第15話 鬼神との対峙
彼が視界に入った瞬間、ひしめく人波はセラの視界から消えた。その目に映るのは今や、彼と、その彼が携えた刀の長さから推し量れる間合いのみ――
まるで自分も同じだと言わんばかりに、ラディアスはセラの間合いの外で立ち止まった。
――否。
(私の間合いではない。あれは――)
ティルが一歩踏み込めば、刀が相手に届くであろう位置。即ち、ティルの間合いギリギリの位置だった。当然、ティルも気付いているだろう。だが彼はそんなことを億尾にも出さず、戦いなどとは縁のない姫の顔で、穏やかな声を上げた。
「ラディアスお兄様、公務お疲れ様でございます」
ローブをつまんで、ティルが恭しく一礼する。
「当てが外れたな、ティルフィア」
「ええ。折角の留学のお話でしたのに、船に乗れなくて困っております」
ラディアスの言葉は含みを持っていたが、ティルは微笑と共に気付かない振りをした。見事なポーカーフェイスだったが、ティルがそしらぬ振りを続けるのを見るや、ラディアスは単刀直入に切り返してきた。
「お前は聡い。これがただの留学でないことなど気付いているだろう。そして、己の身の危うさもな」
「ではお兄様も、わたくしを討ちに来られたのですか?」
はぐらかせないと悟るやいなや、ティルも何も知らない姫を演じるのは直ぐにやめた。率直な彼の問いに、ラディアスがつまらなそうに吐き捨てる。
「愚問だ」
微笑と無表情の違いはあれど、表情を動かさないことにかけては、互いに同じようなものだった。だが、その感情の動かない鉄仮面のような男から、何の前触れなく殺気が膨れ上がったとき。
反射的にセラは動いていた。忠告を忘れていたわけではない。ティルが常にこちらを制するような気配を送っていたのにも気づいていた。それでもセラは動いていた。ただ、ティルを庇うようにしてティルの前に進み出ただけの僅かな動き。剣の柄に右手をかけて、だがまだ抜いてはいない。ラディアスも依然として殺気を発しながら、微動だにしない。
一触即発。その極度の緊張を強いられる状況で、おそらく自分より強いであろう相手と対峙して、だがセラは畏怖してはいなかった。
「……良い眼をしている。威勢が良いのも結構だ。だがそれでは早死にすると忠告しておこう。異国の騎士よ」
ラディアスの黒い双眸が、はっきりとセラを捉える。まだ彼は動かない。
殺気だけでは、人を殺すことはできない。だがこの男ならそれが成せるのではないかと錯覚しそうなほど、鋭いプレッシャーを感じる。それでもセラは怯まなかった。
「では貴方は、死を恐れて王命を放棄すると?」
静かにセラが答えると、それに応じたかのように、殺気は綺麗に消えた。
「愚問だな。いや、愚かしいことを言ったのは私の方だったようだ」
ラディアスの表情が、ほんの僅かに揺れた。セラにはわからなかっただろうが、笑ったのだとティルにはわかった。ほっと息をつくと同時に、珍しいことだと驚く。
「最初に愚問だと言ったのは、私は王命によってのみ動くからだ。ティルフィア、父上が望まぬ限り、私がお前に刃を向けることはないだろう」
「それを聞いて安心しましたわ。わたくしもお兄様とは戦いたくないですもの」
「そうか。だが私はお前を討ちたいと思っている」
母が違い、歳が遠いとはいえ、実の兄が口にするにはあまりな言葉にセラは眉をひそめた。だがティルは失望や悲しみを見せるどころか、微笑んだままでうなずいて見せた。
「ええ、そうでしょうね。リルドシアを守るお兄様が、この国の秩序を乱すわたくしを討ちたいと思われるのは当然のことですわ」
どこまでも穏やかな笑顔を絶やさないティルに、むしろセラの方が眉を顰めた。ティルの笑顔は演技かもしれない。だが、口にしたことは嘘を言っているようには聞こえなかった。まるで挨拶でもするような調子で当然だとのたまった彼は、本当に当然だと思っているのだろう。
(どのような事情だろうと、肉親には変わりないだろうに――気にならないのか?)
ラディアスの、感情の無い漆黒の瞳の奥にそれを探ろうとする。しかし既に彼は背を向けてしまっていた。
「海路は諦めることだ。お前の敵は多いぞ」
漆黒の青年が去っていって、ようやくセラの視界に人ごみが、そして耳には喧騒が戻ってくる。
突き刺さるような膨大な威圧感が消えた安堵に、セラは長い息を吐いた。その溜め息が重なったのに気付いて隣を見ると、ティルも同様に深々と息を吐き出していた。緊張していたのは彼も同じだったのだろう。
「まったく寿命が縮むよ。セラちゃんは怖いもの知らずだな。俺の忠告聞いてた?」
顔にかかる銀髪を弄りながら、ティルの言葉は茶化し半分、咎め半分だった。対して応えるセラは、至って真剣、だがほんの少し苦笑交じりの顔をする。
「聞いていた。だが、殺気を向けられて黙っているような、名ばかりの護衛でもないつもりだ」
騎士団の誘導で港からは少しずつ人が減り、騒動は収まる兆候を見せ始めている。
「――今はそれよりも、港を出よう。船が出ないなら長居しても仕方ない。ラスとも合流しないと」
「俺はむしろ、いない方がいいんだけどな」
セラそう促すと、ティルはすかさずセラの手を取った。その意図がわからないセラはきょとんとしたが、だがややあって、「ああ」と思い当たったような声を上げる。
「もしかして、ラスに過保護にされてる私のことを心配してくれてるのか?」
「は?」
まったく見当外れのことをさも合点がいったというように言われて、ティルは間の抜けた声を上げてしまった。しかし、溺愛されて育ったティルにとって、見るからに過保護そうなライゼスが煙たいのは事実なのでこの場は合わせておくことにする。
「あー、うん。まあね」
「心配してくれてありがとう。確かに、ラスの説教癖にはうんざりすることもあるよ。だけど苦痛だとは思わない」
しかし、ティルの意に反して、セラはそう答えると苦みのない笑顔を見せた。
「父上や母上と同じで、私にとって大事な家族だから」
「……家族……」
その曇りのない眩しいまでの笑顔を見て、ティルは我知らず呟いていた。
ランドエバーはリルドシアよりもずっと大きな国だ。その第一王女であるセラの重圧や周りからの期待はきっと、計り知れないものだろう。なのにどうして、そうも眩しく笑うのだろうか。
(そして俺は、どうしてそんな風に笑えないのか……)
まるで太陽でも眺めているような錯覚に、ティルは額に手を翳した。しかし手の平越しにセラの不思議そうな視線を感じて、手を下ろす。
「ティル?」
「ゴメン、なんでもない。それよりセラちゃんは、ずいぶんあのボーヤを信頼してるんだな。好きなの?」
突然変わった話題に、セラは一瞬ついていけずに宙を睨んだ。
「ん……? そりゃまぁ、家族みたいなものだから。さっきも言った通り」
「家族かぁ。じゃあまだ俺の入れる隙はあるかな?」
ティルが、握ったままだった手に力を込めたそのとき。
「ぅあ熱っ――――ちィ!?」
目の前、胸のあたりで唐突に光球が爆発し、服を焦がして肌を灼く。慌ててティルはセラの手を離すと、ブスブスとくすぶる服をバタバタとはたいた。
「テメェ……いいかげんにしろよコラ!!」
ティルの怒声を受けて、ライゼスが姿を現す。
「いいかげんにしてほしいのはこちらですよ。セラに触るなって言ってるでしょう」
静かな声に限りない怒りを込めて、かざしたライゼスの右手には白い光がまとわりついている。
「人が下手に出てりゃいい気になりやがって!」
「面白いこと言いますね。いつ貴方が下手に出てたって言うんですか?」
「わかった。てめぇとは本気で決着つけた方がいいみたいだな」
「望むところですよ」
ローブの中に隠した刀にティルが手をかける。同時にライゼスが身構える。 そしてセラは、盛大に溜め息をつく。
「目立たないようにしてるって……忘れてるだろ、二人とも……」
リルドシアの青い海の中に、セラの疲れた呟きが落ちて消えていった。
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