第6話 放課後 C教室で
茨城県
県南地域に広がる日本第二位の湖「霞ヶ浦」の西端を望むように位置する、人口十五万ほどの街である。
筑浦駅から歩いて約二十分ほどの高台にある
昭和初期に建てられた二階建ての木造校舎だ。
本校舎が建てられて以来、幾度もの取り壊し計画が立ったが、二千年代前半から長きにわたった混乱や、世界的な資材不足で新校舎建設が遅れた影響で、その計画は何度も延期されていた。
それどころか、近隣地域の人口増や、学校運営体制の大規模刷新を起点とした生徒数の増加といった事情もあり、大規模な修繕や耐震工事に加え、ネットワーク設備や冷暖房などの近代的な改修が施され続け、つい最近まで現役の校舎として使用されていたのだった。
三年前に新校舎ができたことで、ようやく校舎としての役割を終え、建物内のほとんどの教室が用具置き場となっている。
一階の長い廊下の奥には、教室二つ分ほどの大きさがある図書室が位置している。
現在は新校舎内に作られた近代的な造りの「新図書室」に主役の座を譲り、「旧図書室」として、貸し出しの少ない本などを所蔵する書庫としての役割となっていた。
城戸という女子生徒が久遠の元を訪ねてきた翌日の放課後。
旧校舎に着いた久遠は、少し緊張した面持ちで辺りを伺うと、生徒証アプリを操作する。
施錠システムにスマートフォンを近づけると、認証を知らせる電子音が鳴り、鈍い金属音とともに扉の鍵が開いた。
旧校舎には生徒が無断で立ち入ることを防ぐために、電子認証による施錠がされている。
もっとも、新校舎ができてからは校舎の空き教室が多く開放されていることもあり、教室を放課後の憩いの場所として使う生徒達の間では、綺麗でエアコンの効きがいい本校舎や新校舎の方が人気があった。
そのため、旧校舎を訪れるのは用具や資材を出し入れする教師や生徒会、旧図書室に出入りする久遠をはじめとした一部の図書委員くらいだった。
久遠自身も、これまで旧校舎に出入りする生徒を見たことが無かった。
「それにしても。」
入口の施錠操作をしながらつぶやく。
「城戸さん、何の用事だろう。」
一晩考えてみたものの、何も心当たりは無かった。
入学以来、一度も話したことがなければ、顔を合わせたことすらない。
図書室には毎日のようにカウンターにいたが、彼女が訪れたのを見たことがなかった。
誰もいないところで、何か秘密の話がしたいということだろうか。
「まさか……。」
いやいやいや。
考えるだけバカバカしく、なんだか悲しくなってしまう。
会ったことも無ければ、話したこともない。
あんな学園のアイドルみたいな子が、僕のような生徒に興味を持つと考える方が不自然だ。
それに何か話があるのなら、昨日のうちに、誰もいなかった新図書室で話をした方が良かったはずだ。
ならば、手の込んだサプライズで驚かそうとしている、というのはどうだろう。
でも、何のために僕を?
入るだけでいくつもの申請が必要な旧校舎で?
それもない。
久遠は小さくため息をついた。
そう頭を巡らせているうちに、C教室にたどり着いてしまった。
その教室は、旧図書室の隣に位置している。
ちらりと目をやると、旧図書室の中は暗く、入り口は閉ざされていた。
篠宮先生は今日もいないようだ。
「考えてても仕方ないか。」
久遠は意を決して、C教室の扉をそっと開くと、中を覗った。
一階の教室群は資材置き場となっていたが、C教室には机と椅子がそのまま残されていた。
必要な場合は授業ができるようにということだが、ここ数年は全く使われていなかった。
木枠の窓からは夕方の光が差し込み、木目がしっかりと残る木組みの床に、年季の入った机と椅子が三十組ほど並べられている。
まるで数十年前の教室にタイムスリップでもしたような気持ちになった。
教室の中央に目を移す久遠の視線が止まる。
「!」
机を並べて作った大きなテーブルを囲むように、四人の生徒がこちらを見つめている。
椅子に座ったままこちらを見ている女生徒は、昨日新図書室で会った城戸という女子生徒であることはすぐにわかった。
彼女と向かい合わせの位置には、眼鏡の奥から鋭い視線を投げかけている黒髪の男子生徒がいる。
奥には長い黒髪が印象的な細身の女子生徒が、胸の前で手を組んでこちらを見つめている。
その女生徒に寄り添うようにして立っているのは、長身のがっしりした体躯を制服で包んだ男子生徒だ。
予想外の展開に、久遠は入り口から一歩踏み入れたままの姿で固まっていた。
「
あかりに促された美しい女子生徒が、すらりと伸びた腕で何かを取り出し、構える。
「えいっ!」
パン!
クラッカーの乾いた音が教室に響き渡る。
予想以上に遠くまで飛んだリボンと紙吹雪が、久遠の頭と制服にはらはらと降り注いだ。
教室に四人の拍手が響く。
久遠は完全に硬直したまま、ぼんやりと四人を眺めていた。
硬直したままの久遠にあかりが近づくと、がっしりと彼の右手を両手で包む。
びっくりするほど柔らかな手と、それに似つかわしくない凄まじい握力に、久遠は思わず声を上げそうになった。
昨日図書室で見た時とは違って制服を着崩した彼女は、ブラウンの柔らかな髪を揺らし、活き活きとした瞳でこちらを見据えてる。
リボンタイは外され、ブラウスの胸元はボタン二つ分開いている。
「お礼を言いたかったの。和泉久遠君。」
「え、な、何の?」
「良子を助けてくれたでしょ?」
目を丸くしている久遠の左手も手に取り、両手で思いきり握りしめる。
「君、すごいね! あたしは
一瞬何を言っているのかわからなかったが、脳裏にあの夜の光景がよぎる。
「み、見てた……んですか。」
「見てたよ。一番近いとこでね。」
あかりが力強い笑顔を見せる。
「私も研究所のモニターで見てました!」
クラッカーを手にしたまま微笑んでこちらを見ている女生徒。
「申し遅れました。私、
スッと背筋が伸びた細身の身体と、腰まである艶やかな長い黒髪が印象的な子だ。
「和泉さんが篠宮先生を助けるところを見て、本当に感激しました…!」
「拙者も感服いたした。勇敢だったでござるよ。」
(拙者?ござる?)
確か三組の
先月の体力測定で凄い結果を出し、クラスメートに騒がれているのを見たことがある。
恵まれた体格と運動神経で多くの運動部から誘われたが、全部丁寧に断ったと聞いた。
「大進くんは忍者なのでこういう話し方なんです。」
諏訪内静香がニコニコしながら慣れた感じで説明する。
(え、忍者?)
「拙者は滝川大進。忍者の末裔ゆえ、このような話し方なのでござるよ。よろしくお願いするでござる。」
呆気に取られている久遠の姿をよそに、話を続ける。
「それにしても、あのようなことは誰にもできることではござらん。大したものでござるな。」
大進は腕を組んで深々と頷くと、隣の静香も共に、うんうんと頷く。
「……。確かに、あんな無謀な真似は誰にもできんな。」
低く鋭い声が教室に走る。
深い黒色の髪。銀の細いフレームの眼鏡をかけ、その下には切長の眼が光っている。
机の下で両手に握られているのは、黒色のポータブルゲーム機だ。
城戸あかりが呆れ顔で声をかける。
「
「あの無謀が無ければ、篠宮先生も無傷じゃ済まなかった。」
彼の端正な口元が続ける。
「初めて見た相手に丸腰。まさに無謀だ。しかし、誰にもできることじゃない。」
「全く……その言い方。」
あかりがため息をつく。
大進と静香が小声で、あいさつ、あいさつ、と促している。
「
一真は小声で名前を告げると、ほんの少し頭を下げた。
新誠学園高等学校きっての秀才。御堂一真。
中学時代は生徒会長を務め、所属する剣道部を全国優勝に導いたという。
学校事情に疎い久遠ですらその名前を知っているほどの人物だ。
一体、どういう組み合わせなのだろう。
「ところで、その。」
あかりに引っ張られるようにしてテーブルに来た久遠がおずおずと口にする。
「皆さんは、ここで何を……」
久遠の小さな声に、静香が待ってました、と言わんばかりに答える。
「お茶会です!」
いつの間にかテーブルには大きな格子状のクロスがひかれ、大進がいそいそとティーセットを並べている。
「今日はとっておきのウバを用意したんですよ。」
「ウバ……。」
「セイロンの紅茶でござったな。」
大進の言葉に笑顔で頷きながら、静香は待ちきれない様子で茶葉の缶を開け、慣れた手つきでティーポットに茶葉を入れていく。
お湯を注ぐと、教室が爽やかな香りで満たされていく。
「いい香り……。ところで静ちゃん、今日のお菓子はひょっとして……。」
「はい。特別なのを作ってきましたよー。」
静香の端正な顔が綻ぶ。
大きなバッグから、三〇センチほどの白いケースを取り出す。
中を開けると、黒いチョコレートで覆われたホールケーキが姿を見せた。
「ザッハトルテだ!」
あかりの弾んだ声が教室に響く。
「ホイップクリームも持ってきました。」
「ああ、もう大勝利の予感しかしない…。」
待ちきれずに覗き込むあかりの横で、静香は切り分けたザッハトルテを皿に乗せていき、丁寧にホイップクリームを添える。
砂時計の砂が落ちるのを確認すると、ティーポットを傾け、ティーカップに注いでいく。
流れるような所作が美しく、久遠は思わず見惚れている自分に気がついた。
「まずはお客様から。」
静香はそっとティーカップを差し出す。
「私たちの篠宮先生を助けてくれて、本当にありがとうございます。」
久遠は彼女の笑顔に、小さく頭を下げる。
(ぼんやり気がついてはいたけど、みんな篠宮先生と何か関係があるのだろうか。)
ティーカップにおずおずと口をつける。
「…! 美味しい。」
「でしょ! 静ちゃんの紅茶は本当に美味しいんだよね。」
傍ではティーポットを持った静香が照れ笑いをしている。
「淹れるの凄い上手だし綺麗だし、毎回見とれちゃうの。」
「お前が淹れると雑だけどな。」
「は? 一真、その情報いる?」
久遠は目の前のザッハトルテに小さなフォークをあてる。
外側を覆うチョコレートにしっかりと厚みがあることがわかる。
口に入れると濃いチョコレートの甘みが広がり、ホイップクリームの柔らかな味が加わって二重奏となる。
「凄い…。美味しい以外に言葉が出ない……。」
「良かった。」
静香が微笑む。
「でしょ!もう、お金取れるよね。」
ケーキを口にしながら朗らかに笑うあかりの姿は、図書室で見た真面目な優等生という雰囲気からは、想像できないほどかけ離れているように思えた。
その時、入り口の戸が音を立てて開いた。
「みんな、楽しくやってるね。」
「篠宮先生!」
そこには、長い髪を後ろで束ね、ベージュのカーディガンを着込んだ篠宮良子の姿があった。
ザッハトルテの載ったお皿を持ったまま、思わず固まる久遠。
そんな彼の姿を見つけると、篠宮良子は少しだけ微笑んだ。
「私も混ぜてもらおっかなー。」
篠宮良子はテーブルに近づくと、椅子を引いて、あかりの隣に陣取った。
「先生の分もありますよ。」
「やったー、ザッハトルテだ!」
「久しぶりに作るので、オリジナルレシピ見ながら頑張ったんですよ。」
「美味しい! 本場の味がするね。向こうではあまり食べられなくてさ。」
軽口を言いながら、静香やあかりと笑い合う篠宮良子の姿を、久遠は目を丸くして見ていた。
考えてみれば、久遠は旧図書室でぼんやりしている姿の良子しか知らない。
久しぶりに見る良子が元気そうにしているのを見てホッとする反面、何だか心の奥が少しだけ寂しいような、不思議な感覚に襲われていた。
久遠の表情を見て取ったのか、良子はお皿を置いて久遠に話しかける。
「えっと……何だか久しぶりね。元気?」
いつもの表情にホッとする久遠。
「あ、は……はい。篠宮先生も、お元気そうで……。」
「ん?」
城戸あかりがお皿とフォークを持ったまま、怪訝そうな顔をして口を挟む。
「良子、まさかあれから久遠君と会ってなかったの? 何で?」
「それはその。」
「それはその、何。」
篠宮良子の白い頬がほんのりと赤く染まっていることに気がついた。
「……なんかその、会いづらいっていうか、顔合わせずらいっていうか……。」
「乙女か!」
「みんなが久遠君に会ってみたいって言ってくれたから、その時でいいかなーって。」
指をいじりながら照れ笑いをする良子に、あかりが口を尖らせる。
「呆れた。生徒をダシに使う先生っている? その前にちゃんと説明しなきゃダメじゃない。」
「うう、そうよね……。」
「まあ、会ってみたいという話をしたのは事実でござるし、あれから色々あったでござるからな。」
大進がそっと助け舟を出す。
「それで、和泉さんをいつものお茶会にお誘いしたら?って提案したんです。」
「静ちゃんはいつも良いことを言ってくれるのよね。」
あかりがまるで自分のことのように自慢げに頷く。
「何にしても、あかりちゃんが一番楽しそうで、よかったです。」
「ん?」
「自分からサプライズで図書室にお誘いに行ったり……。」
あかりは急に声のトーンが下がっていく。
「あれは……行きがかり上っていうか。誰かが話をしに行くしかないじゃない?」
久遠の脳裏に、固い表情をした新図書でのあかりの姿が浮かぶ。
「わざわざ可愛いメモ買いに行ったり、何回も書き直してたりしてたわよね。」
良子が紅茶を片手にザッハトルテを美味しそうに頬張りながら口を挟む。
「今の流れで、良子がそんなこと言う!?」
「すまんが、そういう青春とかは他でやってくれないか。」
「あんたは黙ってなさい……!」
顔を赤らめたあかりが一真を一喝する。
「とにかく。」
あかりは紅茶をグッと飲み干す。
「久遠くんは、あたし達の良子を守ろうとしてくれたんだ。」
あかりの脳裏に、あの夜の焦燥が蘇る。
訓練中に感じた地震と、研究所に響く警報の音。
心配に胸が押しつぶされそうになりながら、地下通路を駆けたこと。
ディスプレイに映った巨大な紫色の影と、それに相対する良子の背中。
そして、何の装備も持たない丸腰の生徒が道を引き返し、良子の元に全力で走っていく姿。
「だから。」
空になったティーカップを両手でしっかり包み込んだまま、あかりは両の瞳でしっかりと久遠を見つめた。
「何の説明もせずに黙ってるなんて、できないって思っちゃったんだ。」
「城戸さん……。」
久遠はあかりのブラウンの瞳から目を離せずにいた。
大進が少し微笑んで言葉をかける。
「あかりの真っ直ぐなところには、いつも助けられるでござるな。」
「大進くんはいつもサラッと照れること言うよね。」
あかりは恥ずかしそうに笑う。
少し間をおいて、篠宮良子が口を開いた。
「本当にそうだわ。ありがとう、あかり。」
「良子……。」
良子は久遠の目をじっと見つめる。
「和泉久遠君。」
「はい。」
「改めて、あなたに話したいことがあります。この話をすることは、私たちの仲間全員が納得していることです。ただ……」
久遠が息を呑む。
「あなたには『聞かない』という選択もあると思っているの。」
あかりは膝の上で軽く拳を握り締め、久遠を見つめる。
他の三人も黙って彼に目を向けている。
「正直、聞かないほうが、今までの生活は送りやすくなるから……。」
良子が続ける。
「聞いてしまったら、気持ち的に戻れないかもしれないじゃない? フェアじゃないと思うの。」
久遠は、これほどに張り詰めた表情で自分を真っ直ぐに見つめてくる篠宮良子を見たことがなかった。
それはまるで知らない人のように見えた。
でも、不思議だ。
彼を見つめているその真剣な両の瞳を、久遠はずっとずっと以前から知っていたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます