二章(2)イーディスと……?
デアンはあのうさん臭い笑みを浮かべ、しゃがみ込んで丸くなるイーディスを見下ろした。
「それで、逃げてきた、と」
「戦略的撤退よ」
「御客人に喧嘩を売るなんて、ますますらしくないですね。お嬢様もお嬢様ですけど、イーディスさんもイーディスさんですよ。一体全体どうしちゃったんですか?」
確かにデアンの言葉にも一理ある。イーディスは少し、いや、かなり変わった。
「どうもこうも」とイーディスは答えた。「いろーんなことがあるのよ、人生には、いろんなことが……」
「お嬢様の様子はどうですか」
デアンが隣にしゃがんだ。イーディスは、特大のため息をついた。
「どうもこうも……」
「いろんなことが?」「そうよ」
社交界デビューをめぐる兄妹のあれこれを、今のイーディスに何とか出来ようはずもない。しかもそれは、イーディスがああだこうだと頭を悩ませたり走り回ったりしたところでどうなるとも思えない。乙女ゲームで言えば攻略ルートの外に出られないのと同じだし、もっと大きく物語で言えば、物語の脇道に上手いこと逸れることができないのと同じだ。悪役は悪役のままで、ヒロインはヒロインのまま。それを覆すには……。
「もう、わけわかんないわよ! もう!」
「お悩みですねえ」デアンが頬杖をつく。イーディスはそのそばかすだらけの頬を見た。
「デアンは運命って信じる?」
「あれ。ひょっとして口説いてますか?」
「……聞いた私がばかだったわ。反省してる」
「冗談です」
つくづく冗談が冗談に聞こえない男だ。デアンはちらりとこちらを見て、それから唇を尖らせた。
「僕は基本的に神話を信じないたちなんですけど、たまに聞いてみたくなりますね。どこかにおわす運命の女神さまってやつに」
「運命の女神、さま?」
「そうです。……ほら、このあたりだと
イーディスの脳裏に、養母の言葉が蘇ってくる。流星の降る夜は特別なのだと。その日に生まれた子は、特別なのだと――。
「知らなかった」
「意外ですね。こういうの、女の子の方が詳しいと思ってました」
「信仰に男も女も関係ない」イーディスは膝を抱える。「私がただ、ばかで無知なだけよ」
グレイスフィールはこの世界の信仰についてここまで作りこんでいたのか。その割に、いろいろなところが雑だけれど。イーディスはまたため息をついた。
「私は、知らないことだらけ……」
「まあ……そうですねえ」デアンは何かを探すようにぐるりと厨房を見回した。彼の庭である銀色の厨房、その奥行きを確かめるように。
「どうして僕は男に生まれてきたんでしょうか、とか」
「え?」
「なぜ僕は、貧乏な家の末の子として産まれてきたんでしょうか、とか。……聞いてみたいですね。星辰の女神さまが本当にいらっしゃるのなら」
「――神のみぞ知る」
イーディスの静かなつぶやきに、デアンが目をまるくした。「なに? カニノミソシル?」
「神様だけが知ってるってことよ。……故郷のたとえよ」
デアンはしばらくその言葉をかみ砕くように黙り込んでいた。イーディスは沈黙の中で、途方もない「シナリオの上」の自分を思った。自分に何ができるだろう?
「あ、時間だ。料理長が来ますよ」
デアンが脱いでいたコック帽をかぶりなおし、勢いよく立ち上がる。
「イーディスさんはお嬢様を放り出していていいんですか?」
「あっ。ありがとう、デアン。私行かなくちゃ」
よくない。イーディスは急いで厨房を出て階段を駆け上がった。危なく本来の仕事を放りだすところだった。お嬢様の部屋をノックする。
「イーディス?」
「はい、イーディスです。夕飯のご要望を受け付けに……」
「……その、廊下に……オルゴール、なかった?」
思ってもない言葉に、イーディスはオウムのように問い返した。
「えっ。オルゴール? オルゴールって?」
「ええ、四角い木の箱なんだけど」
イーディスはすかさず過去を遡って記憶の中を漁った。……見ていない。破れたクッションと、ペンと、壊れた目覚まし時計だけ──そういえば、クレセント社の目覚まし時計はイーディスの部屋に置きっぱなしだ。返すタイミングを完全に逃してしまった。……いや、そんなことはどうでもいい。問題はオルゴールだ。
「お部屋の中にはないのですよね」
「ええ……」
イーディスは破れた窓ガラスの向こうを見て──はたと思い当たった。この穴を開けたのは?
「探して参ります。見つけ次第、お持ちしますので」
イーディスは返事も待たず、追い縋ってくる疲れを振り切って、庭へと走った。
わかっている。頭がいっぱいの時は、体を動かすしかない。何ができるか、なんて考えている暇があったら、目の前の人のことを考えたほうがいい。
イーディスは疲れと思考を振り切る勢いで走る。走る、走る。庭に走り出て、破れた窓ガラスの位置を確認しながら、あたりを見渡す。
お嬢様のオルゴールは木の箱。探し物についてはその情報しかない。イーディスはそれらしいものを探し回った。庭といったってそんなに広くない。まさか敷地外に飛んでいってしまったんだろうか? 方向的にはこちらで合っているはずだが……。
植え込みの陰。木のうろ。花壇の中……。エトセトラ、エトセトラ。ひょっとしてと思ってゴミ箱まで漁った。けれど、ない。
「どこ……」
「イーディス、何をしてるの?」
洗濯をしていたアニーとシエラが、桶を抱えてこちらへ向かってくる。
「ア、アニー、シエラ。助けて、手伝って!」
「何事!?」
「お嬢様のオルゴールが見当たらないの。あの窓ガラスをぶち破ったオルゴールよ」
説明しながらもきょろきょろと動き回るイーディスの瞳を、アニーは見つめていた。そして、洗い桶をドスンと地面に置くと、同じように視線を足下に向けた。
「シエラ!先に行ってていいわよ」
「えっ、でも、……もう、ごはんだよ、アニー……」
「じゃあ先に行って。──それとも手伝う? お嬢様のオルゴール探し」
「…………あー、あー、うーっ」
彼女は唸りに唸ったあと、迷いに迷って、アニーにならって桶を放り出した。
「やる!やるよ!わたしもこの家のハウスメイドだもの!」
「いいわその意気よ! ところでオルゴールってどんな形なの、イーディス!」
アニーが叫ぶ。イーディスも遠くから叫び返す。
「木の箱! 木製オルゴール!」
「それだけじゃわからない!もっと、飾りとか、特徴とかないの!?」
「それっぽいものよ!」
「何よそれ!」
──オルゴールを探しに庭を疾走するイーディスの姿を、破れた窓ガラス越しに見下ろす二つの影がある。長身は夕日を浴びて長い影を廊下に落としている。
『あの娘だな』
黒髪の男は窓越しに三人のメイドを、正しくは、二人を率いて庭を捜索しているイーディスを、じっと見つめていた。その隣でヴィンセントが、彼の美しい横顔を伺い見た。カタコトのモンテナ語で問う。
『なにカ?』
男は深々とため息をついた。そして、ヴィンセントの青い瞳をじっと見る。
「オルタンツィア殿。あの女給、使い方、間違っている」
飛び出した確かなレスティア語の流麗な発音に、ヴィンセントは驚いた。不完全ではあるが、意思疎通に問題はない。ヴィンセントは男に甘えて、レスティア語で応じる。
「その……間違っているとは?」
「あの女給、女給違う。もっと、良い、シゴトさせる」
ヴィンセントには全く訳がわからない。言われていることは「理解」できるが、意味がわからなかった。
「……先ほどから、誰のことを言っているんです、ツェツァン殿」
ツェツァンと呼ばれた黒髪の男は、腰元から煙管を取り出した。慣れた様子でガラス窓に手をかけ、火を点ける。
煙が流れていく。
「……さっきの、女給。モンテナ語、話した。あれ、誰だ」
ヴィンセントは深々と考え込んだ。彼の中に、彼女の名前は存在しない。彼の中にあるのは、アーガスティンの同業者達の名。モンテナのあらゆる最先端をゆく企業の名や、その社長の名。そして目の前にいる、ユーリ・ツェツァンの名しかない。いちハウスメイドのことなど、気にかけていられなかった。
「名前までは把握していません。でも、ここ最近自己主張が激しくて、目に余る娘です。私と妹の間のことにまで口を挟み……」
ヴィンセントにしてみれば、考えるほどに忌々しい女だ。
グレイスと自分の間に隠し事などないはずだった、たった二人の家族として生きていくと決めた十年前からずっと、それは変わらないはずだったのだ。
なのに、あのメイドは身分も意に介さず、文字通り割り込んでくる。グレイスと話ができなくなったのは、あのメイドのせいではないだろうか……? あんな提案を呑むべきではなかった。三日も猶予を出すまでもなく、即座に首を切ればよかったのだ。そうすれば人件費が浮いたのに。
今朝方のメイドの振る舞いを思い出して、ヴィンセントは低い声でツェツァンに告げた。
「……あまりにわきまえていないので、暇を出そうかと思ったところで、」
ヴィンセントはそこまで言ってから、話を切った。
「失礼しました。愚痴を聞かせてしまって。忘れてください」
ツェツァンは気にした風もなく、煙管から口を離した。そして、ふうと息を吐く。
「じゃあ、いらないか?」
「え?」
ヴィンセントが戸惑っていると、ツェツァンはポケットの中に手を突っ込み、その中のものを確認するように握り――さらに踏み込んできた。
「あの、女給、いらないか? いらないなら、ワタシの会社にほしい」
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