1-2 「叙述トリック」の定義――似鳥鶏と我孫子武丸

 二〇二二年現在、「叙述トリック」を書名に関した商業出版物は、二冊しかありません。笠井潔の評論『探偵小説と叙述トリック』(二〇一一)と、似鳥の小説『叙述トリック短編集』です。また、このテーマを考えるにあたっては、先駆的論考として最も有名な我孫子武丸「叙述トリック試論」(一九九二)も外せないでしょう。

 実はある一時期、『探偵小説と叙述トリック』を読んで、(もうこれで、言い尽くされているかな)と思いかけたことがありました。しかし、『叙述トリック短編集』を読むと、(いや、まだまだ言われていないことがあるぞ)と奮起してしまった。なぜか。彼ら、筆力も知名度も持ち合わせた三人の「叙述トリック」に対する見解が、微妙に、いや、かなり異なっていることに気づいたからです。

 まず、一番新しい『叙述トリック短編集』のほうから紹介しましょう。同書は冒頭に「読者への挑戦状」というイントロダクションを持ち、次のように述べます。

 

【よく「叙述トリックはアンフェアだ」と言われてしまいます。これが叙述トリックというものの泣きどころです。では、アンフェアにならずに叙述トリックを書く方法はないのでしょうか? 答えはノーです。最初に「この短編集はすべての話に叙述トリックが入っています」と断る。そうすれば皆、注意して読みますし、後出しではなくなります。問題は「それで本当に読者を騙せるのか?」という点です。最初に「叙述トリックが入っています」と断ってしまったら、それ自体がすでに大胆なネタバレであり、読者は簡単に真相を見抜いてしまうのではないでしょうか? そこに挑戦したのが本書です。】

 

 そして、「叙述トリック」とはいったいどのようなものか、例示するのですが。

 

【「叙述トリック」とは、小説の文章そのものの書き方で読者を騙すタイプのトリックです。たとえば、

〈犯人は「事件の時に一人だった人間」である。主人公は事件の時、「松方」という人物と話していた。だから犯人ではない、と読者は思ったが、実は「松方」という人物は実在せず、主人公が作り出した妄想であった。つまり主人公は、客観的には事件時に「一人」だったのであり、犯人は主人公である。〉

 こういうやつです。この作品は主人公の視点で書かれており、(……)】

 

 しかし、小説における語りの技術や構造(いわゆるナラトロジー、物語論)に多少詳しい方ならば、ここで(あれ?)と首を傾げるのではないでしょうか。似鳥の例は、「信頼できない語り手」について述べたものであると見做しても、完全に成り立つからです。ならば、「叙述トリック」=「信頼できない語り手」なのか? と考えると、どうも違う気がする。

 ポイントは、「主人公が作り出した妄想」にあります。我孫子武丸は「叙述トリック試論」において、こうした例を「叙述トリック」の範疇から明確に除外していました。我孫子は同論の序盤で、(我孫子自身の感覚では一九九二年当時、一部熱心なマニアにはすでに衆知の用語だった)「叙述トリック」の、定義をまず提案します。

 

【小説における、作者と読者の間の暗黙の了解のうちの一つあるいは複数を破ることによって読者をだますトリック】


 そして、この定義だけではわかりにくいとして、一人称・三人称などの視点、および手記・手紙などの形式について実例を挙げています。「叙述トリック」の基本は「情報不足」、つまり言い落しであり、書かれるべきはずのことが書かれていない。その意味で「すべてアンフェア」であり、「完全にフェアな叙述トリックなど存在しない」。しかし「すべてアンフェア」だとしても、我孫子の考える「叙述トリック」には「最低限」のルールがある。少し長くなりますが、重要な部分なので引用します。

 

【視点の問題とも密接な関連がある問題として、「地の文には虚偽の記述をしてはならない」という鉄則がある。起きてもいないことを「起きた」と書くのはもちろん論外として、特に問題となるのは人物の呼び方である。例を挙げて説明する。

 神の視点である三人称記述において、Aという男性が、Bという女性に変装していたとする。Cは見たままを信じているとすると、Cは当然のことながらAのことを「Bさん」と呼ぶであろうし、第三者との会話では「彼女」と呼びもする。しかし地の文では「Bが……」と書いたり、「彼女は……」と書くことは許されないという考え方である。これは先に書いたように、鉄則であり、最低限守らなければならない数少ないルールの一つである。(……)

 三人称ではなく、前出のCを語り手とした一人称の場合はどうであろう。手記や手紙の形式なら、何も問題はない。書き手が誤解している場合何を書いてもおかしくはないからである。もっというと、手記や手紙、といったものはいわば「すべて信用できない」ものである。何が書かれていようと構わないのである。しかし、手記でも手紙でもない、「真の」一人称小説ではどうだろうか。また、神の視点ではなく、非常に一人称的な、一人の人物に密着した形の三人称ではどうだろうか。(……)

 手記以外での虚偽の記述を認めるわけにはいかない。

 叙述トリックはそもそも、意外な犯人として語り手を持ち出すために発明された――というか必然的に生じたトリックだと思われる。ただ、ごく卑近な例を挙げることをお許しいただけるなら、筆者が属していた京大ミステリ研の「犯人当て」においては、先の鉄則は絶対に守るべきものであったがために、逆にそれをばねとして様々なだましのテクニックが考案されたのである。この例を見るにつけ、東西のプロ作家達の思考も、似たような経過を辿ったのではないかと筆者は考えている。

 すでに「暗黙の了解」を破り、アンフェアの烙印を押された「叙述トリック」の取るべき道は、「嘘は書いていない」、これだけである。ここにしかその論拠は存在しない。しかるにその時、地の文に虚偽の記述といわれてもしかたのないような部分があるのは、「アンフェア感」を持たれる以上に致命的なことである。】

 

 この定義が、先の似鳥の例示(一人称の語り手の「妄想」を「地の文」として記述し、それを「叙述トリック」として読者を騙すために利用する)と相反することは明らかでしょう。注目すべきは、「(一人称・三人称を問わず)地の文にとって虚偽とは何か」という点です。それは翻って、「作中現実とは何か」という問いにもなるでしょう。誤解のないように付け加えれば、先の記述で我孫子は、「地の文で虚偽を書くことは小説として駄目」といっているわけではないのです。読者としての我孫子は「楽しくだまされたい」ので、「多少のことには目をつぶりたい」。ただし先のように、実作者として「叙述トリックなどを、たとえミスディレクションとしてのみにであっても使用する場合は、もっと厳密な立場になる」。

 さらに付言すれば、似鳥も『短編集』本編では、例示のような「一人称地の文で虚偽を書く」パターンは使用していません。「一人称地の文で虚偽を書く」小説は、実作として大量にあるし、似鳥・我孫子とも、読者としてはそれを許容する、という立場なのでしょう。しかし、実作者としては書けない。そして、「叙述トリック」という概念の定義としては、似鳥のほうがゆるく、我孫子のほうが厳しい。

 先に書いておくと、「叙述トリック」の定義における私の立場は、我孫子と同じく厳密派です。似鳥の例では「叙述トリック」が「信頼できない語り手」と混同されています。「叙述トリック」について明確に整理しようとすれば、やはり両者は区別せざるをえない。というか、似鳥は「叙述トリックのアンフェアさを乗り越える」と宣言して、実際には「信頼できない語り手」の例を挙げ、その上で我孫子が紹介しているような「叙述トリック」を用いた実作を書いているのですから、これは「読者への挑戦状」としては失敗なのではないか?(これも誤解ないよう付言すれば、私は、小説としての『叙述トリック短編集』自体はそれなりに充実している、と考えています。あくまでも、序文における「叙述トリック」の捉え方が、誤りではないか、としているのです)。

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