第9話 あかり、一年五組に行く
新校舎の廊下には、始業前の朝の光が降り注いでいた。
新緑の間を抜けてくる朝の光が、夏服姿の城戸あかりを照らしている。
朝の挨拶や取り留めない会話が聞こえてくる始業前の雰囲気を、彼女は結構気に入っていた。
あかりは少し早い足取りで、普段は訪れない階の教室へ向かっていた。
右手には白いスタイラスペンが揺れている。
あかりはふと昨夜のことを思い出していた。
◇
「城戸君。」
訓練が終わり、制服に着替えて研究所を出ようとしていたあかりを呼び止めたのは、分析チームの北沢主任だった。
実直で愛妻家。
研究所内外から信頼が厚い研究者だ。
「北沢主任。おつかれさまです。」
「帰り際に呼び止めてすまないな。城戸君は、和泉くんとは学校で会うことがあるかな。」
「いえ……」
あかりは一瞬考えた後に、彼に問い直す。
「何かあったんですか?」
「スタイラスペンを忘れていったみたいでね。誰かに届けてもらおうと思っているんだが……。」
学校支給のスタイラスペンには学籍番号と名前が刻印されている。
白い表面に綺麗に刻まれているのは、確かに和泉久遠の名前だった。
「学校で会わないようだったら、篠宮くんに頼んだほうがいいかな。」
「あ、大丈夫ですよ。私が明日渡しておきます。」
「そうか、すまないな。よく使ってるようだから、無いと困るんじゃないかと思ってね。」
そう言って彼は白いスタイラスペンを手渡した。
「ところで、どうですか、その……和泉くんは。」
「ああ、とても良くやってくれているよ。よく気が回るし、熱心だしね。他の研究員からも評判がいいみたいだ。」
「そうなんですか。」
彼女の顔が明るくなる。
その時、あかりの制服の背中を大きな手のひらが叩いた。
「わ、南さん。」
「あかり、今帰りかい?」
ツナギの胸元を大きく開けて中の黒いシャツを覗かせた、大柄な女性が立っている。
メカニクス部門のリード・エンジニアである南ひろ子だ。
「今、和泉君の話してた?こないだあの子にエクセルのマクロを見てもらってね。今度改めてお礼を言おうと思っててさ。」
「ああ、こないだの……。君もそのくらい自分でやりたまえ。」
北沢主任が小さくため息をつく。
「いいだろう? 別に。」
渋い顔をしている北沢を横目に、南が続ける。
「和泉君、マクロを直すのに色々調べてくれたみたいでさ。いい子だよね、彼は。」
南の屈託のない笑顔に、あかりは思わず小さく頷いた。
「ところで、また彼に頼みたいことがあるんだけど……。」
「……待ちたまえ。分析チームの仕事もあるんだ。」
「いいじゃないか、少しくらい。」
二人がいつも通りの言い合いに発展していくのを、あかりは手の中の白いスタイラスペンを見つめながら聞いていた。
「へえ……。」
その表情が心なしか緩んでいるのを、北沢や南はもちろん、あかり自身も気がついていなかった。
◇
程なく、あかりは久遠がいる一年五組の前にたどり着いた。
彼女が在籍している一組とは階が異なるため、滅多に訪れることはない。
あかりは外の窓に映る自分の姿を見て、前髪を直す。
(別にわざわざ届けに来なくても良かったかな。)
窓に映る自分に問いかけるようにして小声で呟く。
(でも、次会うのは来週になっちゃうし、いいよね。)
あかりは身を翻すと、開いたままの教室の入り口から中を伺った。
教室の中は始業前の生徒達で騒がしい。
程なく、窓際の後方の席で教科書用のタブレットを見ている久遠の姿を見つけた。
「久遠君。」
よく通るあかりの声に、教室のざわめきが一瞬静かになる。
(あ、いけない。)
あかりは内心では焦りつつも、涼しげな優等生の表情を崩さない。
ペンの刻印を読むようにして「和泉 久遠くん」と付け加える。
「……城戸さん?」
あかりに気がついた久遠は、慌ててタブレットを机に置くと、彼女の立つ教室の入り口に近づいた。
「これ、落とし物です。名前が書いてあったから。」
「ありがとうございます。でも、どこで……」
久遠はハッとして言葉を止める。
「図書室。」
「え?」
「図書室に落ちてました。」
あかりが一瞬、目で何かを訴えるのがわかった。
「あ……た、確かに落としたような……。わざわざ届けてくれて、ありがとうございます。」
「よかった。それじゃ。」
あかりは表情をほとんど変えずに軽く会釈をすると、柔らかな髪と、きっちり結んだリボンタイが小さく揺れた。
その姿に、久遠は初めて彼女に図書室で出会った時のことを思い出していた。
◇
突然の来訪者が去り、ざわめきを取り戻した一年五組の教室。
その喧騒の一部は久遠に向けられた好奇心であることに気が付いた彼は、早足で席に戻り、タブレットに潜り込むようにして再び液晶画面に目を落とした。
「和泉って、城戸さんと何か絡みあんのー?」
急に投げかけられた遠慮のない声に、久遠は若干血の気が引いた。
声の主は、辻野達のグループの子だ。
同じクラスだけど、ほとんど話したことはない。
「いや、別に。何も……。」
彼がタブレットから目を上げると、窓際の机に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、こちらを見ている女生徒の姿が目に入った。
「ほんとにー? それならわざわざ教室まで来るかな。」
チュッパ・チャップスを片手に目を輝かせているその姿からは、混じり気のないピュアな興味本位が見てとれた。
言葉に詰まる久遠に思わぬ助け舟を出したのは、同じ図書委員の辻野真由だった。
「図書室じゃね。あの子、来るよね新図書。」
いつものように眠たげな目をスマホから離さず、ぶっきらぼうに喋る。
「あー、なんか納得。そういや真由、図書委員だもんね。マジ似合わね。」
「ムカつく。」
辻野はスマホをいじりながら、女生徒の足を指でつつく。
毎日のように図書室に出入りする久遠が知る限りでは、あかりを見かけたのは先日の一度きりで、辻野が見かけることは考えづらい。
助け舟を出してくれたのは間違いないだろう。
女生徒も急に興味を失ったのか、他の女生徒達と別の話題を始めていた。
久遠は自分が興味のターゲットから外れたことに気がつくと、こっそりと教室を抜け出した。
(飲み物でも買いに行って落ち着こう……)
廊下に出て、ようやく小さなため息をつく。
すると、二階に上がる階段の方から、城戸あかりが辺りを伺いながら手招きをしているのが見えた。
久遠は周りを見渡してから、小走りに彼女に駆け寄る。
二人は階段側の大きなコンクリートの壁に隠れるようにして向かい合った。
「城戸さん。」
「ごめん、やらかしちゃった。何か言われなかった?」
「……ううん、別に。その、ありがとう。届けてくれて。何か嬉しかった。」
久遠の言葉に、あかりは照れくさそうに微笑む。
「じゃあ、またね。」
あかりは軽やかに身を翻すと、二階へと階段を駆け上がっていく。
久遠はその姿を見届けると、小さく息をついた。
「じゃあ、またね、だって。」
「うわ!」
振り返ると、辻野真由がスマホを眺めながら廊下の壁にもたれかかっている。
「何、付き合ってんの。」
「え! 違うよ!」
「部屋に置き忘れたとかそういうやつ? やーらしい。」
「なんでそうなるの!?」
「いーよね、あの子。可愛いし、胸もおっきいし。」
「本当に違うんだって。その、……篠宮先生の関係で、ちょっと知り合っただけだから。」
「何だ、つまんな。」
辻野は本当につまらなそうな顔になり、小さく息をついた。
「辻野さん、さっきはありがとう。助けてくれて。」
「別に助けてないし。それに、新図書室の前であの子とちょっと喋ったことあったしさ。」
「そうなの?」
「こないだ、図書カウンター当番を早上がりさせてもらったじゃん? そん時に、廊下で『まだ図書室開いてますか?』って聞かれたんだよね。あの子に。」
眠たげな目を少しだけ宙に向ける。
「本を借りるだけにしては何かちょっと思い詰めてたっつーか、緊張してたっつーか。ひょっとして、その後に何かあったのかと思って。」
あかりがお茶会に誘いに来てくれたあの時だ。
それにしても、女の子はなぜこんなに鋭いんだろう。
「それに。」
辻野はスマホをいじりながら続ける。
「あれ以来、和泉、ちょっと楽しそうじゃん。」
「……そうかな。」
久遠は無意識に自分の頬に手を当てる。
「……そう見えるかな。」
独り言のように答える彼を、辻野はスマホに顔を向けたまま、目の端で追っていた。
予鈴が鳴り、廊下の生徒達が慌ただしく教室に戻り始める。
「ま、別にいいんだけど。ホームルーム始まっから、戻ろ。」
辻野が身を翻すと、黒い髪を高めに結んだポニーテールが揺れた。
(いつもスマホばかり見てるし、ぶっきらぼうだけど、案外気を使ってくれる子なんだな。)
彼女の後ろ姿を見ていた久遠は、少しだけ心がほぐれていることを感じていた。
そんな彼の心を知ってか知らずか、辻野がふと呟く。
「それにさ。」
スマホから目を離さずに歩きながら続ける。
「どっちかっつーと、篠宮の方かなーって思ってたし。和泉は。」
「なっ!?」
彼女を追いかけながら懸命に釈明する久遠の言葉を背中で聞きながら、辻野はさっさと前を歩いていく。
押し殺した笑みがバレないようにするには、そうするしかなかったのだった。
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