第21話 前夜(3)
旧校舎のC教室は夜の闇に覆われ、静まり返っていた。
室内へと続く隠し階段を抜けた久遠は、スマートフォンのライトを灯す。
(さすがに深夜の教室はちょっと怖いな……)
暗い室内に机と椅子が整然と並んでいるだけの光景が、彼を少し不安な気持ちにさせた。
ふと、彼は廊下の方から薄い明かりが入っていることに気がついた。
教室の引き戸を開けると、旧図書室の開いた入口から薄く明かりが漏れている。
ゆっくりと踏みしめる廊下の敷板がきしみ、小さく音を立てた。
久遠はそっと旧図書室の中を覗く。
書棚が並ぶ室内は闇に沈み、奥の一部分だけに蛍光灯の明かりがついている。
司書教諭室のデスクには、篠宮良子が机に両肘をつき、手の甲に頭を預けるようにして静かに寝息を立てていた。
束ねた長い髪が、いつものカーディガンの上に載せられている。
最近は白衣を着た彼女の姿に慣れていたこともあり、ふと数ヶ月前に戻ったような懐かしい錯覚を覚えていた。
声をかけようと旧図書室に足を踏み入れたその時、良子の髪が揺れる。
篠宮良子は少し掠れた、力の無い声で先に声をかけてきた。
「
久遠の足が止まる。
「また本を読みに来て……。夜は早く寝なさいって言ったじゃない。」
彼女はそう言いながら目を擦り、ゆっくりと体を起こして入口に目を向ける。
入口に立ちつくす久遠の姿を見て、篠宮良子は大きく目を見開いた。
小さな口元は何か伝えようとし、瞳はわずかに潤んでいるようにも見えた。
「……久遠くん。」
まるで一瞬のうちに長い夢から覚めたように、良子がはっきりと声をかける。
「……起こしちゃってすみません。篠宮先生。」
「ううん。仕事が溜まってるから少し片付けに来たんだけど、まるで寝に来たみたいね。」
「疲れてるんですよ。」
「そうかも。」
良子は大きく伸びをする。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
「うーん。」
すらりと長い腕を宙に伸ばしたまま答える。
「今日はいいかな。カフェインはもう入んなくて。ごめんね。」
机の上にはマグカップに入ったままのコーヒーと、袋が開いていないフィナンシェが並んでいる。
「また食べてないんですか?」
「後で何か食べようかなって思ってたんだけど、何だか今日はいいやって。」
良子は作り笑いを浮かべる。
「少しでも入れておいた方がいいですよ。何か食べられそうなものあります?」
「甘い飲み物ならちょっといけるかも。」
久遠はふと思いついて、手に提げたビニール袋を探り、お汁粉の缶を取り出す。
「お汁粉だー。今の時期珍しいね。私、結構好きなんだ。」
良子の顔に少し生気が戻ってきたように見えた。
しかし、彼女の視線は宙で止まり、表情を失っていく。
やがて右手で腹部を押さえると、少しうなだれた。
「やっぱ今はだめかな。後で落ち着いたら飲むね。ありがと。」
良子は机に頭をのせるようにして、笑顔を彼に向ける。
「本当に、無理しないでくださいね。」
久遠は袋からまだ温かい缶を数本取り出すと、図書カウンターに並べた。
「それじゃ、また明日。」
「うん。よろしくね。」
頭を下げて旧図書室を後にする久遠を、彼女は笑顔で見送った。
◇
静まり返る室内。
程なく、遠くで旧校舎の扉が閉まる重い音がすると、良子はゆっくりと立ち上がった。
図書カウンターの上に置かれたお汁粉の缶を手に取る。
まだほんのりと残る温かさが彼女の小さな手に伝わる。
缶を開けて口をつけると、甘い香りがした。
「……気にしてなければいいんだけど。」
旧図書室の引き戸を開けて出ていく久遠の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
「気にしないわけないか。」
良子はそっと目を伏せた。
調査の大小に関わらず、その日が近づくと何をしても気持ちが落ち着かない。
やることは全てやった。
でも何かが足りないかもしれない。
そんな考えが巡るたびに、食事も喉を通ることなく、ようやく訪れた短い眠りからも、すぐに現実へと引き戻されてしまう。
「こんなんじゃ、また君に笑われちゃうね。彼方。」
良子は俯いたまま、小さくつぶやいた。
薄暗い室内で、古い時計が刻む音がだけが響く。
少し寂しそうな表情を隠した久遠の横顔を思い出す良子。
七つも下の子が連日遅くまで続く仕事を終えて、訪ねてきた。
私のことを心配してくれたのかもしれない。
彼は人のことを考えることができる子だ。
もしかしたら、何かを話したかったのかもしれない。
いくらしっかりしていも、彼はまだ高校一年生だ。
そして彼が帰る部屋には誰も待つ人がいないことを知っている。
そんなことを考えることもできなかった自分を悔やむ。
ただ自分をすり減らすばかりの毎日で、余裕を持つことができない自分を責めたくなる。
これは自らが選んだ道だというのに。
良子は小さな白い手を、そっと自分の頬にあてる。
「ごめんね。」
発した言葉は誰に届くこともなく、旧図書室に並ぶ本棚に吸い込まれていった。
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