山口彰の混乱

 山口彰ヤマグチ アキラは、ひどくイラついていた。


「何をやっているんだよ、あのバカは……待ち合わせ時間、もう過ぎてんだぞ」


 低い声で毒づきながら、周囲を見回した。今のところ、待ち人らしき者の姿は見当たらない。

 山口は今、駅の近くにいる。待ち合わせの時間は午後四時のはずだったが、既に五分過ぎていた。ちょうど学生が学校から帰る時間帯であり、周囲にも中学生や高校生と思われる若者の姿が目に付く。もっとも、彼の待ち人が学生でないのは確かだ。

 イライラしながらも、冷静な表情を作り待ち続ける。ひょっとしたら、相手はどこかで自分の様子を窺っているのかもしれないからだ。

 さらに五分ほど過ぎた時だった。ひとりの男が近づいてくる。年齢は、二十代前半だろうか。山口よりは確実に若いだろう。細身で、この業界に似つかわしくない爽やかな風貌だ。予想よりも地味な身なりで、こちらを真っすぐ見ている。明らかに、何かを訴えている目つきだ。

 山口も見つめ返すと、目を横に動かし合図してきた。山口の見た目は、チンピラそのものである。長めの髪は金色に染まっており、目つきは鋭く頬はこけている。口を開ければ、前歯が一本欠けていた。体は大きくないが、Tシャツから覗く二の腕には小さなタトゥーが入っている。どう見ても、一般人が気軽に声をかけたくなるようなタイプではない。目線が合ったら、たいていの人は自分から目を逸らすだろう。

 そんな彼をじっと見つめ、合図らしきものを送ってくる……間違いない、この男だ。

 昨今は、この業界も大きく変わってきた。昔は、見るからに怪しげな人相の者もしくは外国人が来ることが多かったが……最近では、平凡な見た目の者が多いようだ。あるいは、不景気により働き口を失った一般人が闇サイトに流れ、このような仕事をしているのかもしれない。

 もっとも、そんな事情など山口にはどうでもいいことだ。男はすたすた歩いていき、ビルの中に入っていく。山口も、後に続いた。

 前を行く男は、マンション内の階段を上がっていった。と、踊り場で立ち止まりこちらを振り返る。ペこりと会釈し、ポケットから茶封筒を取り出した。

 山口も踊り場に立ち、ポケットからあるものを取り出す。それは、折り畳んだ紙幣だった。

 その紙幣を男に手渡す。代わりに、封筒を受けとった。

 すると、男はそっと囁いた。


「ありがとうございます。また、お願いしますね」


 そう言うと、男はさっさと階段を降りていく。すぐにマンションを出て行った。山口も、一瞬待ってマンションから出ていく。

 それからの行動は、実に早かった。脇目も振らず電車に乗る。真っすぐ自宅に帰ると、ホッと一息ついた。四畳半一間の、狭いアパートだ。トイレはあるが風呂はない。室内に家具はほとんどなく、かろうじて小さな冷蔵庫と扇風機それにストーブがあるくらいだ。

 そんな殺風景そのものの部屋で、山口は座り込んだ。先ほど受けとった封筒を手に取り、震える手で中に入っていたものを取り出す。

 出てきたのは、切手くらいの大きさのジップロックである。業界では、パケなどと呼ばれている代物だ。その中には、透き通った粉末が入っていた。氷砂糖を砕いたような形状だ。

 それを目にした瞬間、山口の表情が変わる。目つきは鋭くなり、鼓動は乱れた。口は半開きであり、今にもよだれが垂れそうだ。慌ただしい様子で部屋をあさり、革のケースを取り出す。大きさは筆箱くらい、古びておりチャックが付いている。

 震える手でチャックを開けると、そこには注射器が入っていた。当然ながら、普通の生活を送る一般人には無縁のものである。

 震える手で、己の腕の静脈に注射器の針を突き刺した──


 ・・・


 山口は薬物依存症である。

 覚醒剤との最初の出会いは、高校生の時だ。当時、付き合いのある先輩に呼び出されて自宅まで行った時のことである。

 

「なあ、ちょっとこれやってみねえか?」


 言いながら、彼が差し出してきたのはガラス製のパイプだった。先は丸くなっており、棒付きキャンディのような形である。だが、その丸い部分には氷砂糖のような粉末と、白い煙りのようなものが入っている。


「これはな、気化させた覚醒剤シャブだよ。この煙を吸い込むんだ。それだけでも、けっこう効くぜ。一番いいのは注射器ポンプだけどよ、お前にはまだ早いな。ほら、吸ってみろよ。人生変わるぜ」


 そう言うと、先輩は笑いながらパイプを指差す。

 もちろん、山口に抵抗がなかったわけではない。目の前にあるものが覚醒剤であることはわかっているし、法に触れることも知っている。手を出して、廃人になってしまった者の話も聞いている。ネットやテレビなどで、覚醒剤がもたらす害悪についての情報も得ている。昔、遊びで大麻を吸ったことはあったが、覚醒剤はさすがに怖い。

 にもかかわらず、山口は誘いを断れなかった。この男、自分が中途半端な存在であることをわかっている。ケンカの強さは、仲間内では中の中といったレベルだ。自慢できる武勇伝などほとんどなく、一般の生徒たちと会話する時には嘘八百を並べたていた。

 そう、山口には他人に自慢できることが「悪さ」しかない。他の一般生徒たちよりワルである、それだけが彼のアイデンティティーだ。

 そんなどうしようもない男が、覚醒剤の誘いを受けて断れるはずがなかった。ガラスのパイプを受け取り、気化した煙を思い切り吸い込む。

 最初は、何も感じなかった。頭がシャキーンとなるとか、目の前が急に明るくなるとか、そうした事象を想像していたのだ。しかし、何も起こらない。

 こんなもんか、としか思わなかった。やがて、先輩と対戦格闘ゲームを始める。ふたりとも、真剣な表情でゲームに興ずる。なぜか知らないが、恐ろしく楽しい。勝つのはもちろん、負けても面白い。

 気がつくと、外は明るくなっていた。時計を見れば、九時を過ぎている。実に、十二時間が経過していた。

 にもかかわらず、疲れはない。飲まず食わず一睡もせず、という状態にもかかわらず、何ら異常は感じられない。

 やがて、先輩はパイプの中に粉末を追加する。山口は、先ほどと同じく気化した煙を吸い込んだ。


 以来、山口は覚醒剤の虜となっていた。やがて注射器を使うようになり、彼の生活は覚醒剤を中心に周り出す。高校卒業後はどうにか就職したものの、覚醒剤を打った状態で職場に現れ、挙動不審な言動を繰り返したためクビになった。

 収入がなければ、覚醒剤を買うことは出来ない。それからの山口は、薬を買うため手段を選ばず何でもやるようになった。手っ取り早く現金を手にするため、万引きや空き巣、ひったくりといった犯罪に手を染める。

 当然、そんな生活が長続きするはずがない。ある日、山口は窃盗の容疑で逮捕される。もっとも、初犯ゆえ執行猶予で釈放された。

 執行猶予とはいえ、前科が付いたことに変わりはない。しかも、留置場と拘置所で不自由な生活を強制させられている。普通の人間なら、己の生き方を大いに反省し真面目に生きるだろう。

 ところが、山口は普通ではない。既に、重度の薬物依存となっていた。しばらくして、覚醒剤の所持と使用で、またしても逮捕される。今度は、刑務所にて服役することとなる。前回、執行猶予となった刑も含めて、四年近くを刑務所で過ごす羽目になる。

 しかも、彼が行ったのは少年刑務所だ。二十六歳未満の男子は、基本的に少年刑務所へと収監されることになっている。

 この少年刑務所という施設は、極めて特殊な場所であった。若く血の気の多い犯罪者たちを集めて、世間から隔離した施設で共同生活をさせるのだ。そこには、独自のルールが生まれる。上下関係に厳しく、陰湿ないじめは成人刑務所など比較にならない。受刑者同士の喧嘩も、成人刑務所より多かった。

 山口は、そんな地獄のような場所で四年近くを過ごした。受刑者同士の上下関係は激しく、新入りのうちは食べ物を取り上げられたり便所掃除を強制させられる。逆らえば、壮絶なリンチが待っていた。リンチといっても、肉体的なものだけではない。下手に怪我などさせようものなら、こちらも罰を受けることになるのだ。それよりも、精神的な部分を攻める……それが、少年刑務所のリンチだった。

 刑務官はといえば、見て見ぬ振りである。彼らとて、受刑者の間で何が行われているかは承知していた。だが、そんなものに自ら介入しようとはしない。しかも、年季の入った受刑者たちは、ほどほどのラインを心得ている。刑務所側が動くようなことになるようなことはしないのだ。刑務官としても、ある程度のことには目をつぶった方が管理はしやすい。結局のところ、何の問題もなく勤務時間を終えられればいいのである。

 山口は、貴重な二十代のうちの四年という時間を、少年刑務所という最低最悪の場所で過ごしたのである。

 もっとも、その体験は彼に何ももたらさなかったらしい。出所したその日のうちに、山口は再び覚醒剤を打つ。刑務所の中で、新たな売人と知り合っていたのだ。

 一年後、山口はまたしても逮捕された。前回と同じく、覚醒剤の所持使用である。そして、またしても刑務所に行った。今度は成人刑務所である。少年刑務所ほど陰湿ないじめや上下関係はないが、自由がないことに変わりはない。犯罪者たちとの共同生活も同じである。

 しかも、山口が入ったのはB刑務所である。周囲にいるのは、ヤクザやプロの犯罪者ばかりだ。

 刑務所には、初犯の人間が収容されるA刑務所と、再犯の人間が収容されるB刑務所の二種類があるのだ。B刑務所は、少年刑務所とはまた違ったきつさがある。時には、ヤクザ同士の大がかりな喧嘩が始まることもあるのだ。抗争中の組同士などは、一触即発の空気が流れている。ちょっとしたことで、ふたつに分かれての大喧嘩となるのだ。

 まともな人間などいない。普通の神経の持ち主なら、もう行きたくはないと思うだろう。事実、山口も行きたくないとは思っていた。




 三度の逮捕と、二度の刑務所生活。にもかかわらず、山口は覚醒剤をやめなかった。また、やめる気もなかった。

 今も、彼は覚醒剤を打っている。脳を突き抜ける快感に、ひたすら酔いしれていた。

 薬物依存のほとんどが、自分を依存症だとは思っていない。時が来ればやめられる……そんなことを思いつつ、彼らは覚醒剤を打ち続ける。一度こういう状態に陥ってしまうと、自力だけで立ち直るのは非常に難しい。行く着く先は刑務所か、病院だ。

 山口もまた、いつかはやめる気である。ただ、今はその時ではない……とも思っている。

 もっとも、「その時」が訪れる前に命を落とす者もいる。


 ・・・


 気がつくと、朝の九時になっていた。昨日から何も食べていないし、何も飲んでいない。もちろん、一睡もしていない。

 にもかかわらず、山口は疲労を感じていなかった。薬の効果によるものだ。しかし、これはあくまで一時的なものである。いわば、己の健康寿命を削り元気の前借りをしているのだ。いずれ、そのツケを払わされる時が来る。中年になってから心を病んだり、各器官に重大な障害を負ったりする者も少なくない。中には、二十年近く経ってから内臓に重大な影響が出てくるケースもあるのだ。しかし、今の山口はその事実を知らなかった。

 ふと、テーブルの上にあるものが目に留まる。何だろうか……と首を傾げた時、ようやく思い出した。覚醒剤を手に入れ自宅に帰った時、ポストに白い封筒が入っているのを見つけたのだ。誰からのものか確かめもせず、そのまま持ってきたのである。

 今の山口に、手紙を出す者などいない。そもそも、今どき紙の手紙など出す者がいるというのが意外だった。不思議に思いつつ、彼は封筒を手に取った。差出人の欄には、秋山薫と書かれている。


「秋山薫? 誰だっけな?」


 思わず呟いていた。名前に覚えがあるような気はする。しかし、誰かは思い出せない。ひょっとして、薬物の売人がサービスで何か送ってきたのか……などという考えが頭を掠めたが、そもそも売人に住所を明かした覚えはない。

 まあ、いい。中身を見ればわかることだ。ひょっとしたら、何かの間違いかもしれない。金目のものが、間違って送られて来ていたらラッキーだ……などと思いつつ、封筒を開けてみた。

 途端に、体がぶるぶる震え出す。封筒の中には、何枚かの写真が入っていた。全て、山口が写っているのだ。売人と接触し、薬物を受け取っている場面が克明に写されている。どうやら、今までの薬物売買の瞬間を撮影したものらしい。

 山口の脳内を、様々な思いが駆け巡る。これは、非常にマズい事態だ。秋山という男(?)の目的は、いったい何なのか。自分を脅迫するつもりなのか。どこまで知っているのか。そもそも、どうやって撮られたのか。こいつの目的はなんだ。

 それ以前に……覚醒剤絡みの犯罪は、三度目からの逮捕で常習性があると判断され、さらに刑が重くなるのだ。刑務所で得た知識だが、今の山口には当てはまる。

 となると、三年以上の実刑だ。しかも、仮釈放はもらえない──

 山口の脳裏に、刑務所での記憶が蘇る。厳しい規則。口やかましい刑務官。犯罪者たちとの窮屈な共同生活。時には凶暴な受刑者の御機嫌を損ねた挙げ句、みんなの見ている前で土下座させられたこともあった。

 あんな場所には、もう行きたくない──


 山口は、完全に常軌を逸していた。冷静に考えれば、この写真だけでは何の効力もない。山口が、誰かから何かを受け取っている……写真から得られる情報は、ただそれだけだ。仮に、警察に届けたところで何もしないだろう。これだけで、人員を割いて捜査に乗り出すほど警察も暇ではない。

 だが、今の山口はひどく怯えていた。覚醒剤のもたらす効果が、完全に裏目に出ている。思考はおかしな方向に向かい、全てを疑い出す。今の山口にとって、目に見えるもの全てが秋山なる人物の仕掛けた罠に思えていた。

 その時、ある考えが浮かぶ。


 部屋のどこかに、カメラがあるのでは?


 思いつくと同時に、山口は動き出した。懐中電灯を手に、部屋の隅から隅まで捜索する。血走った目で、盗撮用のカメラが仕掛けられていないかチェックした。

 カメラらしきものは見当たらない。それでも、山口は探し続ける。四つん這いになり、床の染みをひとつひとつ入念に見る。全く意味のない行為だが、それでもやめることが出来ない。取り憑かれたように、彼はカメラを探し続ける──


 数時間後、ようやく覚醒剤の効き目が薄れてきた。体のあちこちが痛い。喉がカラカラに渇き、腹も減っている。

 その時、ようやく気づいた。テーブルの上に、写真だけでなく便箋もある。封筒の中に入っていたらしい。

 何が書かれているのだろう。山口は、恐る恐る見てみた。

 そこには、ただ一行こう書かれている。


 お前は人殺しだ

 

「人殺しだと……知らねえよ! 俺は絶対やってねえ!」


 思わず喚いていた。

 山口は、確かにアウトサイドを生きてきた人間ではある。しかし、人殺しだけはしたことがない。それだけは断言できる。そもそも、アウトサイドの者たちの間でも人殺しは別格なのだ。越えられない線を越えてしまった者、という扱いを受ける。

 自分は断じて、そのラインを越えてはいない──


「俺は人殺しじゃねえ! 嘘つくな! 人違いだろうが!」


 喚きながら、便箋を破り捨てる。

 直後、凄まじい勢いで立ち上がった。ドアに鍵をかけ、窓をピッタリと閉める。カーテンを引き、ベッドに潜り込んだ。布団を被り、目をつぶる。

 ふと、おかしな考えが頭に浮かんだ。夢遊病という病気があるのを聞いたことがある。ひょっとして、覚醒剤を打った時に夢遊病のごとき症状を起こし、外に出て誰かを殺してしまったのではないか。

 その記憶が、頭から消えているのたとしたら?


「違う………俺は何もしてねえ。何もしてねえぞ。絶対に何もしてねえ」


 呟きながら、布団の中で震えていた。







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