2.日常の終わり
カフェの中は蜂の巣を突いたような騒ぎだった。悲鳴を上げる者、一目散に出口を目指す者、そのパニックをカメラに収める者。
幸い、いち早く駆けつけたヒーローが迅速に対応し、怪我人は出はなかった。名前は、
彼は驚くほどの手際のよさで混乱している客を落ち着け、店主に通報させ、誰も出入りしないよう入り口を封鎖した。
暫くして警察が来た。40代くらいの男と、一回りほど下に見える女性。目撃者は一人ずつスタッフルームに呼ばれ、事情聴取を受けた。
「じゃあ、名前と職業、年齢から教えてくれる?」
エマの担当は女性の刑事だった。黒いストレートのショートヘアにバシッと決まったパンツスーツ。いかにもなキャリアウーマンだが、声色は優しく気遣いに溢れていた。
「エマ・シンプソン、大学生。21歳」
「そうしたらエマ、あなたが見たものを話してくれる?」
刑事は所々で細かい質問を挟みながら、事件のあらましを喋らせた。
「じゃあ最後に一つだけ。被害者の男と会ったことは?」
心臓が体内を跳ねた。
「ないです」
「即答ね」
刑事はエマの反応におもしろそうに食いついた。新しい実験結果を目にした科学者みたいに。
「……変ですか?」
「普通の人は、そんなに自信を持って否定しない。記憶の底をさらって、本当に見たことがないのか、思案してみる」
「……右手がない人なんて……出会ってたら忘ませんよ」
「……そうね。また何か思い出したことがあったら、連絡して」
クレアは外で待っててくれていた。手には茶色い包み紙を抱えている。
「何持ってるの?」
「ウィスキー。飲む?」
それ以降の会話はなく、お互い無言で家に帰った。
部屋に戻り、カーテンを下ろした。何か情報はないかとテレビを点ける。ニュースはあっという間に街中に広がっていた。
「先程、市内のカフェでひとりの男性が亡くなりました。犯人はイービルアイスと名乗っており、警察は街の英雄、
「警察内部からの情報によると、名前を騙っただけの愉快犯である可能性が高いとのことです。しかし、犯人がウェシレーヌの妖精を名乗る動機はわかっておらず、捜査は難航……」
「先程、警察から発表があり、被害者は大手ヒーロー会社、ベル・エンターテイメンツの元幹部、ジェフ・モーロング氏である可能性が高いとのことです。モーロング氏は現CEOマギー・ストーンズと共に、スーパーヒーロー産業の創世記を支えてきた人物で……」
死体になったモーロングの顔が頭を離れない。どうしても事件のことを考えてしまう。モーロング、ジェーン、そしてあの垂幕。やはり偶然とは思えない。
ここから逃げないと。
現金、着替え、パスポート……。目についた物をスーツケースに詰め込み、目的地も決めずに家を飛び出した。
限度目一杯までお金を降ろして、取り敢えずこの街から離れよう。プリペイド携帯でメアリーと連絡を取ったら、逃亡先を手配してもらう。
どこに行こうか。国内はまた見つかるかもしれない。いっそのこと海外まで逃げてしまおうか。ローマがいいな。スペイン階段を見てみたい。名前を変えて、お金が貯まったら今度は顔も変えよう。そしたら……
「こんなことだろうと思った」
アパートの下でクレアが待ち構えていた。
気まずい。
「どこ行く気?」
「ちょっと……出かけるだけ」
「本当にウソがへたね」
ため息混じりにそう言うクレアの顔はなんだか悲しそうだった。そんな顔をさせているのが申し訳なくなる。
「ごめん、今は無理だけど、必ず説明するから……」
「私、兄がいたの」
爆弾発言が足を止めた。知らなかった。兄の話なんて聞いたことがなかったのに。
「品行方正って柄じゃなかったけど、いい人だった……少なくとも私の前では。ある日、兄の仲間が家に来て居場所を聞いてきたの。私は咄嗟に、いないって答えた。それを聞いた兄は、どこか遠くを見つめてて……何か悩んでる様子だった。今日のあなたみたいに」
何も言えなかった。何となく、秘密を抱えてるのは自分だけだろうと思ってた。クレアにそんな過去があるなんて考えもしなかった。
「エマ、何か隠してるのは知ってた。でも言いたくないみたいだったから、私は何も聞かなかった。だけど、もう嫌なの。大事な人が、何も言わずにいってしまうのは……」
知り合ってからおよそ3年。笑顔も、冗談もない親友の本音。自分の身を、本気で心配してくれてる。この人を、裏切ることはできない。覚悟を決めよう。
「ウィスキーまだある?」
部屋に入ってテーブルにつくまで、2人とも一言も発しなかった。
エマは先に座って、クレアが酒を注いでくれるのを待っていた。
グラスを置く音がした。椅子を動かす音も。音が止んでも、どんな顔をしていいのかわからず、テーブルの上の模様を見つめていた。
沈黙が1分ほど続いた後、遂に観念してグラスに触れた。ウィスキーが茶色い氷へと変わる。
「凄い……」
クレアはグラスを爪で突いたり、ひっくり返してみたりしてる。
「どこでこれを?」
大きく息を吸い込んだ。長い長い過去を話すために。
「私の本当の名前は、リリー・ストーンズ。21年前、スーパーヒーローになるために作られたの……実の母親に」
人生最初の記憶は、水槽の中でプカプカと浮かんでいる感触と、ガラス越しにこちらを見つめる白衣の集団だった。生まれた当時は、母もまだ優しかった。私たちを気にかけてくれて、「きっと優秀な戦士になる」ってよく言ってた。
ずっと施設の中で過ごしていたから、友達もできなかった。遊び相手は双子の妹のジェーンだけ。あの頃のジェーンは、小さくてよく転ぶ女の子だった。いつも後ろについてきて、何をするにも私と一緒にやりたがった。
訓練、勉強、検査。毎日がそれらの繰り返しだった。一番の楽しみは、娯楽として与えられたヒーロー映画。空いた時間には、2人でよくヒーローごっこをしてた。
私たちの5歳の誕生日、この日から全てが変わった。
「今日は特別な日になる」母はそう言ってた。一度も入ったことのない、施設の地下に連れていかれた。長い長い階段を降りて、たどり着いたのは巨大な実験場。様々な種類の計測器やアンテナがいかにもな機械音を放っており、その間を科学者が走り回っている。そして中心には『それ』があった。
エレメントジェム。大人たちはそう呼んでいた。色は、何て言えばいいのかわからない。炎のような赤だと思ったら、海のような青に変わってしまう。そして次の瞬間には夏の葉のような深い緑に輝く。生きている。子ども特有の直感がそう告げた。この塊の中に確かに命を感じる。
『手を触れて』
それが母からの指示だった。私とジェーンは怖がりながらも一歩ずつ、ゆっくりとそれに近づいた。一歩踏み出す度、違った感覚に襲われる。熱かったり、寒かったり、痛かったり。吐きそうになったこともあった。そしてようやく手の届く距離まで来た。近くで見る『それ』はまた別格だった。目を、耳を、鼻を、異なる感覚が同時に襲ってくる。間近で見てようやくわかった。この塊の中には複数のエネルギーが混在している。それらがぶつかり合い、外に出ようともがいている。
「手を当てて」
暴れ狂うエネルギーの塊に触れれば何が起こるのか、幼い頭でも何となく察しがついた。だけど私の右手はスーッと吸い込まれるように真っ直ぐそれに向かって伸びた。そして――
覚えているのは、痛みと苦しみ。まるで灼熱の炎と極寒の冷気に同時に灼かれるようだ。手を離したい。しかし右手は、磁石で固定されたかのようにピッタリとくっついて離れようとしない。左手で右手首を掴み、身体を捻りながら後ろ向きに全力で引っ張る。痛みは皮膚を突き抜けて体内に襲っている。息を吸うたび、肺が焦げつくのを感じる。意識が飛びそうだ。
1分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。身体の一部を引き剥がすような痛みと共に、手が『それ』から離れ仰向けに倒れた。
しかしジェーンは違った。手を離せず、叫び声を上げ続けている。右手は腕の関節部まで『それ』の光に包まれ、顔は恐怖に歪んでいる。背筋が凍った。吸い込まれている。
ジェーンは私を見て、必死に左手を伸ばしてきた。
「助けて!」
私は迷わずその手を握った。ジェーンを通して、また痛みが流れ込んでくる。雄叫びを上げ、力一杯引っ張るとジェーンの身体は思ったよりも簡単に『それ』を離れた。
2人で抱き合うように倒れ込んだ。床は焦げつき、煙が立っていたがあまり気にならなかった。誰かが走ってくる音が聞こえる。意識が飛ぶ直前、右手に目をやると体の内側で何かが青白く輝いた気がした。
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