1.運命からの手紙

 目覚まし時計より先に起きられると、何だか得したような気分になる。

 

 6月8日、エマ・シンプソンの朝は希望と歓びに満ちていた。今日は最高の1日になる。神様からそう言われているような気がする。

 

 ニュースを流しながら朝ご飯。大したことは言ってない。来月公開の映画の話とか、何とかってヒーローが結婚したとか、平和なものだ。話題がオススメのお出かけスポットに差し掛かる頃には、エマの意識はとうにテレビを離れ今日の計画について思考を巡らせていた。


 お気に入りのワンピースを着ていこう。講義が終わったらクレアと外食。空いた時間で課題を進めて、その後は夜までバイト。帰ったらピザを片手に配信中の映画を見たい。

 

 なんだか普通の大学生っぽい。『普通』という言葉に思わず頬が緩む。いい言葉だ。『異常』とか『特別』なんかよりよっぽどいい。

 

 手早く食器を片付け、身支度を済ませる。4年間の一人暮らしで家事もすっかりお手のものだ。

 

 時間に少し余裕がある。寄り道してコーヒーでも買っていこうかな。

「いってきます」

 誰もいない家に声をかけ、エマは外の世界に飛び出した。

 

 ウェシレーヌ大学は、街のメインストリートを突っ切っていった少し先にある。この通りはウェシレーヌの大動脈と言っても過言ではない。大小さまざまなビルが立ち並び、ショッピングモールやオフィス街を形成している。ヒーロー会社や市庁舎などの主要施設も入っている。正に街の心臓部だ。


 通勤通学の時間には人で満たされ、足の踏み場もなくなる。しかし今日は、不自然な空間が生まれていた。まるで何かを避けているかのような。

 

 その男は人通りの中心に、ただ佇んでいた。どこに行くわけでもなく、人波を眺めている。禿げた頭、窪んだ目、骸骨のように痩せ細った身体。着ている服はボロボロだし髪は油っぽい。両手をポケットに入れ、血走った目で何かを探している。道行く人は浮浪者風の身なりの彼に見向きもせず、面倒臭そうに避けていく。しかしただ1人、エマだけが足を止めた。


 足を止めた理由は、その男を知っていたから。ジェフ・モーロング。思い出したくもない、忌まわしい記憶が頭を埋め尽くしていく。街の雑音が遠くに聞こえ、心拍が耳まで響いてくる。危険信号だ。


 何もできずにただ立ち尽くしているエマに、男の目が留まる。こっちを見て、微笑んだ。

 

 悪寒が全身を駆け抜ける。ここから離れたい。あいつの側に行きたくない。


 通学路など忘れて人の波を逆走する。とにかく男から距離をとること、それしか考えていなかった。脇道にそれてからはもう全力疾走だった。後ろを振り返る余裕もない。

 

 呼吸の限界まで走り続けて、ようやく走るのを止めた。男はついてきてない。一先ず呼吸を落ち着かせないと。水分が欲しい。


 気を抜くとどこか暗い所に落ちていきそうな、底知れない不安を感じる。忘れようと努めるほど、脳が5年前のあの日を無理やり思い出させる。髪にかかる生温かい吐息。ねっとりとした声。骨ばった固い指が肌をなぞるあの感触……


「ちょっと、嘘でしょ……」

 水筒の中身が凍りついている。知らないうちに冷気はかなり広がっていたようだ。脇道の雑草に霜が降りている。

 気が付かなかった。いつからだろう?


 周囲に人がいないことを確認する。

 大丈夫、急いでここを離れれば誰にも気づかれない。


「OK、大丈夫よリリー。深呼吸して。ちょっと動揺しただけ。何も心配することはない」

 目を閉じて、呼吸を整える。

 

 モーロングの件は後で考えよう。今はここを離れないと。それと……

 

 携帯の表示は8:56。遅刻確定だ。

 クレアから心配のメッセージが来ている。

『どこにいるの?遅刻?』

『ちょっと遅れる。席取っといて』

 重いため息が出る。今朝起きた時はあんなに幸せだったのに。

 

「何かの間違いで教授が遅刻しますように」

 淡い期待を胸に、エマはまた走り出した。


 

 

「で、何で遅刻したわけ?」

 講義終了直後、クレアの第一声だった。

「……寝坊したの」

 

「その割には、しっかりメイクしてるみたいだけど?」

 

「……メイクしてから……寝坊したのかも」

 クレアはまだ何か聞きたげだったが、話さないと悟ったのか、それ以上詮索しなかった。

「まあ、無事だったんならいいや。お昼行こ」

 

 授業終わりの金曜日のランチは、2人で少し遠出して外食するのがお決まりだ。今日は行きつけのカフェ。木製の家具で彩られた落ち着いた雰囲気、川に面したテラス席。この街でもお気に入りの場所の一つだ。


 天気がいいので、屋根のない一番外側の席へ。注文はサラダトーストと炭酸水。クレアはバーガーとホットコーヒー。


 テラスから見える街の様子は、表とは違って静かなものだ。優雅に流れるウェシレーヌ川に、小船が数隻。河原には、散歩中のカップルがちらほら。川の対岸では、妖精の像の側で明後日のセレモニーの準備が進められている。

 

「もうそんな時期か……」


 3年前、謎のヒーローの手助けによりウェシレーヌ川で4人の少年が奇跡の生還を果たした。人智を超えた力で人々を救う存在に市民は熱狂し、街はスーパーヒーローの受け入れを進めた。

 条例整備、地元企業とのタイアップ、映画のための撮影場所の提供、終いには像まで建てた。

 

 それで毎年この時期になると、氷の妖精の像でヒーローを讃える祭りが開かれる。個人的には、とても祝う気分にはなれない。あの日の決断が生んだ結果を、思い出すハメになるから。


「結局助けた本人は、名乗り出てないっていうのにね……」

 同じく対岸を見つめながらクレアがボソッと呟く。

 

 あの時のヒーロー、アイスフェアリーと呼ばれている人物は未だに正体を明かしていない。世間ではいい噂の的だ。


 大抵の市民は、自身の損得になど縛られない、困っている人を救ける真のヒーローだと讃えている。しかし、警察や企業所属のヒーロー達は、「正体を明かさないのは、何かやましいことを抱えている証拠だ」と非難する。彼らを信じるアンチからはイービルアイス邪悪な氷の魔女って呼ばれている。どうやらコミックのキャラクターからとられた名前らしい。


「ねえエマ、今年はセレモニー来る?」

「いや、行かない」

 クレアは信じられないって顔をしてる。まるで、息子が万引きで捕まったって聞いたときみたいな。


「そんなぁ、今年はサンフレアも来るんだよ! No.1ヒーローが!」


 サンフレアが……?

 ジェーンが……ウェシレーヌに来る……?


 あまりの衝撃に言葉を失った。あの子が来るのなら……尚更家を出ないようにしないと。お見舞いだけ行って、あとは家に引き篭もっておこう。


「ねえエマ……」

「仮にゲストが大統領でも、イエス・キリストだったとしても、行く気はないから」

「これ見て……」クレアはさっきまで飲んでいたコーヒーカップを見せてきた。

 カップから立ち昇っていた湯気は消え、水面には黒い小さな氷がプカプカと浮かんでいる。


 まずい。


 しかし誤魔化しの言い訳をする機会はなくなった。テラス席の真ん中あたりから鈍い衝撃音がした。あちこちから悲鳴が上がっている。


 建物の屋上から、何かがテーブルに降ってきた。『それ』からでる赤黒い液体が、不安とともに床を広がっていく。ボロボロの服、血と油でベタベタになった髪、右腕は……手首から先がない。


 エマの予感は的中していた。今朝の男はやはりモーロングだった。そして、死んだ……目の前で。


 一体誰が?何のために?


 エマの疑問に答えるかのように、建物の屋上から垂れ幕が降ろされた。黒い布に、鮮やかな赤い文字が踊っている。

 

 『FROM EVIL ICE』(イービルアイスより)

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