、何も言わなかった。村本も無言だったが、異様な目つきで秋山を見つめている……。


「そんなあぁ! 嫌だよ! 許してえ!」


 当然ながら、秋山は拒絶したが……その途端、村本が進み出てくる。


「嫌だって言うのか? だったら、俺のパンチを百発受けるってゲームもあるぞ。どっちにするんだ?」


 低い声で凄みながら、顔を近づけてくる。秋山は、一瞬で怯えた表情になった。今まで、村本にはさんざん殴られている。パンチを腹に受け、何度吐いたかわからないのだ。

 もはや、逆らうことなど出来なかった。


「わかった。やるから……」


 そう言うと、秋山は服を脱ぎ始める。周りでは、七尾と山口が笑いながら、奇声をあげ囃し立てる。藤川はクスクス笑い、木下は目を逸らした。村本はというと、無言のまま獣のごとき目つきで秋山の体を凝視している、

 やがて裸になった秋山に、藤川はペンを渡す。


「ほら薫ちゃん、部屋をひとつひとつ回り、このペンで壁に名前を書くんだ。さっさと行ってきな」


 言われた秋山は、今にも泣き出しそうな顔で廊下を進んでいく。暗い建物の中、部屋をひとつひとつ回り、壁に自分の名前を書き込んでいった。時間はかかったが、どうにか全ての部屋を回る。

 すると、最上階で待っていたのは藤川だ。屋上に通じる扉を開ける。


「よく出来ました。じゃあ、後できっちりチェックするからね。最後に、屋上を一周すれば終わりだよ」


 秋山は、言われた通り屋上に出た。直後、藤川がドアを閉めた。

 ここのドアは壊れていた。屋上側は、ドアノブが取れているのだ。したがって、一度どあを閉めると、屋上側から開けることは出来ない。鍵がかかったのと同じ状態になるのだ。

 秋山は今、まさにそんな状況にあった。必死でドアを開けようとするが、開く気配がない──


「開けて! やめてよう!」


 半狂乱になり、ドアを叩く。ガラス越しに見える姿を見て、皆が笑った。


「あいつ、泣いてんじゃないの」


 七尾が言うと、藤川は真面目くさった顔で口を開く。


「この辛い体験を経て、あいつも一皮剥けて一回り大きな男になるだろ。アソコはちっちゃくて剥けてなかったけどな。さて、帰ろうぜ」


「えっ、このまま帰るの?」


 思わず声を上げた木下に、藤川はうんと頷いた。


「うちに新しくアレが入ったんだ。みんなでやろうぜ。なに、秋山は後でちゃんと助けるよ」


「おお、アレ入ったのか。さすが藤川」


 山口が飛び上がった。アレとは大麻である。彼らは、中学生にして大麻を吸っていたのだ。秋山のことなど見向きもせず、藤川たちは溜まり場に行く。

 そこで、大麻の回し吸いをした──



 藤川が目を覚ますと、いつのまにか翌日の夕方になっていた。七尾と村本と木下の姿はなく、隣で山口が眠りこけている。

 目をこすりながら、どうにか立ち上がった。山口のことは無視し、よろよろしながら家に帰る。

 すると、母親からとんでもないことを言われる。


「あのね、秋山くんのお母さんから電話あったよ。薫くん、まだ帰ってないんだって。あんたと遊びに行ったきりだって言ってたけど……どうなの?」


 聞かれた藤川は、とっさに答える。


「えっ、秋山? あいつなら、昨日の夕方に帰ったよ」


「ああ、そうなの」


 その場はやり過ごしたが、すぐに廃墟へと向かう。

 屋上まで行ってみると、ドアは開いていた。念のため、屋上に出て一通り見回したが、秋山の姿はない。

 思わず舌打ちした。誰かが、ドアを開け秋山を出したらしい。だったら、わざわざ来る必要などなかった。

 そういえば、あいつの服はどうしたろうか。廃墟の中に投げ捨てた記憶はあるが、どこかは覚えていない。

 まあいい。来てみれば、ドアが開いており秋山の姿がない。つまり、秋山は無事に帰ったということだ。そう解釈しておこう。藤川は、すぐに家に帰った。





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