1-3 「信頼できない語り手」と「叙述トリック」はどう違うのか?
しかしなぜ、こうした違いがあるのか? 「叙述トリック試論」(一九九二)から『叙述トリック短編集』(二〇一八)までのあいだに、「叙述トリック」という概念は変わってしまったのか?
実際、一般的には似鳥のように、「信頼できない語り手」と「叙述トリック」はほぼ同義語として捉えられているようです。ウィキペディア日本語版の「信頼できない語り手」の項では、これは「小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)」であると書かれていますし(二〇二一年三月八日現在)、『叙述トリック短編集』の装丁には英題として「Kei Nitadori is unreliable narrator」の文言が添えられています。
ところがこの二つは、扱える範囲にかなり違いがある、まったく別の概念なのです。
最も違いがわかりやすいのは、三人称についてでしょう。つまり「信頼できない語り手」はほぼ「一人称」を対象にしており、「三人称」は例外的です。いっぽう、「叙述トリック」で「三人称」を用いた作品は多く、例外とはいえません。
ではウィキペディアにあるように、「信頼できない語り手」は「叙述トリックの一種」、つまり下位区分なのか? これもそうとはいえない。先述のように、「信頼できない語り手」は「一人称地の文で虚偽を書」いて何の問題もないのに対し、「叙述トリック」として捉えるとそれは「アンフェア」になってしまう――すなわち、なんらかの「問題」があると見做されてしまう(似鳥がその「アンフェア」さを乗り越えようとして『叙述トリック短編集』を書いた、という点に注意してください)。
であるなら、なぜこれらは混同され、それで特に疑問も持たれていないのでしょう。詳細は後述しますが、この二つは元々、由来を異にする概念です。「信頼できない語り手」は一九六一年、アメリカのウェイン・ブースが『フィクションの修辞学』で提案し、議論を経て定着した、ミステリとは無関係の出自を持つ用語で、文献は実作・理論とも数多くあります。いっぽう「叙述トリック」という用語は、初出は不明ながら、日本のミステリ分野に特有の用語であり、一九七〇年代後半~一九九〇年代前半を通じて定着した、と考えられています。管見の限りでは、「叙述トリック」について一冊まるごと考察した文献は、これまで笠井潔『探偵小説と叙述トリック』しかありません。つまり「叙述トリック」のほうが、文学史的には議論が少ないわけです。
要するに、「信頼できない語り手」は本来、非ミステリ用語なので、「虚偽」を書いても構わない。とはいえ、すべての小説は芸術作品ですから、なんでもかんでもとりあえず「虚偽」を書いていいわけではなく、「語り手」が「虚偽」を述べるなんらかの理由は求められるでしょう。でもそれは「後出し」でもよい(極端な場合、「理由」は作中に明記されず、読者が推測できるだけ、でもよい)。いっぽう、「叙述トリック」は「フェアプレイ」を重んずるミステリ(特に、本格ミステリ)に強く関連する用語なので、「虚偽」を書ける条件は、かなり厳しくなります(このあたりの違いは、のちの章で詳述します)。
両者が日本で混同されるにいたったのは、二十世紀半ばから後半にかけ、国内外を問わず、小説や映画などのフィクション作品において、読者に対し共通して或る効果――「サプライズ(驚き)」を提供する手法として、多く利用されたから、という事情が挙げられるでしょう。すなわち、「信頼できない語り手」や「叙述トリック」がもたらす衝撃が、人気を博し、作品の評判が広まり、それらの印象において類似するところがあったために、近いものと考えられるようになったのではないか。
その一つに、道尾秀介の長篇『向日葵の咲かない夏』(二〇〇五)があります。累計百万部を超えている、著者の代表作ですが、作中で終盤、ある設定(作中事件のトリックとは無関係)が主人公の妄想だったと明らかになる、印象的なくだりがあります。笠井は『探偵小説と叙述トリック』でこれを「叙述トリック」に含め、作品自体は評価しています(「フェアか否か」が主な論点だった我孫子・似鳥の文と異なり、笠井著の関心は別のところにあるので)。いっぽう、我孫子は先述のように、(作品の評価にかかわらず)同作に見られる仕掛けを「叙述トリックではない」としています(参照→https://togetter.com/li/295513)。
つまり、読み手としての我孫子、笠井、似鳥の三者においては、「叙述トリック」の捉え方がそれぞれ異なるわけです。しかし推察するに、書き手としての三者には、「(一人称・三人称にかかわらず)地の文で虚偽を書くのはアンフェアである」という意識は共通しているのではないか。
こういう整理は、私の見る限り、これまであまり詳しくなされてこなかったと思います。その原因は、「叙述トリック」作品の持つ、或る特性にあるはずです。つまり、或る作品が「叙述トリックを用いている」という言明は、一種の「ネタバレ」であり、既読者・未読者が入り混じったオープンな言論空間においては(広くはメディアやSNSではもちろん、狭くは複数人が居合わせる私的空間でさえも)、避けられる、という点です。これは、「叙述トリックについて触れてはならない(あるいは、しにくい)」というタブー視につながり、議論の健全な発展を阻害するでしょう。
これこそが、繊細な配慮に満ちた現代の空間の中で、私が蛮勇を振るい、今回の文章を書くにいたった理由です。
そこでいざ検討を始めてみたのですが、思いもかけず、当初の予想よりもかなり長い歴史的射程を考慮しなければならない、ということに、しだいに気づくことになりました。
――「叙述トリック」とはなんだったのか?
――他の技法と何が違うのか?
――なぜあれほど人気を得たのか?
――そして、なぜピークを過ぎてしまったのか?
こうした問いに、はたしてうまく答えられているかどうか。
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