2-5 「新本格」以降
続いて、「叙述トリック」という語がすでに定着したとされたあと、それがどのように論じられているかを見ていきましょう。
先述のように、「叙述トリック」という概念が包括的に論じられることはこれまで、ほとんどありませんでした。我孫子武丸「叙述トリック試論」はエポックとなったものの長さとしては小論ですし、笠井潔『探偵小説と叙述トリック』はどちらかというとこの概念の歴史的正統性および(「後期クイーン的問題」と関連して)日本のミステリ・シーン全体の発展可能性を探る、という傾きが強い。
本稿執筆のために、「叙述トリック」という語がタイトルに含まれる論考をciniiやgoogle booksで検索してみました。その中で、特に重要と思われるものを以下、年代順に紹介します。
折原一「本格推理と叙述トリック」(一九九一)はまず、叙述トリック作品を「叙述型」と「構成型」に区別します。
【このタイプの小説は、作者が探偵を通してではなく、直接読者と対決する構成をとっている。私見によれば、叙述トリックには二つの流れがある。
①『殺人交叉点』(F・カサック)、『歯と爪』『消された時間』(B・S・バリンジャー)
②『水平線の男』(H・ユースティス)→『狙った獣』(M・ミラー)→『サイコ』(R・ブロック)】
私が注目したいのは、折原の挙げるこの①②はいずれも、狭義にはサスペンス系だということです。記述者=犯人、つまり本格系の流れは、なぜかここでは取り上げられていない。しかし、
【若手の綾辻行人氏の『十角館の殺人』『水車館の殺人』『迷路館の殺人』の三作品は、古臭い本格と見られがちだけれど、叙述トリックを使っている点に、もっと注目してほしい。(……)
読者はありきたりの謎解き小説に飽き飽きしており、わくわくする本格推理に飢えている。その飢えを癒す一つの道が、叙述トリック物にある。要は見せ方なのだ。見せ方のバリエーション、組み合わせ方で、読者をいかようにもだますことができるのである。】
サスペンス系叙述トリックの本格物への導入、にこの時期、折原が注目していたことがわかります。
田中一彦「協調の原理と叙述トリック」(二〇〇〇)は冒頭、「叙述トリック形式」の特徴をこうまとめる。〈「犯人は誰」的な推理小説は小説の形式よりも内容が問題になる。あくまでも、作家によって作り上げられた虚構世界の中の出来事がどのように起こるかの問題である。本稿で扱う叙述トリック形式の推理小説は虚構世界の中でどんなことが起こっているのかが問題ではなく作家が虚構世界をどのように作り上げているのかが問題になる。まさにメタ的な問題なのである〉。つまり「内容」より「形式」の問題。そして我孫子による定義の中の「暗黙の了解」という部分をとりあげ、それこそが「叙述トリックの鍵を握る」として、ポール・グライスによる「協調の原理」の概念を援用し、言語学的に論じようとします。
【この「暗黙の了解」という概念はグライスの「協調の原理」と密接に関わっている。グライスの「協調の原理」とは会話に参加する人々が守らなければならない一種のルールで、会話に参加する人々が協調してコミュニケーションをなりたたせるようにつとめることを前提にしている。この原理は簡単にいうと、話し手はコミュニケーションが意味あるものとして成り立つよう最善を尽くし、一方、聞き手もまたそうした話し手の意図を完全に信じ、コミュニケーション成立に貢献するという原理である。
このような話し手と聞き手の関係は作家とその読者の関係にもそのまま当てはまる。読者は基本的に作家が誠実で正直ものであるということを疑わない。】
そして「協調の原理」という概念の下位原則である次の四つを提示します。
【a 量の原則 必要とされる情報をできる限り言うこと。不必要な情報を言わないこと。
b 質の原則 根拠のある事実と思うことのみ言うこと。
c 関係の原則 当面の話題と直接関係のあることのみ言うこと。
d 様態の原則 明確にあいまいでなく簡潔に順序だてて言うこと。】
同論文ではこの観点から以降、映画『シックス・センス』(一九九九)およびそのノベライズ(二〇〇〇。ちなみに三人称)が論じられます。いわば作品論。田中がノベライズ版について特に強調しているのは、語の多義性を利用することで、作者が誤導しようとする内容と実際の物語内容との「矛盾」を回避しようとするテクニックです(〈このメタトリック、すなわち、叙述トリック〉という言葉もあります)。
【大切なことは先のセクションでも述べたように、これらのテクニックは推理小説という形式が成り立つ際に特に重要視される「協調の原理」の中の「質の原則」には違反していないことである。他の原則の違反をうまく利用しながら、読者自らにマルコムが生きていると思わせる。ここがこの小説のテクニックである。言語学的にいえば、あくまでもマルコムが生きているというのは作者側からすれば「会話の含意」〔孔田注 語の多義性によって誤解させる、ということ〕であって、あとから十分にキャンセル可能なものである。「含意」としてであるからこそ最後にどんでん返しの事実を突きつけられたとき読者はうそをつかれたと思うのではなく、うまく作家に騙されたと思うのである。これこそ叙述トリックの醍醐味といえよう。】
叙述トリックは虚偽を書かずに誤導する、という我孫子の論点を引き継いでいるといえるでしょう。
梶山秀雄「『大いなる遺産』と『わたしたちが孤児だったころ』における叙述トリックをめぐって」(二〇〇二/学位論文「探偵小説とディケンズ――反探偵小説『エドウィン・ドルードの謎』」の一部改稿)は、チャールズ・ディケンズの小説(一八六〇~六一)をカズオ・イシグロの小説(二〇〇〇)の〈先行テクスト〉〈同じ物語〉とした上での比較。これも作品論で、イシグロ作における探偵クリストファーの敗北という〈探偵小説のコード批判の先例〉として、ディケンズとの間に『アクロイド殺し』を置いています。
【この作品は、語り手=犯人という前代未聞のトリックだけが知られている感があるが、その根底には探偵小説という形式に対するクリスティの閉塞感があった。〔……〕一九二〇年代、探偵小説は大衆娯楽として黄金期を迎え、荒唐無稽なトリックで読者を煙に巻く粗悪な作品もまた雲霞のごとく出版されていた。〔孔田注 作中の記述者=医師であり、かつクリスティに同作執筆のヒントを与えた義兄と同じ名であるジェイムズの〕口を借りてなされているのは、そうした二級の探偵小説、およびそれに熱狂する読者に対する揶揄であり憫笑である。】
そして探偵役のポアロの「推理」を「読む」という行為と重ね合わせ、
【『アクロイド殺し』に登場するポアロが探偵を廃業し、カボチャ作りに没頭しているという設定は、意味深長である。もはやかつての名探偵は、事件を文字通りに「読む」こともできなければ、その背後にある意味を「読む」ことにも以前ほどの確信が持てなくなったのではないか。『大いなる遺産』、そして『わたしたちが孤児だったころ』で主題化されているのも、こうした「読む」という行為に付随する誤読の可能性である。〔……〕最終的には、どちらの作品も「私」が全ての謎をもたらした犯人であった、という叙述ミステリ的な結末を迎える。共通するのは、一人称の語りに対する読者の盲目的な信頼を利用しているという点である。】
注目されているのは「一人称」です。
そしてディケンズおよびイシグロ作が〈叙述ミステリ的な結末を迎える〉と指摘し、ドゥルーズ=ガタリの〈〔探偵小説においては〕たいていの場合、殺人や窃盗の部類に属する「何か=X」がすでに起きてしまっているのに、起きたことは模範となる探偵が規定する現在時のなかで、これから発見するように仕組まれている〉(『千のプラトー』)だとか、スラヴォイ・ジジェクの〈現代小説も探偵小説もその中心にあるのは同じ形式的問題〉〈その問題とは出来事の「実際の」連続を再現すること、すなわち直線的に一貫して物語を語ることは不可能である〉(『斜めから見る』)といった言を引いて、「告白という困難」や、最終的に謎が「私」に回帰する小説の「円環構造」と重ね合わせています。
折原一「叙述トリックを成功させる方法」(二〇〇四/二〇一〇)は日本推理作家協会編のアンソロジー「ミステリーの書き方」のために書かれた一篇。
冒頭は叙述トリックを〈必ず成功させる方法〉。それは、すでにデビュー済で、ハードボイルドや警察小説などで売っている作家が、とつぜん叙述トリック物を書く。読者は警戒していないので驚くはず。例としてデニス・ルヘイン『シャッター・アイランド』(二〇〇三)を挙げ、しかしこの手は一度しか使えない、とします。引き出しが多い作家(例えば連城三紀彦や逢坂剛)なら、他のジャンル小説を書きつつ〈たまにぽんとこの種の叙述ミステリーを挟むと、ある程度の(あるいは、かなりの)成功を収めることがある〉。もし新人がデビュー作で叙述トリックものを書こうとするなら、最初の一、二作でその路線を一度引っ込め、引き出しを増やしたほうがよい。
次いで話題は自身に。影響を受けた作品としてB・S・バリンジャー『歯と爪』(一九五五)とフレッド・カサック『殺人交叉点』(一九五七)を挙げています。〈これらの小説の構成は実に単純。過去と現在を交互に書いていく。あるいは一人称と三人称の視点を交互に持ってくる。映画で使うフラッシュバックの手法のように、視点を変えることで、サスペンスを生み出す効果が出てくる〉。
〈映画〉と〈サスペンス〉というフレーズが出てきました。〈私は自分が書いているのはサスペンス小説だと思っている。叙述トリック的な趣向はそのサスペンスを生み出す一つの道具と考えているのだ。〔……〕だから、私はこれからも叙述トリックの手法を用いたサスペンスの方向で書くつもりでいる〉。
このように、叙述トリックを〈サスペンス〉の文脈で論じるものは、実はけっこう少ないのですが、折原は明確にこの方面から捉えています。
【叙述トリック初心者が成功するには、一人称と三人称を並行させて書いていくのがいい。〔……〕一人称では、嘘をつけることをあなたは知っているだろう。もちろん、これは作中人物の「私」や「僕」に語らせるわけで、故意(意識的)に嘘をつくことは可能だ。しかし。これをあまり露骨にやると、読者にそっぽを向かれるし。結末の驚きの度合いが減じる危険性がある。
読者が「卑怯じゃないか」と思った時、読者の驚きは作者のアンフェアな手法に対する強い怒りに移行し、その作品に対して高い評価を与えない。作者は読者の手痛いしっぺ返しを食うことになるわけだ。】
この文章が発表された二〇〇四年頃、日本の叙述トリック物は一つの飽和状態を迎えようとしていました。それは多くの方が認めるところではないでしょうか。
千街晶之「叙述トリックと物語の融合」(二〇〇四)はムックの貫井徳郎特集へ寄せた一篇で、叙述トリックの〈現況〉についての危惧が表明されています。まず、
【叙述トリックとは、作者が読者を騙すため、読者側の思い込みを利用し、主に記述上の技工を駆使することでミスリードするものである(従って、作中人物はそこにトリックがあるということを認識していない)。】
とし、本当は〈どの作品に叙述トリックが用いられているかなど知らない方がいい。そもそも、貫井が叙述トリックを特異としているという予備知識自体も、無い方がいい〉としながら、未読者への注意を促しつつ貫井のデビュー作『慟哭』(一九九三)の紹介に入る。同作のトリックは決して独創的ではないけれど、発表時においてはまだ衝撃的で、かつシンプルゆえにヒットしたのだろう。〈叙述トリックは、余りにも複雑になりすぎると、技巧のための技巧になり、時には不自然極まる糜爛の相を呈する。別に、技巧のための技巧があっていけないというのではないが、そういう小説を愛好する読者層は限られているが故に、幅広い読者の支持を集めることはなかなか難しいだろう〉。
しかしその後、叙述トリック作品はかなり増えすぎてしまった。
【叙述トリックが、本格ミステリにおけるポピュラーな手法として読者に認識されればされるほど、ひとつひとつの作品の衝撃度が鈍ってしまうのは仕方あるまい。実際、昨年(二〇〇三年)末から今年にかけての日本ミステリ界では、『慟哭』と同じく時間を誤認させる叙述トリックを用いた長篇ミステリが(筆者が思い出せるだけでも)既に四篇も発表されている。それら個々の作品を、叙述トリックを効果的に用いた秀作だと認めるに吝かではないけれども、一方で、このような現況に対して、流石に「如何なものか」という感想を禁じ得ないのも事実ではある。〔……〕叙述トリックというものは、読者の共感を破壊しかねない危険性を孕む仕掛けでもある。何故ならば、それまで物語世界に没頭して読み進めてきた読者は、最後の最後で叙述トリックが潜んでいたことを知った瞬間、強引に現実に引き戻され、その物語を書いている作者の存在を意識せざるを得なくなるのだから。】
叙述トリックの多用にはこうした〈危険性〉がある。貫井自身もそれに意識的で、〈その証拠に、近年、トリック先行でプロットを作っていた従来の創作手法から、テーマに合わせてトリックを配する書き方に変えたとインタヴューで述べている〔……〕ここからは、ある意味新本格では珍しいとも言える、不自然さを極力感じさせない叙述トリックの美学を追求しようとする姿勢が窺えるのである〉。
鍵となるのは、叙述トリックの〈不自然さ〉と〈多用の危険性〉です。
押野武志「不連続殺人事件 本格ミステリと叙述トリック」(二〇〇六)も作品論。坂口安吾の『不連続殺人事件』(一九四七~四八)について、江戸川乱歩「『不連続殺人事件』を評す」(一九四八)中の〈作者が読者に対してかけたトリック〉という言葉を〈(叙述トリック)〉と言い換え、また松本清張の〈全体がひとつのトリックだと気づくのは全部を読み終わったときである〉(「作家論」『定本 坂口安吾全集』第八巻、一九六九)、高木彬光の〈ストーリー全体が一つの大トリックとなっている〉〈ストリック〉(『不連続殺人事件』角川文庫版「解説」一九七四)という言葉を引きつつ、〈彼らが指摘していないもっと重要な叙述トリックが実は仕掛けられている〉としています。
それは〈ほぼ連載毎に附記(計六回)が付されていることからも分かるように、過剰なほど作者が作品外から介入している〉点で、〈こうした過剰な附記は、エラリー・クイーン流の「読者への挑戦」とは全く機能を異にしている〉。「作者」は物語の外部で「犯人さがし懸賞金」をかける一方、「附記」では、法医学の博士に相談した、とか、こんな推理じゃダメだ、とか、いろいろやかましく口を出す。それがミスリードになっている。
【こうした附記にみられるある事柄を隠すためにさまざまな偽装を試みようとする安吾の「カラクリ」というのは、歴史を探偵する方法として安吾自身が指摘していたことでもあった。「歴史探偵方法論」(『新潮』一九五〇年一〇月)の中で安吾は、「記紀を読み、また他の史料を読むうちにだんだん証拠が現れてきて、そうか、さてはこの事実を隠すために記紀はこんな風に偽装したのか、ということが現れてくる」と言うが、これはまさに読者が読後に改めてこの附記を読んだ場合の解説にもなっている。作者自身もまた「心理の足跡」を読者に対して残したのであった。】
続いて〈叙述トリックの系譜〉の項で、先の評で乱歩が挙げたイズレイル・ザングウィル『ビッグ・ボウ』(一八九二)の探偵役=犯人、クリスティ『アクロイド殺し』の記述者=犯人、を紹介し、乱歩自身の「二銭銅貨」(一九二三)による語り手の詐術にも触れます。坂口安吾は「推理小説論」(一九五〇)で、横溝正史『蝶々殺人事件』(一九四六~四七)を〈傑作〉とし、『本陣殺人事件』を〈最もつまらない〉と批判しているものの、両者に「叙述トリック」が仕掛けられていた点を押野は指摘し、『蝶々』のほうが〈はるかに高度な叙述トリックであった〉としています。
〈安吾から松本清張へ〉の項では、「或る『小倉日記』伝」(一九五二)の芥川賞選評で〈清張の探偵小説家としての資質をいち早く見出した〉安吾の死(一九五五)と入れ替わるように台頭した松本清張『ガラスの城』(一九六二~六三)をとりあげます。同作は第一部が「三上田鶴子の手記」、第二部が「的場郁子のノート」という、手記形式の二部構成で、第一部の記述者=三上が的場の疑惑を深めるものの、第二部の記述者=三上によって実は第一部の記述のほうにこそ嘘があったということが判明する。
押野が『ガラスの城』の〈ヒントになったと思われる作品〉として挙げるのは、『蝶々殺人事件』とアントニイ・バークリー『第二の銃声』(一九三〇)です。戦時中に安吾らと探偵小説の犯人当てゲームに興じた大井廣介によれば、いつも〈不可思議な飛躍〉をする安吾の推理が唯一犯人を当てたのが、『第二の銃声』だった(「犯人当てと坂口安吾」)。
【日本のミステリは乱歩の叙述トリックにはじまり、戦後の本格ミステリ・ブームを支えていた安吾や横溝の作品の中心にあったのも叙述トリックであった。本格ミステリに批判的であった清張の作品にも優れた叙述トリックが仕掛けられていた。社会派ミステリを批判して登場してきた綾辻行人『十角館の殺人』(一九八七年)以降の「新本格」においても、叙述トリックの系譜はさまざまなヴァリエーションを生み出しながら今日までとぎれることはなかった。本格ミステリは叙述トリックなくしては成立しないとは乱歩の弁である。
〈作者は始めから犯人を知っていながら、それを最後まで隠しておくのだから、この根本の意味で、作者が読者にトリックを使っているわけで、それを禁じることは、探偵小説そのものの性格と矛盾すると思うのである〉】
とうぜん乱歩の時代に「叙述トリック」という言葉はありませんが、乱歩が「二銭銅貨」で語り手/記述者による詐術を行なった、という着眼は笠井潔『探偵小説と叙述トリック』でもくりかえされます。笠井著はまたエドガー・アラン・ポーも「『おまえが犯人だ』」(一八四四)で同様の仕掛けを試みたと指摘し、つまり叙述トリックは探偵小説の発生と同じくらい古い、としています。
岩松正洋「叙述トリック『以前』 ナボコフ、ボルヘス、カルヴィーノにおける人称の騙り」(二〇〇八)は、のちに述べるマリー・ロール=ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』(一九九一)の訳者による論考。題名の通り、ミステリというよりも新本格が手法の源泉とした海外文学の話題が中心。同じ筆者による「『道に沿って持ち歩く鏡』のたくらみ メタフィクション、信頼できない語り、その他の騙り」(二〇一三)も関連論考として参考になります。
ただ、岩松の「叙述トリック」という語の用法はミステリのみを対象としていないので、我孫子型の定義よりも広い(似鳥型に近い)という点には注意してください。岩松は『可能世界・人工知能・物語理論』でも「textual trap」という原語に〈叙述トリック〉という訳語をあてていましたが、とうぜんロール=ライアンが一九九一年時点で新本格などを対象に論じているわけではありません。
羽住典子「叙述トリック戯言」(二〇〇八)は、非ミステリ作品における叙述トリックについて。ニッケルバックの楽曲「サムデイ」(二〇〇三)のPVがネット上の〈一部のミステリ愛好家で話題になった〉。もちろんふつうPVを観る時の心持ちは「何かサプライズがあるぞ」と身構えるわけではないので、〈まったく先入観のない場面で出会った叙述トリックを、他の人と語り合いたくなったからであろう〉。
【本格ミステリでは「この作品は叙述トリックを用いている」と語ること自体がネタバレだと懸念されている。しかし、「サムデイ」のようなまったく予期せぬところで叙述トリックに出会った場合は、どうやら例外のようだ。本格ミステリとは別の世界で見つけた叙述トリックは同じミステリ愛好家に伝えられるのに、「本格ミステリ」という枠にくくられた世界で見つけた叙述トリックは、情報交換しにくい。】
以降詳細に分析されるのは、野島伸司脚本のテレビドラマ『薔薇のない花屋』です。
【「本格ミステリ」という家の中で育ってきた様々な作品たち。特に新本格が発祥した二十年間は、新しく誕生した日常の些細な謎を扱うミステリや、どこに謎が仕掛けられているか真相にいたらないとわからない叙述トリック作品も、同じ家の中で共存してきた。それが今は、叙述トリック作品はネタバレを懸念され、存在自体が沈黙されるようになってきている。このままだと数えてみればひとり多いけど誰が多いのかわからない座敷童子のような存在になっていく気がしている。】
この時点で〈叙述トリック作品はネタバレを懸念され、存在自体が沈黙されるようになってきている〉という危機感が表出されていることに、とりあえず注目しておいてください。
我孫子武丸「手段としての叙述トリック 人物属性論」(二〇●●/二〇一〇)は折原一「叙述トリックを成功させる方法」と同じく、リレーエッセイ「ミステリーの書き方」企画の一篇。内容的には「叙述トリック試論」の続篇といえます。
まず冒頭、「試論」で叙述トリックが流行ることは〈この先もない〉としたことを〈この十年で事情は相当に変わってきた〉と認めます。〈本来ならアンフェアと言われ、拒否感を示す人も多いはずの叙述トリックだが、綾辻行人の「館シリーズ」などを原体験として持つような若者には、「密室」と同様ごく自然に受け入れられてきたのかもしれない〉。そしてその〈過当競争気味〉の現状を指摘しつつ、〈しかしそれは見方を変えると、「新しい叙述トリックを見つける」時代から「効果的に叙述トリックを使う時代」に変わっただけで、密室やアリバイなどの物語内トリックと同レベルの水準に達したのだと言えるかもしれない〉とし、前者(新しく見つける)を〈目的としての叙述トリック〉、後者(過去のトリックと似ていても作品の〈面白さ〉を優先して効果的に使う)を〈手段としての叙述トリック〉と区分します。ざっくり言い換えれば、前者がサスペンス系、後者が本格系でしょうか。そして以下、後者のうち〈人物属性〉について論じていきます。
例として挙げられるのは、(我孫子は伏せていますがあえてタイトルを書くと)バリンジャー『赤毛の男の妻』(一九五七)です。
【殺人を犯した脱獄囚を追うニューヨークの刑事。物語はその刑事の一人称と逃亡犯などの出てくる三人称パートで構成されている。刑事の執念の追跡の果て(実は中身はまったく覚えていないのだが)、事件は無事解決する。そういう話だ。ごく普通のサスペンスといっていい。――ただ一つ普通でなかったのは、刑事は黒人だったのです。そのことは最後の一ページで明らかにされる。
中身のストーリーとはまったく関わりのないこのサプライズは。本格好きの日本人としては「話と関係ないのかよ!」とツッコミたくなるようなものだったが、恐らく読み手がアメリカに住む白人、とりわけ人種偏見の強い人であったなら相当有効に働いたのではないかと思われる。〔……〕白人だとは一言も書いていないのに、そう思いこんでしまっていた自分自身の偏見を見せつけられることとなる。
実際、この作品が本国でどのように読まれたのかは寡聞にして知らないのだが、もはやこれは「社会派」といっても差し支えないだろう。】
そして誤導成功の要因として、以下二点を挙げる。
1 情報の欠落を意識させてはいけない。
2 思い込んでいたイメージと真相の間のギャップは大きいほどよい。
【作者にそんなつもりがなくても、時代と分かちがたい暗黙の了解を利用しようとする限り、どうしようもなく叙述トリックは社会と関係してくるのだ。また、そのテーマ性をストーリーにも関連づけて書くことができなたら、作品はさらに深みを増すことだろう。】
読者の偏見を撃つ、という叙述トリックのイデオロギー性は、「叙述トリック試論」の終盤でも論じられていたテーマです。
吉田司雄「ディスクールの変革、あるいは叙述トリックの彼方へ 筒井康隆の一九九〇年」(二〇一一)は雑誌の筒井特集へ寄せた作家論。冒頭、『文学部唯野教授』(一九九〇)を挙げ、同作が下敷きにしたテリー・イーグルトン『文学とは何か』(一九八三)における「言説(ディスクール)」という用語をピックアップしつつ、『唯野教授』と同年発表の『ロートレック荘事件』(一九九〇)へ話題を移します。
【『ロートレック荘事件』のトリックは台詞の発言者を明確にしない】作者の「言い落とし(レティサンス)」にあり映画やテレビドラマのように舞台を見ることのできない読者は二人しかいないと思っていた舞台が実は言葉のトリックに欺かれた幻影であったことを〔……〕知るのである。
そして筒井による読書遍歴『漂流 本から本へ』(二〇一一)で、クリスティをとりあげた部分に吉田は注目。
【筒井康隆が「高校三年の時に出た『別冊宝石23』にはアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」が清水俊二の訳で収録されていて、それまで読んだ推理小説のいずれとも違うその面白さにぼくは驚き、これこそがミステリーの醍醐味ではないのかと思った」という。〔……〕最後の手記によってすべての謎が解き明かされる「そして誰もいなくなった」との出会いに、『ロートレック荘事件』の遠い萌芽を見ることができるだろう。さらに他のクリスティ作品に触れ、「特に「アクロイド殺し」の叙述トリックには驚き、後年、ついに自分でも一篇の叙述トリックを書きあげて読者を驚かせたものだが、そんな作品が書けたのも、はるか雲の上に存在するこの「アクロイド殺し」という作品に少しでも近づこうとしたからだ」と述べられているが、『ロートレック荘事件』を読んだミステリ好きの読者が第一に思い起こすのも間違いなくクリスティの『アクロイド殺し』であろう。】
続いて吉田は、『ロートレック荘』と同時代の「新本格」へ話題を転じます。
【「新本格」が心酔し復興せんとした「本格」は、必ずしも名探偵の推理に読者が挑むゲーム型の謎解き本格ミステリだけを指していたわけではなかった。例えば、S・S・ヴァン・ダインが「推理小説作法の二〇則」でアンフェアだと非難した『アクロイド殺し』の叙述トリックも「本格」に含まれていたし(実際『十角館の殺人』には叙述トリックが仕掛けられている)、さらに言えば「本格」を志向しながらも「本格」を成り立たせるコード(約束事)の自明性をも問い直していったのが、「新本格」のムーブメントだった。それは「新本格」の矛盾というよりも、「新本格」が過去の本格ミステリ作品をメタレベルから捉え直して創作の糧としていた、その一つの帰結であると言っていい。】
つまり「新本格」はかつての「本格」に対するメタだった。次いで法月綸太郎「初期クイーン論」(一九九五)が召喚されます。
【法月は〔……〕クリスティは「『作品』をニュートラルで閉じたシステムと見てはいない」がゆえに『アクロイド殺し』は「作品の外部が内部にずれ込んだような自己言及的な構造をなしており、ヴァン・ダインが自明の前提と見なした「犯人―探偵」/「作者―読者」という二つのレベルの区別は、不可避的にやぶられてしまう。〈意外な犯人〉というゲーム性の追求がこうした構造をもつ「作品」に行き着くのは当然であって、それこそが「形式化」の意味することがらなのだ」と述べている。重要なのは、ヴァン・ダインの確立したゲームの規則に対する逸脱あるいは犯行として叙述トリックを評価するのではなく、むしろゲームの規則を徹底的に問い詰めたその先で規則自体がゆらぐという。ディコンストラクティヴな運動の帰結(「形式化」の徹底によるその解体)にこそ目を向けている点である。それゆえ「新本格」の流れは、作中の探偵は真相に到達できないとする「後期クイーン問題」にも横着してしまうのだが。】
しかし、こうしたメタフィクション傾向および同時代性が共通していたにもかかわらず、〈『ロートレック荘事件』は「新本格」の流れと完全にすれ違った〉と吉田は指摘します。〈具体的には、本格ミステリファンによって『ロートレック荘事件』が高く評価されたり大いに議論の対象とされたりといったことはなかったし、筒井康隆の読者が『ロートレック荘事件』をきっかけに本格ミステリを読み漁るようになるということも(たぶん)なかった(『文学部唯野教授』をきっかけに現代思想に関心を深めたりハイデッカーを読んだりというのはあったはずなのだが)。〉
〈完全にすれ違った〉というのは若干疑問ですが、私ものちに(二〇〇二~〇三年頃?)『ロートレック荘事件』を読んだ際、〈『文学部唯野教授』が、前人未到の言語トリックで読者に挑戦するメタ・ミステリー。この作品は二度楽しめます。書評家諸氏はトリックを明かさないようにお願いします〉(単行本の帯文)という煽りの割には既視感があるな、と思って、あまりノレなかったような気がします。
それはともかく、『ロートレック荘事件』は単なる一発ネタではなく、〈「形式化」の徹底によって形式自体の無根拠性をさらけだしていくウロボロスの蛇のような試み〉だった。同作の解決編第十七章には〈叙述トリックの種明かしとして該当するページが記されているが、これも作中の語り手に対するメタレベルからの作者の介入ということになろう〉という吉田の指摘は、押野が『不連続殺人事件』における叙述トリックの特徴と見なした「附記」の存在を彷彿とさせます。
【「新本格」のメタフィクション性が探偵の存在不可能性という問題を引き寄せてしまったように、筒井康隆のテクストはその外部に作者が無傷なまま存在することなどできないという過酷な事実を呼び寄せてしまう。一見メタレベルにおける作者の延命を担保しているように見えながら、メタフィクション的なテクストにおいてはその新たなレベルもまた虚構世界へと引き込み得るのだし、完全に虚構の外に佇立し続ける作者を想定することなどできはしない。それをあたかもテクストの外部にいる生身の作者の「発話」であるかのように偽装し(叙述トリックを用い)、それに対するナイーブな読者の反響や批判をそのまま作品に落としこむことで、「言葉」から「言説」へと小説の方法=対象=素材を転回しようというのが、一九九〇年代初頭における筒井康隆の新たな挑戦だったのではないか。そのとき「言説」は揺れ、現実と虚構との狭間で変革を余儀なくされる。『文学部唯野教授』がベストセラーになった時期、唯野教授と作者本人とが半ば同一視されスター扱いされるという社会現象をも、筒井康隆は読者を欺く壮大なトリックに利用していたように思えてならないのである。】
キーワードは「メタレベル」です。確かに、先に挙げた『ロートレック荘事件』の帯文には『文学部唯野教授』が〈読者に挑戦〉と書いてありましたが、二つの小説には特に直接のつながりはないのだから、事実としては不正確としかいいようがない。しかし、それが許容されるだけの雰囲気があった、ということでしょう。
小森健太朗「叙述トリック派を中心にみた現代ミステリの動向と変貌」(二〇一二)は、笠井著を補完するような内容。特に叙述トリック作品の源流を「サスペンス系」とし、それをめぐる国内外の受容の違いについて指摘しているのが貴重です。
【マーガレット・ミラーは、江戸川乱歩の海外ミステリ作家紹介では、「心理サスペンス派」と分類されている。その紹介が間違っているわけではないが、今日の観点では、ミラーは、叙述トリックを駆使するサスペンス派の作家としてとらえられるだろう。現代本格では叙述トリックを使うと、本格ものど真ん中であるかのような把握が一般的になってしまったが、ひと昔前の書き手であるマーガレット・ミラーは、本格派ではなくサスペンス派の作家としてとらえられるのが普通だった。現代本格における認識と、一九五〇年代に活躍した、ミラーのようなアメリカの叙述トリック派の作家に関する、認識のこのギャップはどこからくるのだろうか。〔……〕一九五〇年代から六〇年代にかけて興隆した、英米の叙述トリック・ミステリは、それなりに翻訳書の刊行はされたのだが、翻訳上の技術的な難題が大きかった面もあって、ヴァン・ダインやクイーンの大戦間本格ミステリほどには、日本の読書界には理解されず受け入れられなかったと言えるだろう。
アメリカでは、一九二〇年代から三〇年代にかけての本格ものの興隆のあと、ハードボイルド派が栄えるのと並走する形で一九五〇年代から六〇年代には叙述トリックを用いる心理サスペンス派が振興した。
ところが日本の現代本格は、アメリカの推理小説界とは大きく事情が異なる。笠井潔が命名する〈第三の波〉の起点となった綾辻行人の『十角館の殺人』(一九八七年)が、叙述トリックに分類される作品であるため、〈新本格〉と名づけられたムーブメントの起点にして中心に、叙述トリック作品が置かれることとなった。綾辻以前の日本の推理小説界では、作例がなかったわけではないが、叙述トリックを駆使する作品は数は多くなく、翻訳ミステリの叙述トリックものはごく限られた受容しかされていなかった。〈第三の波〉のトップランナーである綾辻行人に続いて、叙述トリックを多用する折原一らが登場してきたことによって、一気にミステリのマーケットが広く開拓されたのは、叙述トリックの技法が目新しく面白いものとして広く読者に受け入れられたのが大きな要因と言えるだろう。】
しかし、叙述トリックには難点があった。読者としては、〈叙述トリック作品に対して免疫ができてしまうと、以前にように驚けなくなってくる〉(小森はこれを経済学用語から〈効用逓減の法則〉と呼んでいます)。また作家としては、叙述トリックの技法は限られて頭打ちになってしまう。
こうした行き詰まりとの格闘を、折原一や西澤保彦、乾くるみ、道尾秀介、また非本格ミステリ系のライトノベル作品を挙げて論じています。
明山一郎・長浜真人「シャーロック・ホームズと叙述トリック」(二〇一二)はJSHC(日本シャーロック・ホームズ・クラブ)での発表を文章化したもの。したがって論考ではありません。漫才のような掛け合いで、叙述トリックのキーワードとして、「スキーマ(偏見)」「ダブルミーニング」「伏線の回収」の三点を挙げています。
石川悟「叙述トリックを用いたミステリ小説の読解と読書経験」(二〇一四)は、心理学の分野で、自作小説を用いて男女四九名に〈ミステリ小説の読書経験とトリックの難易度が叙述トリックの成立と読者の推理に及ぼす影響、そしてミステリ小説の面白さ等の評価に与える影響〉の実験報告です。なのでこれも論考ではないのですが、冒頭に定義が書かれています。
【叙述トリックとは、作者が事象Aを叙述していく際、読者に認識させたい誤認Aをあらかじめ想定し、事象Aと誤認Aの両者に矛盾が生じないようにすると同時に、トリックを成立させるために決定的な役割を果たす情報を欠落させて叙述することで、読者に語人を抱かせる手法である。】
この定義は一見、我孫子型ですが、場合によっては似鳥型の作例も含むかもしれず、判断しがたいところです。
渡辺信二「バートルビーの倫理と資本主義の良心 叙述トリックを解く」(二〇一六)は、ハーマン・メルヴィル「バートルビー ウォールストリートの物語」(一八五三)に関する読解で、ミステリについて論じたものではありません。メルヴィル執筆時の社会状況を参照しながら〈語り手の嘘〉を読み解いていく過程は非常にスリリングですが、叙述トリックに関する定義は特にないので、どちらかといえば「信頼できない語り手」のほうをテーマとする論考といえるでしょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます