第11話 六月の陽射しに
「あー、疲れたー。」
あかりはデッキブラシを片手に、大きく伸びをした。
梅雨の晴れ間に見えた午後の太陽が彼女を照らす。
UNITTE支給Tシャツの上に学校指定のジャージを羽織り、ハーフパンツの裾からは、しなやかな素足が伸びている。
「まだ終わっていないぞ。手を動かせ。」
前方にいる一真は黙々とデッキブラシを動かしている。
「うるさいわね。元はと言えばあんたのせいでしょ。」
あかりの脳裏に、昨晩の出来事が浮かぶ。
◇
再開発地域でのフィールドワークで盛大に水溜りに突っ込み、泥だらけになった二体のディメンジョン・アーマー。
乾いた土が全身にこびりついた灰色の機体をメカニックチームに引き渡したあかり達を、リード・エンジニアの南ひろ子は暖かく迎え入れた。
責任者の良子と共にうなだれているあかりと一真に、南はにこやかに声をかける。
「近接調査員は汚すのも仕事のうち、メカニックは洗うのも仕事のうちさ。全然、全然、気にすんじゃないよ。」
にこやかな表情を維持しながら、南の声に力が入る。
「ただ、坊ちゃん嬢ちゃん達があーんなに体力が余ってるなら、ちょっとばかし頼みたいことがあるんだけどね。」
◇
彼女の言う頼み事とは、新誠学園高等学校から少し離れた場所にある屋外プールの清掃だった。
元は民間のフィットネスクラブが所有していた五〇メートルプールだったが、現在はUNITTEの所有となり、新誠学園を始めとする近隣の教育機関などに貸し出しも行われていた。
「城戸さん、僕は水撒きばっかりだったから、ブラシと代るよ。」
Tシャツ姿の久遠が声をかける。
「ごめんね、久遠くんまで巻き込んじゃって。」
「ううん。あと少しだから、頑張って終わらしちゃおう。」
なぜか久遠たち高校生チームが連帯責任ということになってしまったことには触れず、彼はにこやかにホースを手渡す。
「聞いた? 久遠くんの気遣い。誰かさんとは大違いよね。」
あかりはジャージを脱いで腰に巻き付ける。
「俺は気遣う相手を選んでるだけだ。大進たちを手伝ってくるぞ。」
「何よもう。感じ悪。」
勢いよく飛び出している水で一真の後ろ姿を狙ってやろうとホースの先を彼に向けようとした瞬間、あかりはプール底のぬめりでバランスを崩す。
「ひゃっ……」
ホースを持ったまま後ろに倒れそうになった彼女を、久遠は慌てて受け止めた。
宙で踊ったホースが二人に容赦なく大量の水を浴びせる。
六月に入ったとはいえ、まだまだ冷たい水を頭からかぶり、二人は揃って小さな悲鳴をあげた。
後ろの久遠に身体を預けているあかりと、後ろから抱きすくめる形になった久遠。そのままの姿勢で硬直している二人を、雲間から覗く六月の陽射しが照らしている。
「……ありがと、久遠くん。」
「う、うん……。その、危ないとこだったね。」
あかりの濡れた髪が、上気した頬に貼り付いているのが見える。
Tシャツ越しに彼女の体温と柔らかな感触が伝わってくる。
それに加え、ただでさえ存在感がある彼女の胸の膨らみに沿うように貼り付いたTシャツが目に付くと、久遠の顔はあかり以上に真っ赤になっていた。
「……。」
久遠は黙って彼女から離れると、プールサイドに置いてあったタオルと自分のジャージを手にとり、何も言わずに彼女に差し出す。
あかりは自分のぐっしょり濡れたTシャツを見て久遠の意志を察すると、彼に背を向け、乾いたタオルで髪を拭った。
渡してくれたジャージに袖を通すと、顔を赤らめたままデッキブラシを拾う。
「……掃除の続き、しちゃおっか。」
「うん、そうだね……。」
ホースから流れる水の音と、ブラシとプール底のこすり合わされる音だけが聞こえる。
(案外重かった、とか思われてたらどうしよう……。)
(細くて頼りない、とか思われてたらどうしよう……。)
二人は雑念を振り払うように、デッキブラシを黙々と動かし続けた。
◇
彼らがプールを掃除し終えた頃、用具室の掃除から大進達が戻ってきた。
「あかりちゃんが久遠くんのジャージを着ている?」
首を傾げる静香の前で、思わず同時に目を逸らす二人。
プールの入り口が開き、良子が顔を出す。
「みんな、お疲れー。アイス買ってきてあるから、シャワー浴びてきなー。」
「やった、アイスだ! 静ちゃん、行こ!」
あかりが静香の手をとってシャワー室に駆け出す。
「拙者達も行くとするでござるか。」
大進はそう言うと、大柄な手で久遠の背中を叩いた。
◇
屋外プールに併設された更衣スペースにあるシャワー室の温かいお湯で身体を流した久遠は、タオルで身体を拭きながらひと息をついた。
「すまないでござるな、プールの方を頼んでしまって。」
「いいよ、くじ引きだし……」
と言いかけた言葉が思わず止まる。
トレーニングパンツに上半身裸で髪を拭いている大進。
鎧のような厚い胸板と細く引き絞られた腹部には、まるでマジックで線を引いたようにはっきりとした線を描く筋肉がついている。
思わず久遠は自分の細い上半身と見比べてしまっていた。
久遠の様子に気がついたのか、大進が笑いながら声をかける。
「幼い頃から忍者修行でござったからな。体ばかり大きくなったでござるよ。」
「いいなあ。僕、中学時代は病院にいることが多かったし、スポーツも止められていたから……。」
「そうでござったか。」
「高校に入ったら運動部に入って身体を鍛えようかなと思ったんだけど、図書委員会に入っちゃったからね。」
久遠は笑いながらそう言うと、足元の鞄から替えのTシャツを取り出した。
「研究所にはトレーニング室があるので、久遠もそこで鍛えると……。」
大進の言葉が思わず止まる。
彼の視線の先には、久遠の背中にある大きな傷跡があった。
肩甲骨辺りから一直線についた傷は、最近のものでは無いように見えた。
(刀傷のようでござるが……。)
幼少から忍者として訓練を受けてきた大進にとって、刀傷を見るのは初めてのことではなかった。
目立たないが、大進自身の身体にも訓練や任務で刻まれた様々な傷がついている。
それでも久遠の優しく幼い顔立ちに大きな刀傷は似つかわしくないように思えた。
(この時代、誰もが何かしら「傷」を持っているでござるが……)
大進の脳裏には、俯いた静香の後ろ姿が浮かんでいた。
十五年前の外的脅威の侵攻からその後、人類は長期に渡って大きな痛みを経験することとなった。
戦争、テロ、災害。
それに伴う経済や社会の混乱。
心をすり減らした人々の間で絶えず繰り返される大小の諍い。
六年前、本当の意味で世界が手を携えるまで、それらに無縁の者は皆無だった。
人々は誰もが何かしらの傷を持っていた。
それは身体についた傷でもあれば、心に刻まれた見えない傷もある。
普段は明るく軽口を言い合うクラスメート達も、親族や友人を理不尽に失っている者が少なくなかった。
大切な人を失わないまでも、長く患う怪我や病、経済的な困窮、予期せぬ別れ、意図しない争いなどまでを含めるならば、誰もが傷を持っているという言い方は、決して大袈裟ではなかった。
「三人ともー。アイス溶けちゃうよー?」
室内まで通るあかりの声と、男子更衣室のドアを叩く音に、大進はハッと我に返る。
「相変わらずでかい声だな。」
すでに制服に着替えていた一真が、ゲーム機をスリープモードに切り替えて立ち上がる。
「大進君、アイス溶けちゃうってさ。」
いつの間にかTシャツに着替えていた久遠が、大進に声をかける。
「おお、そうでござるな。」
「珍しいね。ボーッとして。」
「うむ、面目ない。拙者だって考え事することはあるでござるよ。」
「そうだよね。今度筋トレ教えてよ、大進君。」
いそいそと制服に着替えながら久遠が声をかける。
「いいでござるよ。身体作りも忍者修行でござるからな。」
「忍者流の筋トレかあ。かなり効きそうだね。」
「……大進の筋トレは半端ないぞ。」
一真が、その口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて付け加える。
「え、そうなの?」
「人に合わせた修行をするのが、我が一族の忍術でござるからな。最初はそれほどでも無いでござるよ。」
「最初は、かあ……。ついていけるかな。」
久遠の不安そうな顔に、大進は思わず微笑んだ。
きっと、傷のない人はいないのだろう。
多分、どんな時代でも。
傷を抱えたまま前に進んでいく人だけがいるのだ。
同じく傷ついた人達と共に。
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