ぶっ飛ばし事件

 Photon epoch 3


 耳とか尻尾とか馬鹿にしてんの? 中学部の試験データに静止一二秒があるんだって、そのときまぐれだって言い張ったらしいね。試験の度にわたしたちを笑ってたんだ。第七分類ってことでドラマに出たし、特別扱いして貰えるとか思ってんだろ。優しいし、明るいの、嫌いじゃなかったんだけどな。何であれの父親が生きてて……。

「うへぇ、学校生活が目を離した隙に完全アウェーじゃんこれ」

 卒業試験を三か月に控えたこの時期、遠心科は信じられないほど殺気立つ。元からかなり浮いていることと、アドリアノーヴァに積み重ねられた悪評のせいもある。全てがばれた金曜日から、土日を跨いで月曜日。回りが速い噂により、小学部、中学部、そして数人の高等部を含めて合計五〇人にも満たない遠心科生たちは、完全に毒されてしまった。ひそひそと聞こえる悪口のほかにも、挨拶を無視されたり、わざと肩をぶつけられたりしている。そういうのはやめて! と嫌がらせを跳ねのけながらも、廊下を進むヴェロニカの歩調が、いつもより少しだけ速くなる。関わらないのが吉だ。無事に二人で卒業するためには、トラブルに巻き込まれるのは避けなければならない。

 昼休みになった。冬にしては温かい日差しのなか、どこにも居場所のなくなってしまったヴェロニカは、高等部新校舎一階のコンクリの縁側に腰をかけていた。眼前には運動場。ソフトボールをしている中学部生の数人から、早くいなくなれ! の眼差しが届くが、負けずにキッと睨み返す。トイレとか、空気の悪い場所でご飯を食べたくないので譲らない。学食で買ったコロッケパンはこんなときでも、きらきら輝いている。これから、どうしようかな。色々なことを一旦リセットするように首を振って一口目を頬張ろうとすると、水音がした。上からだ。

 ばしゃぁ。青いバケツがばこんと頭に落ちる。新校舎三階の工芸教室から、生徒の誰かが水をかけてきた。ぺちゃんと湿ったクリーム色の髪。手のなかにあったさくさくの希望は、奇抜なぞうきんみたいになっている。

「こるぁああ! 流石にやりすぎだぞ! 二八〇円返してもらうかんなお前!」

 びしゃびしゃの服のまま、上階が見える位置まで走り、振り返って叫ぶと、同じ高等部の女子が三人いた。どんな意地悪な顔をしているのかと思ったが、みんなしまったという表情で青ざめている。落としたと思しき背の高い真ん中の一人は、バケツを持つ手の形のまま固まっていて、こっそりちょっかいをかけるつもりが、うっかりしましたという様子だ。目が合うと、加害者トリオは一目散に逃げだした。全員当然知った名前だ。正しく教員への報告によって粛正してやるという決意を新たにしたヴェロニカの脳は、しかし、またすぐに別のことに支配された。

 勢いよく踵を返した女子の腕が、工芸室の窓際に置いてあった花瓶を強く押した。ヒトの頭ほどの大きさの陶器が、弾かれ、少しの浮遊のあと、降ってくる。すると、当たる。少し離れたヴェロニカにではない。校舎側に一〇歩ほど進んだ距離。教室から彼女のあとをこっそりつけてきた、車椅子の少女。アドリアノーヴァの頭にだ。白い髪の彼女は、何か考え込むような眼差しをこちらにむけていて、直上の脅威に気付いていない。声をかけても、走っても間に合わない。学校では、試験ドームと訓練ルーム以外での遠心力の行使は固く禁じられている。規則を破ったら退学にされてしまうかもしれない。施設送りになるという恐ろしい話もある。

「くっそ……」

 ドン、と最も避けるべき一歩踏み出す。濡れたクリーム色の髪を逆巻かせ、吹き上がった朱色Vermillionの粒子を纏う。垂直Vertical。地表から引き離す力を、重力と均衡させるV遠心。両手を伸ばし、花瓶が空中に静止した瞬間、ずきんと頭に鋭い感覚がした。バケツ一つでも、三階から頭に落とされれば来るものがある。あいつ、能力を使ってるぞ! 距離の離れた運動場からざわざわとした声が響く。うるさい。痛い。視界が歪む。瞬く間に、ヴェロニカの遠心能力の制御が失われ始める。花瓶が、震えながら数センチ単位の上昇と下降を繰り返す。ゆっくり降ろすことはもう不可能だった。真下のアドリアノーヴァは混乱した様子で、声は届かない。静止物を上に飛ばせば雨避けに張り出した屋根を破壊してしまう。落とさないでいる。そのことしかできなかった。パーカーが全体的に色の濃さを増し、周囲の空間がひしゃげていく。否応なく浮く身体。いつの間にか、ヴェロニカは形成される赤い小さな竜巻の中心にいた。グラウンドから響く悲鳴に、溜まる涙と速まる心拍。加速度的に音量を増す風と共に、V遠心第七分類の脅威が萌芽し始める。

 空想の未来Predictedが見える。力が狂う。新校舎を破壊し、至近距離のアドリアノーヴァに怪我をさせる。その場面は多くの自分を良く思わない人たちに見られている。元凶の女子三人はシラを切り通す。証拠のコロッケパンは架空飾パーカーが生み出した制御不能の力場の圧によって消滅し、服の水気はとんでしまっている。能力の制御が出来ることも知られてしまった。そうなると、わざとだ。わざと能力を行使して、校舎を壊し、他人を傷付けた。退学は免れない。もしかしたらその先も……。

 日曜日に漫画を読んだとき以来、約一四時間ぶりの涙が頬を流れる。哀しい出来事はたいてい突然訪れるということは知っているはずだった。ここまでずっと待っておいて、卒業できなくなってしまうのは、自分か。フタヒメに、お母さんに、お父さんに、店長に、先生。ごめんなさい。


 しかし、ひどく歪んだ視界のなか、間近に声がする。

 眼前。朱色の壁を裂いて、こちらへ伸ばされる指先。


「――僕を騙しておきながら、一丁前にまた泣いているんですね」

 ガシっと、斜め下から両手が掴まれる。校舎の壁面を向いていた視界に、蛍光色Highlighted in yellowのパーカーが割り込んだ。傾斜67度。二つの身体の接触に、同心円状の干渉波を引いて、相克する二色の粒子。突然目と鼻の先に近付いた黒髪の呆れ顔の後ろで、景色が横に流れる。軒先を巡る白いガスの配管、縁側の端の草花、校舎への飛球防止のネット、土の上の朝礼台、ホワイトラインで描かれたソフトボールコート。フタヒメ・ハーレンレファーが何処からか飛んできて、そのまま浮いた自分を掴まえて共に半回転したのだと、ヴェロニカは簡単に気付くことができた。仰角23度、グラウンド側。自らの負った慣性方向に物体を離心する力を行使して、小さな身体を伸ばした同期が、花瓶をとんでもない勢いで射出したことも、また。

 見上げれば、迸るH遠心第七分類。青白い閃光が、中空を貫く一条の軌跡となって、瀬戸内海を奥に控えた運動場を唸らせる。混乱も追い付かないほど、鮮烈な力。摩擦熱で物体を消滅させるほどの推進力は、しかし幸運にも、ソフトボールをしていた何人かの生徒に尻もちをつかせただけに終わった。

 喧騒は消し飛んだ。二人は沈黙のなかに着地する。頭上の眩さが一二月の空気に混じって消え失せ、アドリアノーヴァがいつの間にかいなくなって、日和宮ひよりのみやが駆けつけてくるまでの二分間、フタヒメはもだしたまま、ヴェロニカは何を口に出すことも出来ず、ただお互いを見合っていた。

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