第24話 月がよく見える、静かな夜になるといい

 新誠学園高校旧校舎近くの中庭。

一人で摂るいつもの昼食と、オンラインゲームのデイリークエストを終えた一真は、教室に向かって歩いていた。


「御堂さん。」


珍しくかけられた声に一真が顔を上げると、目の前にショートカットの女生徒が立っていた。


「幸田先輩。」

「ポケットに手を入れて下向いて歩いていると危ないわよ。」

「校則にありましたか。」

「無いけど、危ないものは危ないわ。」


一真はポケットから手を出すと、無言で幸田早希の横を通り過ぎようとする。

早希は彼を呼び止めるようにして口を開いた。


「なぜ剣持先輩の誘いを断るの。中等部では彼から生徒会長と剣道部主将の座を引き継いだじゃない。」

「あの時はそうでしたね。」


構わず通り過ぎようとする一真の腕を、早希が掴む。


「彼はあなたに期待してるの。中等部の頃のように、また一緒に学校を良くしていこうと思ってくれてるのよ。もう一度考えてみてくれないかしら。」

「……またその話ですか。」


一真の切って捨てるような言い方に、早希は不機嫌を隠そうとせずに畳みかける。


「御堂さん、あなたは……!」

「……何度来ても同じですよ。」


一真は早希の手からそっと腕を引き抜くと、再び歩き始めた。


「私は。」


早希の震える声に一真が立ち止まる。


「私は正直、あなたが生徒会に来ようが来まいが関係ない。」


彼女は続ける。


「剣持さんが何故あなたにこだわるのかわからない。生徒会は今のメンバーでも十分にやれるわ。」


早希は『生徒会用』とラベルが貼られたタブレットを両腕で抱えこむようにし、強い口調で言い放った。

少しの間をおいて、一真が口を開く。


「ならいいじゃないですか。それに……」


一真が続ける。


「それは剣持先輩に言うべきことです。俺にじゃない。」


早希はタブレットを持つ自分の手が小さく震えていることが気がついた。

何かを見透かされたような気がした。

そもそも、なぜ私はここでこんなことをしているのだろう。

怒りと悔しさと恥ずかしさが混ぜ合わさり、心に吹き荒れていた。


「……後悔するわよ。」


早希が自分の言葉に思わず口元を抑えたその時、昼休み終了10分前を知らせる予鈴が校庭に響いた。


「そうだ。」


一真が立ち止まり、口を開く。


「剣道部での、先輩の真っ直ぐな太刀筋を思い出しました。剣持先輩がいつも褒めてましたよ。」

「それが……何よ。」

「別に。思い出しただけです。それじゃ。」


まだ生徒のざわめきが校庭に残る中で、一人佇む早希。

うつむき、震える唇を引き結ぶ姿を、誰にも見られていないことを祈っていた。



 篠宮良子の視線の先には、歩き去る一真と、その場に残されて俯いている女子生徒の姿があった。

彼女は旧校舎の外れにある教師用出入り口から、遠くに見える一真と女子生徒の一部始終を見ていたのだった。


「一真が女の子といるなんて珍しいわね。あれは確か生徒会の子だったかしら……。」


良子は細い指を自分の頬に当てて考え込む。


「そもそも、一真が誰かといること自体が珍しいし、なんかおかしなことになってなければいいのだけど。」


その時、校庭の方から彼女を呼ぶ声が届いた。


「篠宮先生。」

「あら、上村先生。」


声をかけたのは、学年主任の上村だった。

穏やかな顔立ちに、半袖のワイシャツからはよく日焼けした腕がのぞいている。


「今日も旧図書室ですか。たまには本校舎にも顔を出してください。皆が寂しがる。」

「何だかこの学校も綺麗になっちゃって、古い校舎の方が落ち着くんです。歳ですかね。」

「おいおい、まだそんなこという歳じゃないだろう。」


上村は笑って答える。

いつの間にか、彼女の担任教師だった頃の口調に戻っていたようだった。


「六年前も、君はこっちの校舎が好きだったからね。図書委員も長かったしな。」

「よく覚えてますね。」


良子はふっと笑顔になる。


「そりゃ自分の教え子のことはみんな覚えてるさ。君もあと何年か教師をやればわかるよ。」


上村は六年前に比べて少し皺が増えた顔で笑った。


「そういえば、今日は満月だってね。」

「そのようですね。曇らないといいなと思ってるんですけど。」

「そうだな。今日は家で息子と一緒に見る予定なんだよ。」


子供の話をする時に見せる上村先生の優しげな顔は、六年前と変わらなかった。


「おっと、時間だ。今夜は月がよく見える、静かな夜になるといいな。」

「そうですね。」


いそいそと職員室に向かう上村を、良子は手を振って見送る。

長く天文部の顧問を務めている上村先生は、毎回満月が来るたびに口癖のように同じことを言っては、生徒逹から揶揄われていたものだった。

そんなところも六年前と変わっていなかった。


しかし、同じ言葉をかけられても、その捉え方が変わる時もある。

良子は額にかかる前髪を少し払い、空を見上げた。


確かに、月がよく見える夜だといい。

夜間でも研究対象の動きが視認しやすくなるからだ。

満月と次元獣の相関関係は不明だが、月の満ち欠けは説明変数のひとつだと分析チームから報告が上がっていた。

六年という時が経ち、月は昔と同じように空に昇っても、それを見る自分はすっかり変わってしまった。だがそれでも。


『月がよく見える、静かな夜になるといい』


そう願っていることだけは変わっていなかった。


良子は薄く雲が流れる空を見つめる。

その時、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。

梅雨の空気が残る風が、良子の髪を揺らす。

新誠学園高等学校の、いつもの昼休みが終わろうとしていた。

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