境界のリグレット

中条優希

第1話 放課後の図書室

「良子、君はいつも寝ているな。」


 私はこの声を知ってる。


幼い声。

なのに真っ直ぐで力強い。


まだ何も知らない年頃なのに、まるでこの世の全てを知っているように話す。


ちょっと生意気。

だけど可愛らしい。


私はその声に向かって手を伸ばす。


伸ばしたはずの手は淡い雪のように闇に溶けていく。

発したはずの声は、空気を震わせることはない。


ああ、またいつもの夢だ。


そう自然に思えるほど、繰り返し見た光景だった。


遠くで何かが聞こえる。

深い闇の中で、自分の感覚が戻ってくるのがわかる。


眠りにつくとき。

目覚めるとき。


夢と現実の境界を越えるその時間は、いつも懐かしさと後悔を伴っていた。

 

   ◇


 時計の音が聞こえる。


新誠学園しんせいがくえん高等学校の旧校舎。

その片隅にある図書室で、長く時を刻み続けている古い壁掛け時計の音。

遠くで、本を積み重ねる聞き慣れた音がする。


篠宮良子しのみやりょうこは、司書教諭室の古い仕事机からゆっくりと身体を起こした。


「篠宮先生?」


彼女に声をかけたのは制服姿の男子生徒だった。


久遠くおんくん。」

「起こしちゃいましたね。すみません。」


和泉久遠いずみくおんは、両手に抱えた本を丁寧に書庫行きのカートに載せた。

小さく息をついて顔を上げると、柔らかな黒髪が揺れる。

彼は綺麗な蒼色の瞳で、良子に微笑みかけた。

彼女は笑顔で答えると、椅子に座ったまま身体を伸ばす。


「ごめんね。もう始めちゃってた?」


ようやく現実世界のピントが合い、目が覚める寸前まで感じていたことが、遠く離れていく。


「端の棚まで終わったので、今日予定していた蔵書整理は終わりです。」

「え、本当に? じゃあ、私は本の補修をしようかな。」


良子が言い終えるや否や、久遠は申し訳なさそうに、三冊の本を差し出す。


「この間全体告知をしてから、本の扱いがすごく良くなってて。今月はこれだけです。」


本の背を見ると、丁寧に補修がされていた。


「さっすが。じゃあ……私、コーヒーでも淹れてくるね。」


良子が椅子から立ち上がって目に入ったのは、すでに湯気を立てているコーヒーポットと二つ並んだコーヒーカップだった。


「もう、久遠くん。私のやることないじゃない。」


彼女は笑いながら、彼の肩を小さな手で叩いた。

まだあどけなさが残る顔で、少し恥ずかしそうに俯く久遠。


「なんだか、すみません。」

「何謝ってるの。ずっと寝てたの私なんだから。……そうだ!」


良子はくるっと身を翻すと、久遠の目を覗き込んだ。

彼女の悪戯っぽい表情と美しい瞳に、彼は思わず目を逸らしてしまう。


「とっておきのカステラ切ってあげる。真美がわざわざ福砂屋で買ってきてくれたんだ。」


深い栗色の髪を後ろでまとめ、ところどころ毛がほつれたベージュのカーディガンを羽織った細い身体が、久遠のすぐ横を通り過ぎる。

彼女が取る独特の距離感は、少なからず彼の心を揺らしていた。


「長崎で学会だったんだってー。」


良子はいそいそと冷蔵庫を探っている。

久遠はその姿を見ながら少しだけ笑顔を見せると、窓際にある食器棚に向かった。


「篠宮先生、お皿とフォークを出しておきますね。」


ガラスの戸棚に手をかけた久遠の手が止まる。


(なんだろう……?)


不意に訪れた不思議な感覚に、彼は思わず胸に手を当てる。

なんとも形容し難い、あえて言葉にするなら、胸の奥に潜んでいる何かが呼んでいるような感覚だった。


久遠は窓から空を見上げる。


窓の外には五月の夜空が広がり、厚い雲の間から星が小さく覗いてた。


「気のせいだといいけど……。」


そう言って彼はそっと窓に手を触れる。

冷たいガラスの感触が細い指先に伝わった。


「久遠くーん、カステラは厚めがいいー?このくらいかなー。」

「あ、今行きますね!」


久遠はそう言って振り向くと、彼女の元へ歩いて行く。


窓の外は静まりかえり、夜の闇に包まれていた。

夜空を飾る月は雲に覆われている。

その隙間からわずかに溢れる月の光が、久遠の後ろ姿を照らしていた。

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