2-2 一九五〇年代の例

 クリスティの自伝によれば、『アクロイド殺し』の着想は元々、最近の推理小説は誰でも犯罪者になる、探偵=犯人というのさえあるくらいだ、もし記述者=犯人というのがあれば読んでみたい――という親戚の言葉だったとされています。

 東都書房版『世界推理小説大系5 チェホフ ドゥーセ』(一九五八)は、『アクロイド殺し』に先駆けて同様の傾向を持つアントン・チェーホフ『狩場の悲劇』(一八八四〜八五)、サミュエル・A・ドゥーセ『スミルノ博士の日記』を併録した一冊ですが、その解説で荒正人は両作について〈「記述者即犯人」というトリック〉と呼んでいます(この二作については、詳しくはのちの「一人称」をめぐる章で紹介します)。

 しかしこの〈記述者即犯人〉というアイディアにおいては、形式(〈書き方、叙述の仕方〉)と内容(トリック)が不可分に結びついており、現在「叙述トリック」と称されるほど応用の効くテクニックとはいえません。


 いっぽう「構成」に着目すると、先に「サスペンス系」と呼んだ作品群のうち、画期となったのはビル・S・バリンジャー『煙で描いた肖像画』(一九五〇)ではないかと思います。バリンジャーは一九五〇年代後半から日本でも紹介されているので、以下詳しく見ていきます。

 邦訳第一作『赤毛の男の妻』(一九五七)の解説(一九五八)で、植草甚一はバリンジャーのスタイルに〈並行叙述法〉という語を用いています。


【第三作の「煙で描いた肖像画」(一九五〇年)は、〔……〕過去に起った事件と現在起っている事件とを並行して描き、それが最後になって一緒にぶつかるという形式を用いたため、サスペンスが生じて面白い読物となり、バリンジャーの最初の成功作となっている。〔……〕これはブルーノ・フィッシャーの「血まみれの鋏」とおなじく巡礼形式を使ったものであるが、ダニー〔主人公の男〕の行動とは無関係に、クラッシー〔ダニーが追う女〕の過去の生活が十年前から現在へと語られていき、各州を転々と歩きながら、いくつもの変名を使って男をつくっていった理由が、最後になって意外な犯罪と結びついて明らかにされる。ショッキングで暗い作風のものである。〔……〕

 第五作の「ラファーティ」(一九五三年)は、実直な警官が女のために身を滅ぼしてしまう物語で、ここでも最初に並行叙述法を採用して見事なサスペンスを出しているが、主人公にたいする作者の真面目な態度が、これを「煙で描いた肖像画」よりも一段とすぐれた作品にしている。〔こ……〕こうして作者はラファーティと関係があった女たちを探しまわって真相を摑もうとするあいだに、ラファーティの生い立ちが並行して描かれていき、いつのまにか作者が影をひそめると、今度は本筋に入って、女のために堕落の涯におちこんだ果て、酒に身を持ちくずして愛する女を絞殺してしまうまでが、暗い筆致で力強く描いてある。

 第六作の「歯と爪」(一九五五年)は、独創的なプロットを持った完全犯罪の物語で、ここでも法廷における検事側の訊問と、或る魔術師の恋が並行して描かれていき、最後に一点に合して素晴らしい効果をあげる。〔……〕ここでもバリンジャーはフェア・プレイでもって変名による不可解な興味をあたえる一方、殺された運転手の正体をたしかめる証拠物件としては、義歯と一本の指先と血痕しかないというトリックを使って、一種の幻想性を生みだすことに成功している。

「赤毛の男の妻」は、以上のような作品を書いたバリンジャーの長所が最もよく出た作品であり、追う者と追われる者とが、これほど人間味をもって描かれたサスペンス小説もいままでになかったが、さらに読者はこの作品から、もうひとつの独創的なプロットのたてかたがあることを、読み終ったときに初めて知って感心されることだろうと思う。】


 植草がバリンジャーの特徴である〈並行叙述法〉を〈フェア・プレイ〉と述べていることに注目してください。

 続いてバリンジャーの日本紹介第二作『消された時間』(一九五七)の都筑道夫による解説「技巧家バリンジャー」(一九五九)から。これは原著・翻訳ともに後半部に封がされ、「返金保証」を謳ったものですが。


【つまらなかったら、代金を返します、と言って、結末を封じておく方法は、作者のアイディアではないか。そう思い出したら、愉快になった。読者にはもうおわかりの通り、この作品の不思議さの最大の点は、実に簡単な技巧から生れている。つまり、ひとつの物語を、真んなかから二つにちょんぎって、Aの部分とBの部分にわかち、そのAとBを一章おきに、配列しただけのことだ。そこに錯覚が生れて、同時におなじ主人公が生きたり死んだりしているという、怪談めいた不思議さが、生れている。

 しかし、この技巧は、なにかの拍子に、読者がAの部分とBの部分の合致点を、ちょっと拾い読みしてしまったら、それで最後である。その危険をふせぐために、合致点を封じこめ、ただ封をするわけにはいかないから、返金保証をつけた、と考えるのは、考えすぎかもしれないが、面白いと思う。】


『消された時間』の趣向は、主人公の一人称パート(A)と、主人公が死んだのちの三人称パート(B)という、連続した時系列を断りなく錯綜させ、Aで生きている主人公がBではなぜか死んでいる、というブキミさを醸し出したものですが、「封」と「返金保証」は一体のものであり、真相から読者の目をそらすための、いわば「作者」からの介入である、というのはユニークな見方です。


【Aの部分とBの部分を、ないまぜにしていく技法のなかで、作者はひとことも、これが同じ時期に進行している事件だとは言っていない。読者に勝手に誤解させておくだけだから、アンフェアではない。最も手品小説のつねとして、だまされただけでそれっきり、という物足りなさはあるが、それをもちだすのは、無理な註文というものだろう。作者は作品の狙いを、ただその一点にだけ集中して、構成しているのだから。

 トリック本位の探偵小説は、作品のなかで犯人が仕組むトリックの範囲では、ある限界に達してしまった。そこに新しさを出すために、作者が直接、読者にかけるトリック、という方法を、技巧家の作者は使いだしている。読者が誤解するような状況をつくっておいて、話をすすめるわけだ。短篇ではビーストンなどが、よく使った手である。この手は、短篇にしか、有効ではなさそうだったのを、長篇で使って、成功した作家が現れた。本篇などは、その典型である。〔……〕】


 バリンジャーの方法を特定の名称で呼んではいませんが、〈作者が直接、読者にかけるトリック〉という、似鳥も使用していたフレーズが出てきました。また、都筑もここで〈アンフェアではない〉としている点に注目してください。


【これまでには五六年の作品『赤毛の男の妻』が、邦訳されている。あの作品でも、追われる側と追う側と、ふたつの物語を、同時に進行させている。ほかにも同じテクニックを使った作品がある。つまり、本書のテクニックは、バリンジャーお得意の手法なのだが、本書の場合が、いちばん思いきった使い方をしていると思う。

 ビル・S・バリンジャーという作家は、技巧の目新しさにくらべて、その立場はむしろ古風といえるだろう。本格探偵小説でこそないが、純粋なエンタテインメントで、ミステリ小説らしいミステリ小説である。『赤毛の男の妻』のように、普通小説的テーマを持ちこもうとしても、なまじ技巧が先に立って、テーマを生かしきれず、中途半端なものになっている。ただ面白さだけを狙った作品のほうが、本領であろう。】


 バリンジャーについては、のちの章で詳述します。

 同時期に邦訳されたのが、フレッド・カサック『殺人交叉点』(一九五七)です。言語自体に男性名詞・女性名詞の区分という特性のあるフランス語において、語り手のいわゆる「性別逆転トリック」という離れ業をやってのけた小説。植草甚一による解説(一九五九)は、フランスの業界事情の紹介が主で、作品についてはほとんど触れていないのですが、ここでも〈並行描写〉という言葉を用いています。


【ノエル・カレフの「その子を殺すな」「死刑台のエレベーター」はアメリカン・スタイル〔ハードボイルドの影響〕がよく消化され、前者では二つの事件が並行、後者では三つの事件が並行していくというプロットが力強い効果を出す点でフランス・スタイルの新傾向ということができるが、「殺人交叉点」における並行描写は、より徹底した形で執拗に繰り返されていく。】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る