第39話 ふたりの当たり前

 筑浦市とつくば市の境に位置する筑浦西部総合病院の個室では、検査着から着替えた静香がベッドに座っていた。

身体を起こし、白いカバーで包んだ毛布を足にかけている。

長く艶やかな黒髪はひとつに編まれ、胸元にかかっていた。


傍では、制服姿の大進が大柄な体を小さな緑の丸椅子に乗せている。

静香が口を開いた。


「イオンのサーティーワンでアイスクリームが半額なんですって。」

「そうなのでござるか。」

「さっき看護師さんから聞きました。」

「誰でも半額なのでござるかな。」

「……その辺は聞きそびれちゃいました。」


静香は窓の外に目を移す。


「そろそろ暑くなってきたでござるからな。」


大進はスマホを置いて立ち上がると、窓を少しだけ開けた。

まだ朝の雰囲気が残る初夏の風が、優しく静香の頬を撫でる。


「それにしても、何事もなくて良かったでござるな。」

「五浦さんはいつも大袈裟なんです。でも、検査も仕事のうちだから。」


静香は小さく微笑んで続ける。


「みんな何ともなくて良かった。私だけいつも検査が長くて嫌になっちゃいます。お昼までお医者様が戻ってこないから、退院の許可が出なくて。」


少し口を尖らせた静香が毛布の下の素足をぱたぱたと動かす。


「災難でござったな。拙者はここに用事があるゆえ、もう少し病院にいるでござるよ。」

「話し相手がいて、助かります。」


静香は大進に微笑んだ。

子供の時から、彼と何度この会話をしただろう。

長期の検査が入ると、病院で退屈し始める頃には、必ず彼が何か理由をつけて来てくれていた。


「母もお店で忙しいから果物だけ置いてさっさと帰っちゃって。すぐ退院なんだから、別にいいって言ったのに。」

「左様でござったか。そうだ、ひとついただいて良いでござるかな。」


静香は小さく頷く。

大進はテーブルの籠に置かれた林檎を手に取ると、鞄から小刀を取り出した。


「あら、林檎なら私が剥きます。」

「いいでござるよ。」

「お客さまにそんなことさせられません。」

「こういうの、お客さまっていうのでござるかな。」


笑いながら、大進は林檎と小刀を手渡す。

静香が丁寧に林檎の皮を剥く音が、病室の壁に吸い込まれていく。


「相変わらず上手でござるな。」

「大進くんが教えてくれたんですよ。小学生の時に。病院で。」

「ああ、そうだったでござるな。」


静香は皮を剥き終わった林檎を丁寧に切り分けて小さなフォークを刺すと、そのまま黙って大進の口に運んだ。


「うん、美味いでござるな。静香殿が剥いた方が美味しいでござるよ。」

「もう。誰が剥いても同じですよ。」


静香は小さく笑う。

大進がフォークに刺した林檎を静香の口元に運ぶと、彼女はくし切りの林檎を口に入れた。


「あ、本当に美味しい。そうだ、明日はアップルパイも焼こう。あかりちゃん、アップルパイ好きだから。」

「それは良いでござるな。」


風が小さくカーテンを揺らしている。


「ところで、大丈夫なんですか?」

「何がでござる。」


静香は大進と目を合わせずに続ける。


「化学のノートを返してもらう日でしょう?」

「ああ。」


窓から吹き込んだ風が、カーテンをふわりと揺らす。

大進は最後の林檎ひと切れを食べ終わってから答える。


「別に大丈夫でござるよ。柚原さんには、午後の授業で会うでござろうしな。」

「そう。」


静香は窓の外に顔を向けた。

なぜそんなことを聞いたのか、静香は自分でも不思議だった。


昨日の昼休みに、ノート片手に大進に駆け寄ったクラスの子のことを思い出す。

ふんわりと巻いた髪がとても柔らかそうだった。

ぱっちりした目がとても可愛い。

明るくて、誰の懐にもスッと入っていく。

男の子が好きなのは、ああいった子なのかもしれない。


静香は、その光景を頭から払うように、口を開いた。


「大進くん、明日の放課後のためにプリンをいっぱい作らないといけなくて。」

「おお、良いでござるな。今日学校が終わったら、久しぶりにイオンで沢山牛乳と卵を買うとするでござるか。」


当たり前のように笑顔で言葉を返してくれる。

私が欲しいと思っている言葉をいつも。


「帰りはアイスでも買って帰るでござるか。」

「イオンで?」

「半額なのでござろう。」

「えっ、でも。」


静香の白い頬がほんのりと赤く染まる。

今朝、旧知の女性看護師が耳打ちしていった言葉。


(カップルは半額だから、あのでっかいカレと一緒に行くといいわよ!)


その言葉が頭に何度も繰り返している静香に、大進が声をかける。


「今、公式SNSを見たら、誰かと二人で行けば半額になるみたいでござるな。姉妹でも、親子でも、友達同士でも、って書いてあるでござるよ。」


そう言って彼はスマートフォンの画面を差し出す。


「あ……そうなんですね……。」


彼女は気が抜けたような声で返した。


(私、なぜ少しがっかりしてるのかしら。)


静香は小さく息をついて気を取り直す。


「私、チョコミントにします。」

「拙者はストロベリーチーズがいいでござるな。」

「あ、私もそれがいいかも……。」

「二段重ねはさらに10%オフでござるよ。」

「それにします!」


静香は満面の笑みで答えた。


「そうと決まったら……ああ、早くお医者様来ないかな。」

「アイスの前に学校でござるな。」


大進はいつものように優しげに微笑んだ。

静香は笑みをたたえたまま、彼の顔を見る。


病室で教室で、帰り道で。

いつも当たり前のように彼は一緒にいてくれた。


でも、その当たり前は、いつまで当たり前なんだろう。

今まで胸をかすめもしなかったその問いから気を逸らすように、静香は再び窓の外に目を移した。

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