新・叙述トリック試論

孔田多紀

1-1 なぜ私はこの文章を書こうと思ったか

 これから始まる文章は、タイトルの通り、「叙述トリック」を中心テーマとして書いたものです。

 こういう文章に興味のある方は、おそらく「叙述トリック」という言葉をすでにご存知のことでしょう。これまで読んだことのある小説があれこれと思い浮かんでいるかもしれないし、幾分かイメージを持っているかもしれない。

 あなたは「叙述トリック」について、どう思いますか。「好き」ですか、「嫌い」ですか。それとも「どちらともいえない」ですか。いずれにせよ、「叙述トリック」という言葉が「気になる」のは、確かなはず。

 私自身を振り返ると、「叙述トリック」という言葉に出会ったのは、確か中学生の頃、二〇〇〇年前後だと思います。私は一九八六年生まれなので、日本においてこの概念のエポックとなった綾辻行人『十角館の殺人』(一九八七)とは同世代だと言っていいでしょう。で、「叙述トリック」について、

(これはちょっと本腰を入れて考えてみようかなあ)

 と思い始めたのは、数年前のことでした。

 元々、「叙述トリック」という言葉が、広く知られているわりにハッキリした定義を実は持っていないのではないか、ということには、薄々気づいていました。どこかの学生が卒論のテーマにしようとしたら、役に立つ参考文献が案外見つからなくて困った、というような例も、ウェブ上でチラホラ見ていました。

 でもまあ、有名な言葉だし、使われた実作もけっこう読んだし、ジャンルの歴史に造詣の深い人物だってプロアマ含めたくさんいるのだから、きっと誰かもう見識ある方がきちっと考察してくれているのではないか――と思っていたら、なかなか見当たらない。それどころか、優れた叙述トリック作品を多数ものしているはずのベテラン作家同士でさえ、かなり違う意見を持っているらしい、ということにも気づきました。

 私は、小説技法としての「叙述トリック」は、ある一時期において、その特徴を持つ実作群および熱狂的な読者層を形成し、そしてその開発は、とうにピークをすぎたと思っています。にもかかわらず、その形跡がまとめられず、いつまでも曖昧なまま雲散霧消しようとしている……。

(これはまずいのではないか? 「叙述トリック」について、いつか誰かが――誰もやらなければ自分が――書き留めておかなければならないのではないか?)

 といつからか思い、以来、参考になりそうな資料を、時々に思い立ってはいろいろ読んでいたのですが、その後、ある小説を読んで、いよいよ自分が書くべき時がきたかな、と思いました。

 その小説とは、似鳥鶏『叙述トリック短編集』(二〇一八)です。

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