第16話 静香の秘密

 「洗いものはこれで全部?」


久遠が食器洗いスポンジを片手に、傍の静香に声をかける。


「はい。すみません、手伝っていただいて。」

「こちらこそ、いつもあんなに美味しいお菓子を作ってくれるのに、洗い物くらいしかできなくて……。」


久遠が白騎士と邂逅してから数日後。

彼と諏訪内静香は珍しく旧図書室の一角にいた。

C教室でのお茶会で使う食器が多い時は、旧図書室にある広い洗い場を使わせてもらっていたのだ。


「お菓子作りは私が好きでやっていることですから。それに……。」


静香が続ける。


「みんなが美味しいって言ってくれるから、次は何を作ろうかなって、楽しみになっちゃうんです。」


静香がお皿を洗いながら、隣の久遠に微笑みかける。

彼は、彼女が見せる美しい笑顔に思わず見惚れそうになってしまった。


白い肌の整った顔と、背中まで伸びる長く艶やかな髪。

子供の時から茶道や弓道などの習い事を続けていたらしく、ひとつひとつの所作がとても綺麗だ。


久遠が知っている同級生の中でも群を抜く美しさに思えた。

ただ、彼女はその美しさを意識的に抑えているように見え、周りに目立たず溶け込むことに長けているところがなんとも不思議だった。


静香が食器を洗いながら、久遠に話しかける。


「久遠くんは、何か好きなお菓子とかあります?」

「うーん、そうだな……。」


その時、久遠の頭上でカタンと小さな音がした。

彼が視線を上げた瞬間、流し台の上にある小さな棚のガラス戸から、ティーカップが今にも滑り落ちそうになっているのが見えた。


「あ……!」


両手が塞がっている久遠が慌てて布巾を持ったままの手を伸ばそうとした、その瞬間。

彼に向かって滑り落ちるはずだったティーカップは、宙で傾いたままぴたりと静止していた。

呆気に取られている久遠の目の前に、静香の白く細い腕が伸ばされる。

ティーカップはふわりと宙を漂い、彼女の手のひらの上に、すとんと収まった。


「今の、内緒ですよ。」


静香は右手の人差し指をスッと口元に持ってくると、小さく笑った。


「学校ではやらないようにしてるんですけど、油断してるとついやっちゃうんですよね。私そそっかしいから。」

「でも、諏訪内さんのおかげでティーカップは無事だったし、僕も頭でティーカップを受け止めずに済んだよ。ありがとう。」


静香はこくりと頷くと、再び洗い物を続ける。

白い頬がほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。


(篠宮先生の話、本当だったんだな……)


久遠の脳裏に、ティーカップが宙で止まり、ゆっくりと静香の掌に降りていく様子が再生される。

UNITTEに加入した直後、彼は篠宮良子から諏訪内静香が持つ「特別な能力」の話を聞いていたのだった。


『静香が自分から話すまで、このことは聞かないであげてね。』


良子はそう彼に告げており、久遠は忠実にそれを守っていた。

筑浦研究所の中では公然の秘密だが、新誠学園の生徒でこのことを知る人はUNITTEに所属するメンバー以外にはいなかった。

久遠自身も彼女の「特別な能力」を実際に目にするのは初めてのことだった。


   ◇


 十五年前の外的脅威の侵攻から一年も経たないうちに、まことしやかに語られるようになったことがある。


念動力や人体発火などのいわゆる「超能力」を顕現する者が現れたという噂だ。

それは日本に限らず、世界各国で同じ現象が起きていた。


最初は町の噂話や小さなコミュニティ内での口コミだったが、当時のウェブサイトやブログ、徐々に普及しつつあったSNSには、連日のように不可思議な能力を無邪気に披露する子供や若者の画像が上がり始めていた。


やがてメディアでも報道されるようになり、それが単なる噂話ではないことに人々が気づくようになると、外的脅威がもたらした新しい人の変化であると一部で持て囃されるようになった。


米国のトーク番組で紹介されたことで、それはひとつのピークを迎える。


「Everyone,This is the ability that transcends the ability of human.」

(みなさん、これは人の能力を越える力です。)


全米で絶大な人気を持つ女性司会者が目を輝かせて紹介したその言葉が、その不可思議な能力に新たな名前を与えることとなる。

その日からそれは『超越力トランセンズ』と呼ばれるようになった。

人智を越える外的脅威という存在を目の当たりにし、人々は潜在的に「人を越える力」を求めていたのかもしれない。


しかし、人々の予想を裏切るかのように、その話題は急激に収束していく。


理由はいくつも考えられたが、そのひとつはまず「そもそもの人数が少なかった」ということだ。

それに加え、実際には能力を持たない人間がトリックなどで偽って話題を集めるようになると、人々の興味は急速に失われていった。


そして、人の力を越えるとされた超越力の大多数は、よくできた手品と相違ないほどの能力でしかなかったことも、人々の期待を大いに削ぐこととなる。

特に「超越力トランセンド」の軍事利用を考えた組織は、ことごとくその期待を裏切られることになった。


能力の大小や中身はあまりにも個人差が大きい上に、異様にコントロールが難しかったのだ。

少なくとも高度に発達した近代戦においては、それらの能力から得るものは何もないと判断され、各国に競うようにして作られた研究機関は、あっという間に姿を消していった。


やがて能力者の多くがその能力を顕現することから発生する様々な「面倒」を恐れ、その力を隠して生きるようになると、超越力という存在は大多数の人々の記憶から消えようとしていた。


 久遠は静香が見せてくれた不思議な力から話題を変えようと思い、口を開いた。


「そうだ。さっきの話。僕プリンが好きなんですよ。」

「まあ。素敵!」

「子供っぽいってみんなに言われるんだけど。」


照れ臭そうにしている久遠の横顔を見ていた静香の顔がパッと明るくなる。


「どんなプリンですか? 固いのも、柔らかいのもいいですよね。チーズやチョコレート入りもあるし、何でも作れますよ!」

「そ、そんなに色々あるんだね……。」

「そうなんです。これは迷いますよね……。」


静香は宙を見ながら何やら考えていたが、手をぽんと打つ。


「そうだ、いっそのこと全部作りましょう! 来週はプリン尽くしにします!」


そう宣言すると、彼女は今にも待ちきれないような笑顔を見せながら、バスケットに食器を納めていく。

久遠はそんな彼女の笑顔を見ながら、旧図書室の引き戸を開けてあげようと出口に近づいていった。


「あれ……?」


引き戸の窓から、C教室の前に制服姿の男女が立っているのが見える。

腕には何やら腕章をつけているようだ。


「あれは……生徒会さんですね。」


久遠の横で、バスケットケースを下げた静香が小声で囁く。

様子を伺っていると、長身の男性は今にもC教室の引き戸にノックをしようとしていた。

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