村本修司の鬱屈
身長百七十五センチ、体重八十キロ。
その体には余分な肉がほとんど付いておらず、筋肉の隆起がはっきりと見える。首から肩、そして腕に連なる筋肉のラインは芸術的ですらあった。胸板は分厚く、背中は広い。腰周りは細いが、尻から脚にかけてズンと太くなっている。こちらも、ただ太いのではなく、太ももからふくらはぎにかけて美しいラインを描いていた。見事な体だ。その肉体を評し「闘うギリシャ彫刻」などと呼んだ者までいた。
彼の名は
筋肉質の肉体に加え、ワイルドな風貌で女性人気は高い。さらに、かつて不良少年だったことも人気に拍車をかけていた。
しかし、彼には別の顔がある──
村本は、目を開けた。
日は高く昇っている。時計を見れば、午後一時を少し過ぎていた。少々、寝過ごしてしまったらしい。
横で寝ていたはずの者は、既に起きていた。立ち上がり、こちらに背を向け衣服を身につけている。
と、不意にこちらを向いた。
「あ、ごめん。もしかして、起こしちゃった?」
その言葉に、村本はくすりと笑う。
「うーん、どちらかと言えば起こして欲しかったな。もう行くのか?」
聞き返す村本に、相手ははにかんだような表情を見せた。
「うん、そろそろ帰らなくちゃ。親から連絡くるかもしれないし、明日は学校だし」
言った後、にっこり微笑む。その笑顔は、本当に可愛い。一見すると女性のようにも見えるが、実は男性である。
彼の名は
今も、その華奢な体に衣服を身につけている。村本は立ち上がり、そっと近づいていった。
「なあ、まだ行かなくてもいいだろ。今夜も泊まっていけよ。たっぷり可愛がってやるぜ」
冗談めいた口調で言いながら、少年の尻を撫で回した。すると、その手をぱちんと叩かれる。
「だめだめ。明日は学校に行かなきゃならないしさ、親にも心配させたくないから」
そう言った直後、急に真顔になる。
「高校卒業したらさ、就職してひとり暮らしするよ。そしたら、毎日ここに来るからね。浮気なんかさせないよ」
その言葉に、村本は微かな不安を覚えた。自分の心配ではない。相手の心配だ。
「なあ、進学はしないのか? お前、俺と違って成績いいんだろ?」
「しなくていいよ、そんなの。それより、早くひとり暮らししたいんだ。でないと、ここに来られないからね。いっそ、ここに住んじゃおっかな」
冗談めいた口調で言いながら、川井は手早く身支度を整えた。玄関で靴を履くと、名残惜しそうな表情でこちらを振り返る。
「じゃあ、トレーニング頑張ってね」
そう言うと、ドアを開け去って行く。ひとり残された村本は、何ともいえない気分に浸りつつ台所へ向かった。
野生味あふれる顔立ちと、筋肉質の体つき。かつて不良少年だった経歴。村本のファイトスタイルはアクレッシブそのものであり、強烈なパンチで常にノックアウト勝利を狙う。KO率も高い。リングの上で相手を叩きのめした後は、マイク片手に派手なパフォーマンスをする。結果、マスコミから「暴虐のカリスマ」などと呼ばれるようにもなった。女性からの人気も高い。
ところが村本には、浮いた話題が一切なかった。実際、様々な場で多くの女性から声をかけられたりしてきたが、全てをはねつけてきた。
かつてバラエティー番組に出た時には、MCを務めるお笑い芸人に好みのタイプを聞かれた。その時「好みのタイプ? 知りませんね。だいたいね、俺はデートする暇あったらトレーニングします。いちいちデートだのプレゼントだの何だのして御機嫌を取らなきゃならないような女は、こっちからお断りですね」と、ふてぶてしい表情で言ってのけたのだ。その姿が、マスコミには傲慢なものとして映ったらしい。暴虐のカリスマなる異名を、さらに高めることとなる。
しかし、事実は違う。単に、女より男が好きだった……それだけのことだ。
川井と知り合ったのは、一年前のことだった。夜の路地裏にて、不良少年たちに絡まれていた彼を助ける。もちろん暴力は用いない。穏やかな表情で割って入ると、不良たちはおとなしく引き上げていった。あの有名なSYUJIに言われたなら、仕方ないから引いてやるか……そういう理論である。
普通なら、それで終わりだったろう。しかし、少年の顔を見た瞬間、村本は虜となってしまった。自分とは真逆のタイプ。どこかの漫画に登場するような美少年が、リアルの世界に現れた……そんな錯覚に襲われる。
川井の方も、会ったばかりの村本に同じ思いを抱いた。いや、むしろ川井の方が積極的であっただろう。お礼をさせてください、としつこく連絡先を聞いてきたし、その後も愛くるしい顔と小悪魔的な態度でぐいぐいと接近してくる。こんな少年は初めてだ。村本は為す術なく屈した。
やがて、相手が未成年であることを知ったが……その時には、もう離れられなくなっていた。今の村本にとって、川井なしの生活など考えられない。
ひとりになった村本は、とりあえずテレビをつけてみる。すると、CMが流れてきた。ダイエット用のサウナスーツを着た若き格闘家・
思わず表情を歪める。村本は、格闘技ファンにはかなり知られている存在ではある。だが、一般人相手には知名度が今ひとつだ。しかも、下の世代も台頭してきている。特に、画面に映し出されている那須山は、今や日本格闘技界の顔となっていた。年齢も若く、二十歳を過ぎたばかりである。デビュー以来、負けなしだ。全勝街道をひた走り、百年にひとりの天才と称されている。
村本はというと、もうじき三十歳になる。まだまだやれるという意識はあるが、那須山に比べれば注目度は低い。しかも、ここ二試合は星を落としている。どちらも、強豪外国人を相手にしての微妙な判定負けだったが……記録上は敗北である事実に変わりはない。
格闘技ファンの間でも、村本の評価は落ちて来ている。中には「SYUJIは終わった」「もう引退しろ」などと言う者までいる始末だ。
しかし、本人に終わったつもりはない。引退する気もない。これから、もう一花も二花も咲かせるつもりである。
その時、スマホが震える。着信を知らせてきたのだ。何かと思えば、ネットニュースらしい。
スマホの画面を見た瞬間、さらに不快な気分になる。
(新進気鋭の作家・朝倉風太郎と若きイケメン社長・藤川亮が対談。いずれ若き才能のコラボを約束)
「クソが……あの野郎、マジ殺してえ。調子こいてんじゃねえぞクソが」
物騒なことを言いながら、村本は舌打ちした。スマホを放り投げたい衝動に駆られる。
藤川亮はかつての同級生であり、つるんで悪さをした仲でもある。喧嘩は村本の方が遥かに強い。事実、最初のうちは村本の方が立場は上だった。初めて会った時、藤川が怯えた目で自分を見ながら慎重な態度で接してきていたのを、今もはっきり覚えていた。
ところが、その力関係は徐々に変化していった。頭に関しては、藤川の方が遥かにキレる。上級生からのウケもいい。地元の不良連中とも、上手くやれている。最後には、立場が完全に逆転し、藤川が仲間内でのリーダー格となっていたのだ。そんな二人の関係に、苦々しい思いを抱いていた記憶がある。
そして今も、似たようなことになっていた。村本がマスコミに取り上げられるようになったのは、六年ほど前の話だ。一方、当時の藤川はというと起業したばかりである。誰からも知られていない存在だった。村本の御機嫌を取り、ウチのアプリを宣伝してくれよ……などとヘラヘラ笑いながら言ってきた藤川の姿を、今もはっきり覚えている。
ところが、現在では完全に逆転していた。藤川の会社から出たゲームアプリが大ヒットし、瞬く間に巨額の金を稼ぎ出した。現在の知名度は、向こうの方が遥かに上だ。本業の片手間にやっているタレント活動も、自分より上手くやっている。地上波のテレビ番組にも数多く出演しているし、老若男女に知られている存在である。
その事実が、不愉快で仕方なかった。中学生の時と、全く同じ逆転現象が起きている。しかも、最近の藤川は村本を完全に無視していた。連絡しても、返信が来ることはない。最後に話した時など、CMに出てやろうか? と言ったところ鼻で笑われたのだ。村本の方は冗談のつもりだったが、藤川の目は氷のように冷たい。お前の出る幕はない、とはっきり言っていたのと同じだった。
「冗談じゃねえぞ。俺は、てめえなんかに負けねえぞ。今にまくってやるよ」
ひとり毒づいた。思い出すだけで腹が立ってくる。出来ることなら、今から乗り込んでいき藤川を叩きのめしてやりたい。
もっとも、そんなことをすれば今までのキャリア全てを棒に振ることになる。不快な気分を押さえ、遅すぎる朝食をとった。
食べ終えて一時間ほどした後、村本は家を出る。これから、ジムでトレーニングだ。
ジムに入ると、先に来ていた練習生の若者が挨拶する。村本は挨拶を返し、更衣室で着替えてトレーニングを開始した。
まず、ウォームアップの縄跳びだ。終わると、シャドートレーニングを始める。敵を想定しての攻防の練習だ。同時に、己の動きのチェックも兼ねている。
さらにキックミットへの蹴りこみ、パンチミットへのミット打ちと続く。パートナーの指示する通りに、キックとパンチをミットに打ち込んでいく。常人なら三分で酸欠状態になり倒れるかもしれないミット打ちを、村本は五ラウンドもこなす。五ラウンド、つまりは十五分だ。インターバルを挟んでいるとはいえ、きついメニューである。
それらが終わると、呼吸を整え水分を補給し、サンドバッグへの打ちこみをする。備え付けのサンドバッグに、凄まじい勢いでパンチとキックを叩き込むのだ。筋肉の塊のような体から繰り出される打撃は、百キロ近いサンドバッグを容赦なく揺らしていく。パンチを食らわせばバウンドし、キックを叩きこめば
彼の周囲の床には、水溜まりが出来ていた。とはいっても、水を被ったわけでも失禁したわけでもない。村本の体から滴り落ちる汗により、水溜まりが出来てしまったのだ。代謝のいい体のため、汗の量も常人より多い。
そんなことには構わず、村本は一心不乱に一日のメニューを消化していく。己の裡にうごめく暗い気持ちを汗と共に流し出すかのような勢いで、トレーニングに打ち込んだ。
「村本、調子はどうだ?」
サンドバッグでのトレーニングを終え、モップで床の汗を拭いている時だった。ジムの会長が話しかけてきたのだ。
「絶好調ですよ。今すぐにでも、試合できる状態です。前回のリベンジマッチでもいいっスよ」
笑顔で答える村本を、会長はじっと見つめる。五十過ぎだが、鋭い目つきは現役時代そのままだ。この男と村本との付き合いは、十年を超える。ジムに入会してきた村本の才能を一目で見抜き、プロにならないか……と誘ったのだ。
そんな会長は、少しの間を置き口を開いた。
「俺の目には、そうは見えねえんだよな。最近のお前は、何かおかしいぞ」
「えっ? どこがですか?」
聞き返したものの、何となく察しはついている。
「昔と比べると、気合いが感じられねえっつーか、丸くなった気がするんだよな。お前、女でも出来たのか?」
「いませんよ、そんなの。いい女がいたら、紹介して欲しいっス」
笑ってごまかしたが、丸くなった理由はひとつしかない。川井だ。あの少年と付き合い出してから、村本は幸せを感じている。
今までは、ゲイである部分を誰にも言えず、ひた隠しにして生きてきた。中学生の時、喧嘩に明け暮れていたのも、それが一因だった。あの当時は、理由もなくイライラし、そのはけ口を喧嘩にぶつけていたのだ。しかも中学生の時、自身の性癖を嫌というほど知らされる出来事が起きる。ひとりの男子生徒を好きになり、その気持ちをどう伝えていいかわからず暴走してしまったのだ。以来、彼はますます荒れる。
キックボクシングを始めたのも、初めは自分の中のモヤモヤを解消するためだった。やがてプロのファイターとなったが、最初は裡に秘めた闇が彼を突き動かしていたのだ。
しかし、今は川井がいる。己を隠す必要がない。もし、川井のせいで弱くなっているのだとしたら? かつての飢えた野獣のごとき気持ちが、なくなっているのだとしたら?
違う。そんなことはないはずだ。自分に言い聞かせ、村本はトレーニングを再開した。
トレーニングを終えると、サプリメントを水で流し込む。更衣室で着替え、真っすぐ家に帰る。
暴虐のカリスマなどと呼ばれ、豪快な雰囲気を漂わせている村本ではあるが、ことキックボクシングに関する限り緻密に考えている。昔のスター選手の中には、トレーニングの後に飲み歩いたりなどしていた者もいたらしい。だが、村本は用事がない限り真っすぐ自宅に帰る。トレーニング直後は免疫力が低下しており、風邪や伝染病の類いを移されやすいのだ。
トレーニングだけではない。村本は、食事や睡眠にも気を配っている。蛋白質や炭水化物の含有量には気を配り、インスタント食品はほぼ口にしない。睡眠は、最低でも七時間はとるようにしている。友人らと酒を飲み、夜通しバカ騒ぎするようなことはしない。
三十路に入ると、こういった自分で定めたルールを守れるか守れないかで、大きな差が出てくるのだ。
翌日の昼、買い物から帰った村本は、ポストの中をチェックしてみた。チラシや企業からの営業用ダイレクトメールに混じり、見慣れぬものが入っていた。分厚い茶封筒である。
何かと思い、手に取って見てみる。差出人の欄には、秋山薫と書かれていた。
「秋山薫?」
ひとり呟いた。どこかで聞いた名前だ。誰だっただろうか。
まあ、いい。開ければわかることだ。村本は、深く考えることなく開封してみた。
途端に愕然となる──
仲から出てきたのは、川井慎吾が部屋に出入りしている姿を隠し撮りしたものだった。中には、濃厚なラブシーンのごとき場面も写したものもある。誰が見ても、ただならぬ関係であることはわかるだろう。
村本の血の気が引いていく。これはマズい。最近でこそ、日本は多様性が叫ばれるようになってはいるが……ゲイに対する差別意識は根強く残っている。
しかも、川井はまだ十六歳だ。未成年の男子と、いかがわしい関係を持っている格闘家……これが公になれば、間違いなく終わりだ。下手をすれば、未成年との淫行により逮捕の可能性もある。
愕然となっていた村本に、さらなる追い討ちをかけたのが便箋である。そこには、ただ一行こう書かれていた。
お前は人殺しだ
「ひ、人殺し……どういうことだよ?」
思わず、便箋に向かい震える声で呟く。
確かに、十代の頃はケンカに明け暮れる日々だった。だが、人を殺したことはないはずだ。病院送り程度で終わらせてきた。
待てよ──
よくよく考えてみれば、その病院に送られた奴が、その後どうなったかはわかっていない。もしかすると、ケンカで負った傷が元で亡くなった人間がいるのかも知れない。
差出人は、その亡くなった人間の関係者なのだろうか……などと考えを巡らせていた時だった。
ようやく思い出した。秋山薫は、中学時代の同級生だ。自分や藤川らとツルんでいた男だが、当時はさんざんイジっていた覚えがある。パシリとしてジュースを買いにいかせたり、暇潰しに腹を殴ったり、その他にもいろいろやらかした記憶があった。
もっとも中学を卒業してからは会っていない。そもそも、連絡をとっていないのだ。
今になって、あいつが当時の復讐をしようとしているのか?
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