第2話 常闇坂の襲撃

「もう五月なのに、夜はまだ寒いね。」


 春物の薄いコートに身を包み、大きな布製のバッグを提げた良子。

並んで歩くのは、制服姿の和泉久遠だった。


「ごめんね。こんな時間まで付き合わせちゃって。」

「いえ、久々に先生と図書委員会以外の話もできて楽しかったし。先生がタナマリを聴いてたの意外でした。」


タナマリこと『La mariée de Thanatosラ・マリー・タナトス』は、七年前にデビューして以来、退廃的な歌詞と、管弦楽を組み合わせた高い音楽性が強い支持を受けているビジュアル系バンドだ。


「久遠くんが聴いてたのが意外で、びっくりしちゃった。」

「何年か前に配信で聴いてからすごくハマっちゃって。そうだ、こないだ歌番組に出てましたよ。ほら、懐メロの……。」

「懐メロかー。」


良子はちょっと恥ずかしそうに笑った。


「私がタナマリを聴いてたのって、まだここの学生だった時だからなー。今の高校生も聴いてるなんて、田中くんも喜ぶでしょうね。」

「田中くん?」

「ベースのミシェル。いつもPVで薔薇を咥えてる人。実家の近所に住んでたんだよ。」

「ええ……! 今すごい情報を聞いたような。」

「テレビで見ると今でも、お豆腐屋の田中くんだーって思っちゃうのよね。」


そう言って良子はいかにも可笑しそうに笑った。

良子はまるで以前からの友人でも相手にするように気さくに話してくれる。

久遠にとっては、入学して出会ってからまだ2ヶ月しか経っていない上に、彼女は自分より七つも上の司書教諭だ。

それなのに、彼の横で屈託なく笑う良子の姿を見ていると、まるでずっと昔から知っているようにさえ思えていた。


二人で歩くこの道が、もう少し続けばいいのに。

良子の横顔を見ながら、久遠はそんなことを考えていた。


 久遠が図書委員として手伝う旧図書室の蔵書整理は、月に二回ほど。

蔵書整理の後は、室内の一角にある司書教諭室でコーヒーを飲みながら取り止めのない話をして、学校から家路に向かう短い距離を篠宮良子と一緒に歩くのが恒例となっていた。


高台にある校舎から通学路を十分ほど歩いたその先に、「常闇坂」と呼ばれる長い坂道がある。

雑木林と古い石垣に挟まれた細い坂道だ。


市内のマンションで一人暮らしをしている良子と一緒に歩くことができるのは、坂を降りたところのT字路までだった。


「じゃあ、久遠くん。次は来月だね。」

「はい。篠宮先生、カステラ美味しかったし、その……楽しかったです。ありがとうございました。」


良子は微笑んで彼の顔を覗き込む。


「楽しかったね。また一緒に食べよ。」


少し頬を赤らめた久遠に、良子は笑顔を見せた。


雲間からの薄い月明かりが二人を照らす。

そのわずかな光が弱まり、辺りを暗がりに飲み込もうとしていたその時だった。


「……!」


久遠が額を抑える。


「どうしたの? 久遠くん。」

「いえ、なんでもないです。少し頭痛が……。」

「……大丈夫?」


良子は心配そうに彼の様子を伺う。

元々白い彼の顔は蒼白となり、うっすらと汗が滲んでいた。


「大丈夫です、すぐ収まります。ただ、今日は地震が来ないといいんですが……。」

「え?」

「こういう頭痛の後、小さな地震が来ることがあるんです。」


久遠の言葉に、ふと黙り込む良子。

その顔は少し青ざめているように見えた。


次の瞬間、強い衝撃が二人の足底から突き抜けていく。


「地震!?」


久遠が思わず声をあげる。

辺りの電線が大きく揺れ、木々が騒めいた。


「本当に地震きちゃいましたね。でもあまり大きくなさそうでよかっ…」


久遠がそう声をかけるや否や、良子は久遠の手首を思い切り掴んで引き寄せた。


「学校まで走って。」

「え?でも地震はそんなに……」


常闇坂を覆うような雑木林の奥で、木々が押しつぶされるような音が聞こえてくる。

音の中心からは、不可解なほど濃い闇が広がり、木々を覆い隠していく。


「まさか、こんなところで……!?」


彼女がそう口にすると同時に、携帯の着信音が鳴り響いた。

良子はバッグから素早くスマートフォンを取り出すと、久遠の手を掴んだまま踵を返し、常闇坂を早足で登っていく。


「あかり? 今どこ?」

「アリーナで訓練中。良子こそ何処にいるの?」

「常闇坂の近くよ。場所はGPSで拾って。」

「……奴のすぐそばじゃない! 二週間後じゃなかったの?」

「その話は後にしよ。緊急調査の準備をお願い。指揮は真美にしてもらって。」


良子が足を早める。


「了解。地下道G16が近いからそこから出る。なんとか逃げきって!」

「わかった。あかりも無理しないでね。」


良子は通話を切ると、バッグにスマートフォンを戻した。


常闇坂は久遠が通う新誠学園高等学校の通学路となっている。

朝夕は大勢の高校生が通っているが、今は良子と久遠の姿しかなかった。


良子は久遠の左手首を掴んだまま坂を駆け上がっていく

彼女の浅い呼吸が聞こえる。

普段の姿からは想像できないような強い力で握りしめるその手は、陶器のように青白く見えた。


その時、足元から伝わる地響きと共に、不可解な轟音が坂の下から聞こえてきた。

アスファルトを砕き、樹木を薙ぎ倒す重機のような音。


久遠が振り返ると、闇の中で巨大な影がうごめくのが目の端に映った。

全身の毛が逆立つような感覚を覚える。

本能的な何かが全身に危険を知らせている。

巨大な足音が想像以上に早く近づいてくることが、全身を包む恐怖感を煽っていた。


「間に合わない……! 久遠君、そのまま走って!」

「……でも!」

「逃げて! 早く!」


良子は久遠の手を離すと、バッグから金属製の小さな筒を取り出した。


闇の中から迫ってくる巨大な存在は、まるで迫り来る一枚の壁のように見えるほどだ。

坂道に並んだ街路灯がその姿を照らし出す。

走りながら振り返る久遠は思わず息を呑んだ。


見上げるような巨大な体躯。

隆起した濃い紫色の筋肉を覆う銀色の装甲。

兜で覆われた顔から覗く口には無数の牙が並ぶ。

面頬についた亀裂のような覗き窓には、紫色の光が宿っていた。


「……………………!?」


絶句する久遠の視界に入った異形の姿。

それは機械のようにも、生物のようにも見えた。

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